もう殺されるのはゴメンなので婚約破棄します!

めがねあざらし

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35、封じられた記憶

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アルバートの声が、確かに僕の耳に届いた。
胸の奥にまだ震えを残していたのに、次の瞬間にはもう、厚い膜の向こうへ押しやられるように遠ざかっていった。

扉を破る音も、駆け寄ってくる気配も、瓶の中に閉じ込められた水音みたいに揺れて、届かない。
世界が一瞬でねじれ、外との繋がりが断たれたのだと、息苦しさで悟った。

「余計な介入は許さない」

仮面の男の声は静かだった。
怒鳴りでも脅しでもなく、ただ当たり前のことを言うように。
その調子が逆に冷たくて、背中を這い上がるものに思わず肩が震えた。

その言葉に従うように、周囲の術者たちは刃を引き、黙り込む。
僕を殺すつもりはない――少なくとも今は。
そう理解できた瞬間、むしろ恐怖が濃くなった。

床に垂れた血は乾き始めていて、僕が乱した術式は修復されつつある。
どれほど必死に抵抗しても、ここでは何も変えられないのかもしれない。
そんな諦めの気配が胸を締めつけ、呼吸を浅くさせる。

「お前は、あの夜を思い出しかけているな」

仮面の男の声に、全身が強張った。
問いかけではなく、断定だった。
息が喉に詰まり、心臓が暴れだす。

「赤い床、刃の光、誰かの怒声……」

その言葉に触れられただけで、頭の奥で眠っていた映像が強引にこじ開けられる。
鮮血に濡れた石の床。割れた椅子。振り下ろされる銀の閃き。

目の奥が焼けつくように熱くなり、思わずこめかみに手を押し当てた。

「やめろ……」

掠れた声が漏れる。
けれど仮面の男は、僕の苦しみをただ冷たく観察するだけだった。

「その記憶は術で塗りつぶされた。記録からも、記憶からも消す禁術でな。だが完全ではなかった。だから今、疼くように蘇る」

言葉が重なるたびに、頭の奥でノイズが鳴り、視界の端が赤く滲む。

赤、赤、赤。

血の匂いが蘇り、指先に冷たい感触が張り付く。
黒衣の影が見下ろしていた。その奥に、もうひとり――顔のない誰かが、確かにいた。

「……誰……だ」

声になったのか、自分の内だけで響いたのか、分からない。
仮面の奥で男が、わずかに笑った気がした。

「いずれ思い出す。いや、思い出さねばならない。お前は“器”だ。一度は壊れたが、もう一度目覚めてもらう」

器――。

その言葉が胸に突き刺さる。
僕が僕であることを否定し、ただの入れ物だと断じる声音に、吐き気が込み上げた。

「……そんな……勝手なこと……」

かすれた声しか出なかった。
それでも、目だけは逸らさなかった。
ここで逸らしたら、もう自分じゃなくなる気がしたから。

仮面の男が片手を上げると、術者のひとりが金属具を差し出す。
先端の紅い宝石が、不気味な光を宿していた。

見ただけで分かる。
あれは僕の術痕を直接侵すための道具だ。

「やめろ……」

膝が震え、体に力は入らない。
それでも壁を掴み、必死に立ち上がろうとする。

仮面の男はゆっくりと歩み寄り、紅い光を掲げた術具を、ためらいなく僕の首筋へと近づけてきた――。
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