176 / 221
最終章 孤独を越えて
予感
しおりを挟むピアノの音が聞こえる。
みさきとゆいちゃんが順番に演奏している音だ。
有名なクラシック。
愉快な即興曲。
イメージ的には、みさきがクラシックでゆいちゃんが即興曲だけど、実際には逆だろうから少し面白い。
ゆいちゃんの演奏はとても丁寧で、一生懸命に練習している姿が思い浮かぶ。その姿はとても良いもので、みさきにも何か習い事をさせてみようかと思えた。
何がいいかな。
そう考えた時、意図的に続けていた心の声が途切れた。すると意識しないようにしていた感覚が一気に存在感を増す。
「ゆいちゃん、ピアノ上手いな」
「みさきも、味のある演奏ですね」
気を逸らそうとした会話は、しかし続かない。
少し前。
食事後に電話をかけて、結衣の部屋へ行くことになった。もちろんみさきも一緒だ。
ドアの前で待っていた結衣に招かれて部屋に入ると、直ぐにピアノの音が聞こえた。
みさきは引き寄せられるようにしてゆいちゃんの部屋へ向かい、残された俺と結衣は、リビングのソファに向かった。
並んで座り、暫くして結衣の方から手を重ねた。
たったそれだけで俺は言葉を失ってしまった。
おかしい。
互いの年齢を考えたら、もっとこう、子供達に見せられないような展開になってもおかしくないはずだ。なのに俺は、ただ手を重ねているだけで満たされている。
結衣はどうなのだろうか。
彼女も俺と同じような気持ちなのだろうか。
「気になりますか?」
まるで心の声を聞いていたかのようなタイミングで発せられた言葉に俺は息を飲んだ。
徐に目を向けると、悪戯を成功させた子供のような目で結衣がこちらを見ていた。
「その色は図星ですね。またみさきですか? それとも……」
迷わず言葉を発しているようで、しかし彼女の手は震えていた。きっと表に出している態度とは裏腹に緊張しているのだろう。それが分かったから、俺は辛うじて冷静でいられた。
「今回は、みさきのことじゃない」
そこで俺は言葉を止めた。
これ以上は必要ないと思ったからだ。
「……照れますね」
「……そうだな」
今の言葉にもドキリとした。
照れて途中までしか言わなかったことがバレたと思ったからだ。
……調子が狂う。
そもそも俺はどうしてここに?
手を繋ぎたいとかいう理由で呼び出されて、迷わず足を運んで……どうかしている。
「呼び方を決めましょう」
結衣の言葉によって俺は思考を遮られた。
「互いの名前を、どう呼ぶか。何かと順序が狂っていますが、こういうことは、大事だと思います」
「……そう、だな」
呼び方、呼び方……あれ、普段の俺ってどう呼んでたっけ? 逆に、どう呼ばれてたっけ?
「ゆいやみさきのように、りょーくん……というのは、少し子供っぽいですね」
結衣の呟く声を聞いて、俺は想像してみる。
りょーくん、と呼ばれた後に、聞き慣れた刺々しい言葉が――それは何というか、いずれ反抗期を迎えるであろうみさきを暗示しているかのようで、なんだか辛い。
「では昔のように天童くん……いえ、交際を始めたのだから、やはり名前で呼びたいですね」
天童くん、という呼び方には懐かしい響きがあった。
俺としては新鮮で悪い気はしないのだが、結衣は気に入らなかったらしい。
「龍誠くん……なんだか語呂が悪いですね」
「仕方無いだろ、そういう名前なんだ」
「思い切ってダーリンと呼んでみましょうか」
「それは止めてくれ」
みさきが聞いたら絶対にマネをする。
ついでに、ゆいちゃんもマネをするはずだ。
それを外でやられたら……想像するだけで身震いする。
「逆に、あなたはどう呼んで欲しいですか?」
あなた。
普段はこう呼ばれていたんだった。
考えたことも無かったけれど、なんだか淡泊な印象を受ける。
そういう意味では、呼び方を変えるというのはありかもしれない。
「呼び方か……」
俺は初めて真剣に考えた。
といっても、選択肢は多くない。
天童龍誠。
結衣は名前で呼びたいらしいから「りょうせい」という文字に着目しよう。
……りょーくん以外にあるのか?
その選択肢を潰してしまった結果、語呂が悪いと称された「龍誠くん」以外の案が見つからない。
「というか、龍誠くんってそんなに語呂が悪いか? りょーせーって、実際は『りょ』と『せ』で二文字みたいなもんだろ」
「二文字……ッ!?」
何かに気が付いた様子の結衣。
「……なら、あなたが私を結衣と呼べば、共に二文字で、お揃いになりますね」
「そう、だな」
頷いて、
「結衣……って、俺の方はいつもこう呼んでないか?」
「いつもではありません。龍誠くんは、おいとかおまえとか、その辺りは雑でした」
自然と、互いの名前を口にした。
たったそれだけのことで、どうしてか顔が熱くなる。
「……照れますね」
「……そうだな」
なんだこれは。
ここにいるのは二十六歳の男女だぞ、名前の呼び方ひとつで、どうしてこんなにも照れている?
「……龍誠くん、龍誠くん、りょーせーくん」
何が楽しいのか、結衣は繰り返し俺の名前を呼んでいた。
「……ふふふ」
そして嬉しそうに笑った。
直後、体を傾けて、肩を寄せてきた。
「ようやく、恋人っぽくなってきましたね」
「……そう、なのか?」
「ふふふ、照れていますね。バレバレですよ」
「うるさい、手汗すごいぞ」
「龍誠くんの汗ですよ?」
なんか、調子に乗ってないか?
