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其の一 華の香り
1-5 雨の帰り道・後
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何事もなく日登邸へと着くと、千鶴より先に後続だった影守が人力車から降りた。車夫に運賃を渡し、さっと傘を差し、千鶴が降りるのを助ける。
何度目かの仕草にも慣れることなく、千鶴はどこかよそよそしい手つきで影守の手を取った。
千鶴のブーツが土を叩く。その勢いのまま、影守は彼女が濡れてしまわぬよう庇いながら門戸を叩いた。
「もし、もし。お嬢さんのお帰りだ」
内側から閂を引く音がし、木が軋む音と共に女中が顔を見せる。
「お嬢さま! ご無事で……奥様がご心配召されておりましたよ」
「学校から連絡はなかったかしら」
「そうではなく、雨の方です。このまま日暮れまで動けないのではと」
器用にも影守の素性を探る目線をちらちらと寄越しつつ、声には心底の安堵が滲んでいる。
影守は軽く会釈をし、帽子を脱いだ。
「お初にお目にかかる。本日お嬢さんにご足労頂きました、影守識人だ。ご無礼でなければご家族の方にご挨拶申し上げたい」
「千代。おねがいできる?」
「はい、はい、ただいま」
鞄を渡しながら放った千鶴の一声で、女中が先に玄関へと続く石畳を行く。千鶴の目配せもあり、影守はそのまま彼女を玄関まで届けると、軒下で傘を閉じた。千鶴もまた、影守から借り受けた雨ゴートを脱ぎ、人力車に乗る間、重ねて足下を守ってくれていた雨除けと一緒にまとめた。
「先生、これらは洗ってからお返しいたく思うのですが」
「分かった。それでよろしい」
「……次のお約束をいただけなかったら、これが理由になるところでしたわね」
はたと思いついたことを口にした千鶴に、影守が笑う。
「はっはっは、君は強かだな」
「先生が物慣れていらっしゃるから」
「おや? 僕のせいか」
気安く言葉を重ねていると、玄関の磨りガラス越しに人影が見えた。どちらともなく会話を切り上げ、引き戸が開くのを待つ。
二人を迎えたのは千鶴の母だった。
「お初にお目に掛かる。奥方、私は影守識人と言います。本日帝都女学院の求人票よりご縁を賜り、ご令嬢にお相手いただいておりました」
「まあ! ご丁寧に。わたくし、日登照子と申します。影守さま、道も悪いなか、娘を届けてくださりありがとうございます。丁度主人も出先で足止めされたようで、心配しておりましたの」
「ご心配をお掛けしてしまい、申し訳ありません。話に興じておりましたら天気に降られまして」
「まあ、まあ。それで影守さま自ら?」
「ええ。一時とは言えども、お預かりした大切なお嬢さんですので」
「まあ~! わざわざありがとうございます」
母の声色が高くなっていくのを、千鶴は気恥ずかしく思っていた。身なりも愛想もよい影守の態度からも、かなり好意的な空気がある。なにより、影守の外套が濡れ、千鶴に一切その気配がない事が、彼の言葉を証明していた。
この話の流れで「是非嫁に」などということにならないか、期待している部分もあるのだろう。
どうかそうはなりませんように、と祈りながら、千鶴は鞄を玄関の脇に置いた。次いで、母の後ろに控えている千代に持っていた雨ゴートと雨除けを預けた。
「こちら、先生からお借りしたものなの。綺麗にしてお返しするから、よろしくお願いね」
「かしこまりました」
そんな娘の様子を横目に見ながら、照子は直ぐに影守へ目を戻した。
「後日、お礼になにか持たせますわね」
「ああ、そのことなんですが。また来週約束を取り付けておりましてね。今日来てもらった先は普段は閉めていて不在なのです。ですから、その時にと話をしておりました」
「そうですか、重ね重ねありがとうございます。お家の方へ改めてご挨拶差し上げてもよろしゅうございますか?」
「ははは。それが私は分家筋でして。気楽な身分ですから、家へ来ていただくほどのことではありませんよ」
千鶴は母の肩を突きたい気持ちだった。これ幸いにと縁をつなぐことに必死に見え、母の言葉が適切なのかどうかさえ判断がつかない。冷静でなくなる心を感じながら、その場に立ち尽くしていた。
(……なんだか恥ずかしいわ。まるでお見合いの後みたい)
「ご主人も不在ということですし、私はこの辺りで失礼します。実は人力車も一台だけ待たせておりましてね」
「まあ、お引き留めしてしまい申し訳ございません」
「いえいえ、お目通りかなってよかった。見送りも不要ですので、皆さん風邪を召されぬようなさってください」
影守はそれではと家の敷居をまたぐことさえなく、傘を差して門へ戻った。千鶴はその背を母と見送る。人力車の車輪が遠くへ去って行く音と共に、千代が門に閂を差した。
合図のように、照子が玄関を閉める。千鶴はそこでようやく上がり框に腰を下ろした。ブーツの紐を解こうと端を引っ張る。一瞬、影守の指を思い出したが、直ぐに誤魔化すように紐に指を引っかけて、順繰りに緩めた。
そんな千鶴のつむじに向けて、照子の声が降ってくる。
「感じのよいお人で何よりだったわね」
「はい」
「それで、どうだったの?」
「色好いお返事をいただけました。……と、言えればよかったのですけど。ひとまず先生が仰った通り、またお茶を一緒にいただくことは叶うようです」
千鶴が靴を脱ぐ頃には、平常心を保てる程度には気を持ち直していた。
影守が女学生を呼んだのは噂話のため。情報源として夫人よりも望ましいと言うからには、怪談や奇談であるはずだ。であるならば、その夫人たる照子にあたるより、女学院でそれとなく見聞きした方がよい。
「そういえばお母様、先生を……影守さまのことをご存じでしたの? わたくし、不勉強なのかしら」
「あら、誰にも聞いたことがなかったの? 影守と言えば古くは神職の家系でね。帝都の井戸の大半は影守家の助言があって掘られているの。他にも軍人さんと一緒にお国のために働いていらっしゃる方も多いとか」
「そうなんですのね……。では、我が家も?」
「ええ、そうよ。毎年井戸祓いに来てくださるのも影守の方ね」
なるほど、どおりで井戸について触れるわけだ。と、千鶴は納得した。きっと女学院に通うような娘の素性など、よくよく知っていたのだろう。
「学校ではとんと聞きませんでしたわ」
「あまり表には出ない家柄のようよ。けれど、御上の覚えがめでたいのは間違いないわ」
失礼のないようにね、という照子に神妙な顔で頷いてみせる。それから千代が水気を拭いた学校鞄を手に取ると、はっとあることを思い出した。
「あ、お母様。あたし、先生からお土産をいただいたのだったわ。琥珀羹とビスキュイを……」
「あら、なんて気前のよいこと。それはあなたが大事にいただきなさい。……来週のお礼には舶来品を用意しようかしら」
「あたしも一緒に吟味してもいいですか?」
「ええ」
親族以外で男と約束することなどない。
初めての事に浮き足立ちそうなのをこらえて、千鶴は二階の自室へと引っ込んだ。
鞄から優しく菓子を取り出し、文机の上に広げる。外の雨音はまだ弱まることはなさそうだ。
月曜日からの登校がいつになく楽しみで、千鶴は琥珀羹をつまんで空にかざすと、そのままぱくりとかぶりついた。
何度目かの仕草にも慣れることなく、千鶴はどこかよそよそしい手つきで影守の手を取った。
千鶴のブーツが土を叩く。その勢いのまま、影守は彼女が濡れてしまわぬよう庇いながら門戸を叩いた。
「もし、もし。お嬢さんのお帰りだ」
内側から閂を引く音がし、木が軋む音と共に女中が顔を見せる。
「お嬢さま! ご無事で……奥様がご心配召されておりましたよ」
「学校から連絡はなかったかしら」
「そうではなく、雨の方です。このまま日暮れまで動けないのではと」
器用にも影守の素性を探る目線をちらちらと寄越しつつ、声には心底の安堵が滲んでいる。
影守は軽く会釈をし、帽子を脱いだ。
「お初にお目にかかる。本日お嬢さんにご足労頂きました、影守識人だ。ご無礼でなければご家族の方にご挨拶申し上げたい」
「千代。おねがいできる?」
「はい、はい、ただいま」
鞄を渡しながら放った千鶴の一声で、女中が先に玄関へと続く石畳を行く。千鶴の目配せもあり、影守はそのまま彼女を玄関まで届けると、軒下で傘を閉じた。千鶴もまた、影守から借り受けた雨ゴートを脱ぎ、人力車に乗る間、重ねて足下を守ってくれていた雨除けと一緒にまとめた。
「先生、これらは洗ってからお返しいたく思うのですが」
「分かった。それでよろしい」
「……次のお約束をいただけなかったら、これが理由になるところでしたわね」
はたと思いついたことを口にした千鶴に、影守が笑う。
「はっはっは、君は強かだな」
「先生が物慣れていらっしゃるから」
「おや? 僕のせいか」
気安く言葉を重ねていると、玄関の磨りガラス越しに人影が見えた。どちらともなく会話を切り上げ、引き戸が開くのを待つ。
二人を迎えたのは千鶴の母だった。
「お初にお目に掛かる。奥方、私は影守識人と言います。本日帝都女学院の求人票よりご縁を賜り、ご令嬢にお相手いただいておりました」
「まあ! ご丁寧に。わたくし、日登照子と申します。影守さま、道も悪いなか、娘を届けてくださりありがとうございます。丁度主人も出先で足止めされたようで、心配しておりましたの」
「ご心配をお掛けしてしまい、申し訳ありません。話に興じておりましたら天気に降られまして」
「まあ、まあ。それで影守さま自ら?」
「ええ。一時とは言えども、お預かりした大切なお嬢さんですので」
「まあ~! わざわざありがとうございます」
母の声色が高くなっていくのを、千鶴は気恥ずかしく思っていた。身なりも愛想もよい影守の態度からも、かなり好意的な空気がある。なにより、影守の外套が濡れ、千鶴に一切その気配がない事が、彼の言葉を証明していた。
この話の流れで「是非嫁に」などということにならないか、期待している部分もあるのだろう。
どうかそうはなりませんように、と祈りながら、千鶴は鞄を玄関の脇に置いた。次いで、母の後ろに控えている千代に持っていた雨ゴートと雨除けを預けた。
「こちら、先生からお借りしたものなの。綺麗にしてお返しするから、よろしくお願いね」
「かしこまりました」
そんな娘の様子を横目に見ながら、照子は直ぐに影守へ目を戻した。
「後日、お礼になにか持たせますわね」
「ああ、そのことなんですが。また来週約束を取り付けておりましてね。今日来てもらった先は普段は閉めていて不在なのです。ですから、その時にと話をしておりました」
「そうですか、重ね重ねありがとうございます。お家の方へ改めてご挨拶差し上げてもよろしゅうございますか?」
「ははは。それが私は分家筋でして。気楽な身分ですから、家へ来ていただくほどのことではありませんよ」
千鶴は母の肩を突きたい気持ちだった。これ幸いにと縁をつなぐことに必死に見え、母の言葉が適切なのかどうかさえ判断がつかない。冷静でなくなる心を感じながら、その場に立ち尽くしていた。
(……なんだか恥ずかしいわ。まるでお見合いの後みたい)
「ご主人も不在ということですし、私はこの辺りで失礼します。実は人力車も一台だけ待たせておりましてね」
「まあ、お引き留めしてしまい申し訳ございません」
「いえいえ、お目通りかなってよかった。見送りも不要ですので、皆さん風邪を召されぬようなさってください」
影守はそれではと家の敷居をまたぐことさえなく、傘を差して門へ戻った。千鶴はその背を母と見送る。人力車の車輪が遠くへ去って行く音と共に、千代が門に閂を差した。
合図のように、照子が玄関を閉める。千鶴はそこでようやく上がり框に腰を下ろした。ブーツの紐を解こうと端を引っ張る。一瞬、影守の指を思い出したが、直ぐに誤魔化すように紐に指を引っかけて、順繰りに緩めた。
そんな千鶴のつむじに向けて、照子の声が降ってくる。
「感じのよいお人で何よりだったわね」
「はい」
「それで、どうだったの?」
「色好いお返事をいただけました。……と、言えればよかったのですけど。ひとまず先生が仰った通り、またお茶を一緒にいただくことは叶うようです」
千鶴が靴を脱ぐ頃には、平常心を保てる程度には気を持ち直していた。
影守が女学生を呼んだのは噂話のため。情報源として夫人よりも望ましいと言うからには、怪談や奇談であるはずだ。であるならば、その夫人たる照子にあたるより、女学院でそれとなく見聞きした方がよい。
「そういえばお母様、先生を……影守さまのことをご存じでしたの? わたくし、不勉強なのかしら」
「あら、誰にも聞いたことがなかったの? 影守と言えば古くは神職の家系でね。帝都の井戸の大半は影守家の助言があって掘られているの。他にも軍人さんと一緒にお国のために働いていらっしゃる方も多いとか」
「そうなんですのね……。では、我が家も?」
「ええ、そうよ。毎年井戸祓いに来てくださるのも影守の方ね」
なるほど、どおりで井戸について触れるわけだ。と、千鶴は納得した。きっと女学院に通うような娘の素性など、よくよく知っていたのだろう。
「学校ではとんと聞きませんでしたわ」
「あまり表には出ない家柄のようよ。けれど、御上の覚えがめでたいのは間違いないわ」
失礼のないようにね、という照子に神妙な顔で頷いてみせる。それから千代が水気を拭いた学校鞄を手に取ると、はっとあることを思い出した。
「あ、お母様。あたし、先生からお土産をいただいたのだったわ。琥珀羹とビスキュイを……」
「あら、なんて気前のよいこと。それはあなたが大事にいただきなさい。……来週のお礼には舶来品を用意しようかしら」
「あたしも一緒に吟味してもいいですか?」
「ええ」
親族以外で男と約束することなどない。
初めての事に浮き足立ちそうなのをこらえて、千鶴は二階の自室へと引っ込んだ。
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