【一章完結】魂屋 奇譚蒐集録

宇野 肇

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其の一 華の香り

1-4 雨の帰り道・前

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 魂屋の店主の真偽はともかく、ほどなくして確かに雷をもたらす雲は綻び、暗かった外も多少は明るさを取り戻した。
 雨足は依然強い。雨合羽あまゴートのあてもない今、人力車がつかまらなければ泥はねで汚れてしまう。袴だけで済めば御の字で、路面の状況によっては人を遣ってでも迎えが来るまでは動かない方が良いだろう。
 傘を借りられたとて、そこが問題だ――。千鶴がそう考えていると、足音がした。

「待たせた」
「いいえ……。あっ?!」

 ガラス戸の音に合わせて、縁側の向こうにある細庭に目を遣っていた千鶴が室内を振り返る。そこには見覚えのある姿があった。過度に声を出しそうになるのを、口元に手を添えて押しとどめる。

(お、お昼にぶつかってしまったあの方だわ……!?)

 白く清潔そうな洋シャツを着物の襟元から覗かせ、髪をかき上げた店主の佇まいは、まさに千鶴の胸を高鳴らせたあの青年と全く同じだった。

(声の張りも心なしか違う気がするわ。だから気づかなかったのかしら……? でも、お顔もどこか違って見える)

「ほら、言った通りになった」

 外の様子について得意げに言う店主に、千鶴は胸中で百面相をしながらも言葉を絞り出した。

「……その点に関しては、わたくしはまだなんとも」

 衒いのない笑みで言われると毒気を抜かれるというものだ。千鶴は力なく苦笑した。
 ここに来た際に店主の反応がおかしかったのも、きっと気づいていたからなのだと合点がいった。

(恥ずかしいわ……。でも、あたしから掘り返すのも違うわよね)

 そう思うも、頬は熱を持ち始めてしまう。
 手の甲を当てたり、いっそ手で頬を隠したりしながら苦し紛れに紅茶を最後まで飲みきる。
 その間も、授業参観に来られるほどの身分なのだから、やはり直接そうとは言わないものの嫁探しも兼ねているではないかしらと千鶴は思った。
 そうなると、自分がやっていることは邪魔である。
 今更であろうとも引くべきか否かと考えを巡らせている彼女を他所に、影守は暢気に外套を着込み、帽子を被った。

「お手伝いさん用に女人の着替えや雨ゴートがある。君は確かブーツを履いていたな。袴なのだし、それで充分泥はねは大丈夫だろう」
「あ、ありがとうございます」

 影守は土間への戸を開けた。先に上がり框に腰を下ろし、靴箱の中からブーツを取り出す。
 足首のあたりに六つほど釦があり、全体的に鼈甲べっこうのような華やかな色合いで、周辺には繊細な花の刺繍があしらわれていた。
 影守はそれに足を通すと、手際よくボタンブーツ用のシューフックを使いだした。ボタン穴からフックを深く差し込み、縫い付けられたボタンの根元を引っかけて引っ張り出す。ボタンの数だけ繰り返して容易く履き終えると、手を差しだし、千鶴を促した。

(……エスコート……。先生はやっぱりちゃんとした家柄のお人なのだわ)

 そろそろと手を重ねると、しっかりとした力で支えるように握られる。手のひらの温度の差に再び頬が赤くなるのを感じながら、千鶴は上がり框に腰を下ろした。そっと手を放され、足先をぴんと伸ばしてブーツの履き口へ降ろす。革を引っ張りながら踵までしっかりと収まると、影守が靴紐に手を伸ばした。

「まあ、先生にしていただくなんて」
「お嬢さんの毛先が地べたにつく方が問題だ」

 影守の身分を考えれば、人にさせる側のはず。しかし彼は土間にしゃがみ、ブーツの紐に指を絡めた。滅多にない近い距離に、千鶴は身を固くする。そんな彼女の心中を知ってか知らずか、影守は足の甲から順番に紐を締め美しく整えると、ちょうちょう結びにした。

「先生は紅茶も紐もご自分でなさいますのね」
「『男らしくない』?」
「まあ! それは穿った見方というものですわ!」
「ははは」

 慌ててしまい声が上擦る。影守は言葉を重ねようとする千鶴の気を逸らすかのように再び手を差し出して彼女を立たせると、女性用の雨ゴートを寄越した。厚手のもので、丈もこれならば確かに袴まで覆えそうだ。

「重ね重ね、感謝いたします」
「なんの、これしきのこと」

 髪を上げた影守は表情がよく見えた。心なしか目まで生き生きとして、見違えるようだった。
 嫌気のない態度に、千鶴は違う意味で逸りだした胸を押さえる。

「僕は帽子と外套これで充分だから、君には傘を。……と、思ったが、足下も悪いだろうから、差し出がましいかもしれないが僕が持つこととしよう」

 恥じらいを誤魔化すように、千鶴はこれ幸いにと影守の言葉に頭を下げた。

 魂屋から千鶴の家までは人力車で三十分ほど。歩けばその倍程度の時間が掛かる。流石にそれほどの距離を歩かせるのはと影守は先に通りへ出て、車夫を捕まえに出た。そして表からは商家の並びで人目が多いからと、敢えて裏手の方から来るように言いつけると、千鶴が入って来た門扉を閉めた。掛金かけがねかんぬきをして、玄関土間まで戻る。そして土間奥のガラス戸を開けて勝手口を示すと、小さな炊事場を横切るようにして外に出た。
 裏口には既に一人乗りの立派な車が停まっており、車夫が千鶴のために踏み台を置いているところだった。

「さあ、お乗りなさい。責任を持って送ろう」
「えっ、ですが……」
「これにお嬢さん一人で乗ったのでは具合が悪いだろう? もう一台呼んである。僕は直ぐ後を行くから」

 傘を差し、千鶴が濡れぬよう、また転ばぬように影守が手を取り、短い距離を歩く。千鶴がしっかりと椅子に掛けたのを確認すると、影守は丁重に扱うよう言い含め、外套の内側から雨除けの布を取り出すと、千鶴に渡した。
 ここで固辞するわけにもいかず、ありがたく受け取り膝の上に広げつつ千鶴は恐縮した。

「先生、なにからなにまで……」
「重ねてになるが、これしきのことは当然だ。素直に受け取るとよろしい」

 影守は車夫に千鶴から住所を聞き、できるだけ良い道を走るよう頼むと、自らももう一台に乗り込んだ。

(男の方って、これが普通なのかしら……きっと違う、わよね。お父様もお兄様も、こんな丁寧じゃないもの)

 まだ降り止まぬ雨の中、二台の人力車がゆっくりと動き始める。ほろがパタパタと揺れ、似たような音で雨が打つのを、千鶴は温かな膝元を感じながら聞き入っていた。
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