【一章完結】魂屋 奇譚蒐集録

宇野 肇

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其の一 華の香り

1-7 縋る先にあるもの

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 事態が一変したのは金曜日のことだった。
 不採用を言い渡されるのを予感しながら過ごす時間というものは、どれほど諦めたといってもあまり気分の良いものではない。朝起きたときから千鶴は明日が憂鬱だった。

「……あら? 優子さんはどうしたのかしら」

 朝礼を終え、午前最初の授業の支度をしていると、席に空きができていた。
 席順は基本的に変わらないため、誰が欠席しているのかはすぐに分かった。

「朝、寄宿舎の点呼の時に酷い顔色だったみたい。医務室で安静になさっているそうよ」
「大丈夫なの?」
「ご病気などではないみたい」
「寝不足?」
「いいえ。どうもそうじゃないそうよ。眠りが浅いのか、このところ朝目覚めてもすっきりしないことが多かったのですって」

 一つ疑問を浮かべれば、つられるようにして辺りに囁きの花が咲きはじめる。それも教師が来る束の間のこと。お見舞いに行こうかしら、と相談する声を聞きながら、千鶴の耳に一つ、気になる言葉が入りこんだ。

「隣のクラスでも数人、似たような方がいらっしゃるのですって」
「もう一ヶ月ほど不調だと仰る方もいるのでしょ? 怖いわね」

 詳しく話を聞こうかと千鶴が振り向くよりも先に小間使いのベルが鳴る。

(ああ、もう。あと少しだったのに)

 歯がゆい気持ちのまま、午前中の授業は過ぎていった。



『枕の下に白百合の押し花を忍ばせると、夢で死者に会える』

 昼休みにかろうじて分かったのは、どうも寄宿生たちの間で流行っているおまじないと同時期に体調不良の生徒が増えたと言うことだった。さすがに皆不気味がり、今では誰もしていないらしい。
 最初の生徒は早世した妹に会いたい一心だったという。そして効果があったことから、一気に広がった。
 千鶴のように両親も健在で、きょうだいに欠けがない生徒はやる理由がない。しかし、かつて温かな思い出を共有した故人を持つ者には、それこそ夢のようなおまじないだった。
 それでも大抵は一度きりで満足する。できなかったのは、特に恋しい人を亡くした生徒。優子の場合は実母だった。

「わたくし、優子さんのお見舞いに行くわ」

 午後の授業も終え、千鶴はそう言って寄宿舎へ向かった。付き添いというほどではないが、淑乃も続く。芙美と太惠は実技の補講を受けるため教室へ残った。

「千鶴さん、もし魂屋とやらの件でお見舞いに行くなら、わたくしはあなたを止めるべきだと思っているのだけど」

 廊下を歩く千鶴に、淑乃が並ぶ。ちらりと目を向けると、淑乃のいつも通りの顔が見えた。

「……正直、『成果』のことについて考えないではないわ。けれど、心配する気持ちに嘘はありません。他の方とはあまりお話ししたことがないけれど、優子さんはお母様のお話を伺ったことがある程度には知っております。
 わたくしには見せてくださいませんでしたが、おまじないを何度もするほど寂しい思いをしていらっしゃったと思うと……なにができなくとも、手くらい握りたいじゃありませんか」

(優子さんとて、ご自分の体調についてはよくよくご存じだったはず。原因についても、きっと薄々察していたに違いないわ。それでもおまじないを続けていた……そんな方を放ってはおけない。
 お見舞いが終わったら、家に帰る前に魂屋に行くべきね。先生に事情を説明すれば、なにかの糸口が見つかるかもしれない。おまじないに縋ってしまうほど心が弱っている人に……あたしができることなんて、ないのかもしれないけれど)