俺の知ってる結衣と違うというか、なんというか……。
「龍誠くんは、私の事をどう思っていますか?」
「どうって?」
「好きとか、愛してるとか、そういうことです」
「だから、そういうのは良く分からん」
やばい、結衣の顔を直視できない。
「辞書には、こう記されていました。恋、異性に愛情を寄せること、その心。愛、そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持ち。如何ですか? 当てはまりますか?」
……あ、同じ辞書を読んだのか。
「あっ、今ちょっと喜びましたね? どれか当てはまりましたか?」
「違う。今のは、ちょっと、なんというか……」
なんで分かったんだよ!?
「ふふふ、お見通しですよ」
結衣は嬉しそうな表情をして、俺の頬をつついた。
微妙に子供扱いされている感じが悔しくて、俺は彼女に背を向ける。すると後ろからくすくす笑い声が聞こえて、もうワケが分からないくらいに顔が熱かった。
*
「悪いな、晩飯までご馳走になって」
夜。
特に帰る時間は決めていなかったけれど、気が付けば外は暗くなっていた。みさきは食事を終えて瞼が重たくなったようで、今は俺の肩の上で器用に寝ている。因みに、ゆいちゃんはトマトと死闘を繰り広げている。
「……」
玄関。
結衣は何か言いたそうにしていた。
今日は散々……なんというか、調子を狂わされ続けたけれど、いざ終わりとなると少し寂しい。きっと結衣も同じで、だから別れの言葉が見つからないのだろう。
なら、最後くらいは俺の方から声を出そう。
「明日からは結衣も仕事か?」
「はい、そうなります」
「なら次は来週か。楽しみにしてるよ」
我ながら、もっと普通に言えないのだろうか。
なぜ気取った感じになる? 後で恥ずかしさに悶えるのは自分だぞ。
「それじゃ、またな」
俺は逃げるようにして踵を返した。
だが次の瞬間に背中を引っ張られて、振り返る。
「……帰らないでください」
「えっと……仕事があるだろ。お互いに」
結衣は真っ直ぐ俺の目を見て、
「私よりも仕事の方が大事ですか?」
「そうは言ってない」
結衣は目を逸らさない。
そこには妙な迫力があって、俺は思わずたじろいた。
瞬間、彼女は肩を揺らす。
「ふふふ、言ってみたかっただけです」
こいつ、ほんと……まったく、なんなんだよ、この感じ。
「おやすみなさい。またの機会を楽しみにしていますね」
「……ああ、また」
今度こそ、俺は部屋を後にした。
帰り道。
冬の夜風を受けながら、今日のことを思い出していた。
結衣の様子が今迄とまるで違う。
俺は、その姿にひたすら戸惑っている。
戸惑って、戸惑い続けて……ふと、別の感情もあるような気がしていた。
0
あなたにおすすめの小説
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
【完結】物置小屋の魔法使いの娘~父の再婚相手と義妹に家を追い出され、婚約者には捨てられた。でも、私は……
buchi
恋愛
大公爵家の父が再婚して新しくやって来たのは、義母と義妹。当たり前のようにダーナの部屋を取り上げ、義妹のマチルダのものに。そして社交界への出入りを禁止し、館の隣の物置小屋に移動するよう命じた。ダーナは亡くなった母の血を受け継いで魔法が使えた。これまでは使う必要がなかった。だけど、汚い小屋に閉じ込められた時は、使用人がいるので自粛していた魔法力を存分に使った。魔法力のことは、母と母と同じ国から嫁いできた王妃様だけが知る秘密だった。
みすぼらしい物置小屋はパラダイスに。だけど、ある晩、王太子殿下のフィルがダーナを心配になってやって来て……
悪役令嬢の身代わりで追放された侍女、北の地で才能を開花させ「氷の公爵」を溶かす
黒崎隼人
ファンタジー
「お前の罪は、万死に値する!」
公爵令嬢アリアンヌの罪をすべて被せられ、侍女リリアは婚約破棄の茶番劇のスケープゴートにされた。
忠誠を尽くした主人に裏切られ、誰にも信じてもらえず王都を追放される彼女に手を差し伸べたのは、彼女を最も蔑んでいたはずの「氷の公爵」クロードだった。
「君が犯人でないことは、最初から分かっていた」
冷徹な仮面の裏に隠された真実と、予想外の庇護。
彼の領地で、リリアは内に秘めた驚くべき才能を開花させていく。
一方、有能な「影」を失った王太子と悪役令嬢は、自滅の道を転がり落ちていく。
これは、地味な侍女が全てを覆し、世界一の愛を手に入れる、痛快な逆転シンデレラストーリー。
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。
黒ハット
ファンタジー
前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。
王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません
きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」
「正直なところ、不安を感じている」
久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー
激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。
アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。
第2幕、連載開始しました!
お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。
以下、1章のあらすじです。
アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。
表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。
常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。
それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。
サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。
しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。
盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。
アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?
清楚な執事長、常駐位置が“お嬢様の隣”に確定しました
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話・後日談12話⭐︎
清楚で完璧、屋敷の秩序そのもの——そんな執事長ユリウスの“常駐位置”が、なぜか私の隣に確定しました。
膝掛けは標準装備、角砂糖は二つ、そして「隣にいます」が口癖に。
さらに恐ろしいことに、私が小声で“要求”すると、清楚な笑顔で「承知しました」と甘く返事をしてくるのです。
社交は上品に、恋心は必死に隠したい。
なのに執事長は、恋を“業務改善”みたいに制度化して逃がしてくれない——!
むっつり令嬢の乙女心臓が限界を迎える、甘々コメディ恋愛譚。
清楚な顔の執事長が、あなたの心臓まで囲い込みにきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる