日刊幼女みさきちゃん!

下城米雪

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第二章 仕事と子育て

プールに行った日(決意)

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 昼休憩。
 保護者達で協力してまだまだ遊び足りない子供達を宥め、休憩所へ向かった。

「……もえつきました」

 ぐったりと呟いたゆいちゃん。
 最初は腰に装着していた浮き輪を今は左手で抱えている。浮き輪に描かれたヒマワリは、元気が無く萎れているように見えた。

 あのあと必死に頑張ったゆいちゃんだったが、残念ながら泳げるようにはならなかった。しかし、まだチャンスはある。午後は気を取り直して頑張ってほしいところ。
 
 一方でみさき。泳げるようになった直後は少し嬉しそうだったが、そのテンションは長続きしなかったようだ。今は心配そうな目でゆいちゃんを見ている。

「まだー?」

 我慢できなくなったのか、どこかの子供が大きな声で言った。
 休憩所には、少なくとも百組は座れるくらいの机が並べられている。それに対して売店は二つしかない為か、とても長い列が出来ていた。この売店は食券を買うタイプだから、もちろん食券の列にも並び、その後で売店の列に並んで今に至る。大人の俺ですら待ち時間が長いと思うのだから、子供にとっては尚更だろう。

「あの、私が持っていきますので、子供達と一緒に他の所へ行ってきてください」

 と提案したのはてっちゃん。

「いえいえ、大丈夫ですよ」
「まだ長いでしょう。入り口の所にあった階段の近くで待っているので、三十分くらいしたら来てください」

 でも、と遠慮する保護者達。
 背中を押したのは、ママいこー、と手を引く子供達だった。

「すみません……」

 と一礼する保護者の足元で、子供達もコミュニケーションを取る。

「パパ! ボクもあそびにいっていい!?」
「いいよ、行ってきなさい」

 クイっと腕を引いて尋ねた男の子に、てっちゃんは優しくゴーサインを出した。男の子は全身を使って喜びを表現すると、離脱組と一緒にどこかへ向かった。

「天童さんも、行ってきてください」
「いえ、俺は残るっす。みさき達も……特に、ゆいちゃんが疲れてるみたいなんで」

 言って、足元でグッタリしているゆいちゃんに目を向ける。

「そうですか」

 てっちゃんはゆいちゃんを見ると、いつもの存在感の薄い笑みを浮かべて、目を前に戻した。丁度その時、列が少し動く。一歩先に進んだてっちゃんに続いて、俺も一歩進んだ。それ続いて、みさきに押されたゆいちゃんも一歩進む。

「まだまだ長そうっすね」
「ええ、そうですね」

 二言ほど喋った後、会話が途切れる。
 列に残った子供はみさきとゆいちゃん。
 大人は俺とてっちゃんと、知らない男親が二人だ。彼等は面識があるのか、先程から楽しそうに話をしている。俺も彼等と挨拶だけはしたが、積極的に声を掛け合うような間柄では無い。俺が声をかけられる相手はてっちゃんだけだ。

 ……丁度いい。

「てっち、違う、名倉さん、ひとつ聞いてもいいっすか?」
「はい。なんでしょう?」

 まだまだ長い列の中。周りから聞こえて来る様々な音。しかし今だけは、俺とてっちゃんしか居ないかのように、互いの声がすっと耳に入った。

 俺は確かな緊張を持って、しかし軽い口調で、その言葉を口にする。

「なんで、子供と距離感あるんすか?」
「……」

 あまりにストレートな聞き方で驚かれたのか、それとも意味が伝わらなかったのか。

「上手く言えないんすけど……話してるとこ見て、なんか距離感あるなって思いまして」

 てっちゃんは表情を変えない。
 それはそうだ。何の脈絡も無く、ちょっと話しただけの他人からこんな問いかけをされたら、誰だって表情を失うだろう。むしろ怒られないだけマシなくらいだ。失敗した、完全に失言だった。

「……すいません、たぶん気のせいっす。忘れてください」
「いえ」

 微妙な空気に耐えられず、俺は話を無かったことにしようとした。
 しかし、てっちゃんはそれを拒む。

「天童さんは、正しい。その通りです」
「……えっと」
「私は息子に遠慮しているのかもしれない」

 息を飲んだ。
 てっちゃんが何を思ってそれを口にしたのか、表情からは伝わってこない。
 だけど、確かな重みを感じさせる声だった。

「私には大きな、ちょうど天童さんと同じくらいの娘がいます。精一杯の愛情を注いで育てたつもりでしたが、干渉し過ぎたのかもしれません。今では、すっかり嫌われてしまっています」

 言い淀むことなく、表情ひとつ変えないままに、てっちゃんは言う。

「だから、怖いのかもしれません」

 衝撃だった。俺はいつも、てっちゃんのことを存在感の薄い顔をした人、と評価していた。だけど同時に、彼の事を心から尊敬している。

 それは彼が、ごく普通に、当たり前のように、親に見えたからだ。
 子供の頃、大人の事を何でも出来る完璧超人だと思ったことは、きっと誰でも一度はあるはずだ。それと同じで、俺はてっちゃんのことを立派な親だと思っていた。大人だと思っていた。その彼が、俺と同じように子育てを恐れている事実に、素直に驚いた。

 返す言葉は、直ぐには浮かんでこなかった。だから俺なりに考えて、ようやく浮かんだ言葉を口にする。

「……子供のこと、どう思ってますか」
「難しい質問ですね。言葉にするなら……命よりも大切な存在、でしょうか」
「……」
「娘にはすっかり嫌われてしまいましたが、それでも、まだ仲が良かった頃と思うことは変わりません。不思議なものですね、ははは」

 ごまかすように、てっちゃんは笑う。

「……あんたは立派な親だよ」
「それはそれは、私には勿体無い言葉です」
「本心だ。こういうイベント事に子供と一緒に参加する。それって、特別なことだと俺は思う」

 俺は思った事を、そのまま口にした。

「こういう記憶は、きっと子供にとってかけがえのない思い出になる」

 空っぽな過去を見つめて、

「大人になっちまったら、決して手に入らないから」

 俺なんて、てっちゃんに比べたら娘と同じくらいの若者でしかない。
 それでも、みさき達に比べたら年齢だけは十分に大人だ。
 だから、少しは想像できる。少しは重みのある言葉を言うことが出来る。

「……そうですか」

 そう呟いたてっちゃんが何を考えているのかは、やはり俺には分からない。
 ガキが生意気な事を言っていると笑っているのかもしれない。
 何か思う所があったのかも知れない。

 俺は――

「ゆいちゃん」

 プールに着いてからずっと、俺はゆいちゃんに泳ぎを教えていた。真剣に練習しているように見えて、時折聞こえてくる親子の声に目を向けていたことを俺は知っている。彼女が無理矢理に笑顔を作っていたことに気付いている。

「……なんでしょう」
「ママのこと、好きか?」
「だいすきです!」

 直前までしょんぼりしていたゆいちゃんは、ママの名前を出した途端、元気になった。

「……そうか」

 ほんの少し前、あいつと話をした時に俺は何も言えなかった。
 だけど、今なら分かる。はっきりと。

 あいつは間違ってる。

 あいつは俺なんかより遥かに立派な人間だ。あいつに比べたら、俺なんかガキでしかないだろう。ガキが考える程度のこと、大人は当然考えている。そのうえで、さらに良い案を見付けて、それを選んでいる。そんなことは分かっている。だけど、そんなの関係無い。

 俺は今、目の前にある現実が許せない。
 理由なんて、これだけで十分だ。

「……みさき?」

 気付けば、みさきが俺のことをじーっと見ていた。
 そして俺の心を見透かしたかのように、こくりと頷く。

 俺は少しだけ笑って、みさきに礼を言った。

 また列が進む。
 顔を上げて、前の人の背中を追いかけた。
 その時にはもう、決めていた。
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