 淑乃が同意するようにそっと千鶴の背を撫でた。

「ごめんなさいね。どうか気を悪くなさらないで」
「そんなこと、あるわけがないじゃありませんか。お友達を売るような真似など、非難されて然るべきです」

 淑乃の言葉があったからこそ、千鶴は明確に心を決めたのだ。感謝こそすれ、不快に思うはずもなかった。
 寄宿舎へは管理人の許可と、訪問手続きが必要だ。
 名前と用件、そして訪問先の生徒の名前を記し、優子が体調不良者であることを踏まえてできるだけ滞在は短くと厳命される。殊勝に頷くと、二人は優子の部屋としてあてがわれている十二号室の部屋へ向かった。
 小さくノックをし、声を掛けて名乗ってから入室する。
 洋机の上には可愛らしい小物がぽつぽつと並んでいた。窓には藤色のカーテンが掛けてあり、うっすらと部屋に光を通している。
 畳の上に布団が敷かれ、優子はそこで静かに横になっていた。

「眠っていらっしゃるかしら」

 淑乃が囁く。しかし、返事のように優子の瞼が開いた。

「まあ……。おふたりとも、来てくださったのですね」

 か細い声は酷く弱々しいものだった。掛け布団をどうにか押しのけて上半身だけでも起こそうともがく彼女に、千鶴は急いで近づき、膝をついて優子の身体を押し戻した。
 ふと優子の頭が枕に沈む瞬間、百合の甘い香りがふわりと広がった。室内に飾ってあるはずもない。弱った人間には強すぎる香りで、昨今では避けられることが多いにもかかわらず。

「優子さん、どうかそのままで。無理に起き上がってはお辛いでしょう」
「ごめんなさいね、千鶴さん……こんな格好で……」
「よろしくてよ。優子さん、あなた、そんなお身体で無理などするものではありませんわ」
「淑乃さんも……うれしいわ」

 淑乃も続いて優子の側で膝をつくと、彼女の顔が驚くほど真っ白なことに気づく。唇からも血色は失せ、何日も世話ができていないからだろう。かさかさとして、ひび割れていた。
 千鶴は優子の手を取ると、両手で挟み込んで軽く握った。七月に入り、蛍ももう見頃を終えるというのに布団で寝ていたはずの優子の手は寒々としている。命が失われつつあるのではと思わせるには充分過ぎた。

「千鶴さんの手……とっても温かくて……なんだか、息をするのが楽になるわ」
「優子さん……」

 掛ける言葉も見当たらず、喉が詰まる。そんな千鶴の横で、淑乃は部屋を見渡すと、化粧台の小物入れからリップクリームを取り出し、優子の唇に塗ってやった。

「二人とも……ありがとうございます……」
「もう喋らなくっても結構よ。もう少しだけなら大丈夫ですから、お休みになって」

 淑乃の声に頷き、優子が目を閉じる。程なく深い呼吸に変わると、千鶴は名残惜しさを振り切って彼女の手を放した。
 彼女の枕の下を改めるような真似ができるはずもない。
 言葉もなく二人は寄宿舎を辞した。
 想像よりもずっと優子の容態は悪く見える。その原因は科学的には分かっておらず、因果として、おまじないしか考えられなかった。
 さりさりとブーツが校庭の砂を噛む。その音の鋭利さに耐えきれず、千鶴は足を止めた。

「淑乃さん、あたし……あたし、百合の匂いがしたのに、彼女の枕になにもできなかったわ」

 優子は一切助けを求めなかった。それが彼女の結論であるならば、じっと堪えねばならないのではないか。
 けれどこのままなにもせず、優子を見送ることが最善であるはずがない。
 しかし千鶴にできることもまた、なにもないではないか。
 不安が這い上がり、矢も楯もたまらず叫び出しそうな心を押さえつけながら発した声は震えていた。

「気をしっかり持って。わたくしたちにできることがなくっても、わたくしたちが引きずられてはいけないわ。千鶴さん、あなた、優子さんに万が一があったら、今度はあなたがおまじないに手を出してしまいそうよ」

 叱咤する淑乃の言葉は、千鶴の耳を撫でるだけで殆ど入ってこなかった。ただ返事の代わりのように首肯を繰り返し、女学院の門を出て直ぐに淑乃が捕まえた人力車に乗せられた。

「淑乃さん、」
「あなたが今日、どこへ向かってもわたくしは誰にも、なにも言わないわ。……でも、明日には元気な姿を見せてちょうだいね」

 かろうじて感謝を示そうとした千鶴を押しとどめ、淑乃が笑う。千鶴は今度はしっかりと頷くと、人力車に住所を告げた。――行き先は魂屋のものだった。
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