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第53話:境界線の戦い
室内に、緊張が満ちる。
クラウスとガルハルト。
向かい合う二人の男の間には、もはや言葉では覆せないほどの断絶があった。
床に漂うのは、熱と、薬の匂い、そして──リオンの発情を誘う甘い香り。
その中心で、リオンは蒼白な顔を伏せていた。
薄く震える指先が、かすかに布を握り締めている。
「……ずいぶんと素早い。まさか“臭い”で追ってきたとでも?」
クラウスは笑った。
唇には優美な曲線が浮かんでいたが、その目は獣を見るような冷たさを宿しており、口調に、獣人種への露骨な侮蔑が滲んでいた。
だが、ガルハルトはその挑発に反応しなかった。
ただ静かに、リオンの姿だけを見据えていた。
「私の弟に、よくもまあ――獣が、手を出してくれたものだ」
「弟? ……彼を、“弟”として見ていたか?」
低く返したその声に、クラウスの目が細まった。
「彼を“物”として見る時点で、お前に彼へ触れる資格はない」
静かだった。
怒声ではなかった。
けれどその一言に、クラウスの口元から笑みが消えた。
空気が一変する。
次の瞬間、クラウスの指先から火花が走る。
そこから放たれたのは魔法だ。
反射的にガルハルトが横に跳ぶと、床板が爆ぜた。
間合いがあっては不利になると判断し、飛びかかる。
そして、ぶつかり合う拳と拳。
ガルハルトの打撃は重く、正確だった。
鍛え抜かれた肉体から繰り出される一撃は、王太子である以前に“戦士”のものだ。
クラウスも決して弱くはない。それなりに貴族の嗜みとして剣術も備わっている。
だが、クラウスの攻撃はどこか歪んでいた。
嫉妬。
怒り。
奪われたという思い込み。
――それらが、彼の体を突き動かしていた。
「お前がいなければ、リオンは私のものだった」
「よく言えたものだな。お前は、あの子に一度でも向き合ったことがあるのかっ」
互いの拳がぶつかり、打音が散る。
クラウスの表情には焦りが浮かんでいた。
――力では、敵わない。
それを理解した瞬間、彼は一歩、後退した。
ガルハルトの目が、鋭く光る。
「逃がさん……!」
吠えるような声と共に、ガルハルトが踏み込む――が。
「くっ……!」
クラウスは懐から出した紙を踏み抜いた。
瞬間、爆発的な光と煙が部屋を覆う。
それはいざという時のための簡易的な魔法陣が書かれた魔法具だった。
視界が白に塗り潰される。
爆風の向こう、クラウスの姿が煙の中に消えていく。
「殿下!」
ライの叫び声と共に、近衛兵たちが駆け込んでくる。
だが、時すでに遅し。
「……逃げたか」
煙が薄れた室内で、ガルハルトは歯を食いしばる。
だが、その視線はすぐに――リオンの元へと向けられた。
薄布の上から見える肩は細く、息は浅く、微かに熱を持っていた。
「……リオン……!」
息を呑んで、駆け寄る。
あまりに細い肩、汗に濡れた前髪――見慣れたはずの姿が、こんなにも遠く感じたのは、初めてだった。
熱に浮かされたリオンの瞳が、かすかに動く。
「……殿下……?」
消え入りそうな声。
だがその一言が、ガルハルトの胸に深く届く。
「遅くなった。だが、もう……大丈夫だ」
ガルハルトはそっとその身を抱き上げる。
獣の腕が、彼のすべてを包むように。
リオンは、安堵のような微笑を、ほんの少しだけ浮かべた。
唇が、かすかに動く。
「……殿下、やっぱり、きてくれた……」
それが、黒狼にとっての“勝利”だった。
———————
投稿は毎日8時・21時の2回です。
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クラウスとガルハルト。
向かい合う二人の男の間には、もはや言葉では覆せないほどの断絶があった。
床に漂うのは、熱と、薬の匂い、そして──リオンの発情を誘う甘い香り。
その中心で、リオンは蒼白な顔を伏せていた。
薄く震える指先が、かすかに布を握り締めている。
「……ずいぶんと素早い。まさか“臭い”で追ってきたとでも?」
クラウスは笑った。
唇には優美な曲線が浮かんでいたが、その目は獣を見るような冷たさを宿しており、口調に、獣人種への露骨な侮蔑が滲んでいた。
だが、ガルハルトはその挑発に反応しなかった。
ただ静かに、リオンの姿だけを見据えていた。
「私の弟に、よくもまあ――獣が、手を出してくれたものだ」
「弟? ……彼を、“弟”として見ていたか?」
低く返したその声に、クラウスの目が細まった。
「彼を“物”として見る時点で、お前に彼へ触れる資格はない」
静かだった。
怒声ではなかった。
けれどその一言に、クラウスの口元から笑みが消えた。
空気が一変する。
次の瞬間、クラウスの指先から火花が走る。
そこから放たれたのは魔法だ。
反射的にガルハルトが横に跳ぶと、床板が爆ぜた。
間合いがあっては不利になると判断し、飛びかかる。
そして、ぶつかり合う拳と拳。
ガルハルトの打撃は重く、正確だった。
鍛え抜かれた肉体から繰り出される一撃は、王太子である以前に“戦士”のものだ。
クラウスも決して弱くはない。それなりに貴族の嗜みとして剣術も備わっている。
だが、クラウスの攻撃はどこか歪んでいた。
嫉妬。
怒り。
奪われたという思い込み。
――それらが、彼の体を突き動かしていた。
「お前がいなければ、リオンは私のものだった」
「よく言えたものだな。お前は、あの子に一度でも向き合ったことがあるのかっ」
互いの拳がぶつかり、打音が散る。
クラウスの表情には焦りが浮かんでいた。
――力では、敵わない。
それを理解した瞬間、彼は一歩、後退した。
ガルハルトの目が、鋭く光る。
「逃がさん……!」
吠えるような声と共に、ガルハルトが踏み込む――が。
「くっ……!」
クラウスは懐から出した紙を踏み抜いた。
瞬間、爆発的な光と煙が部屋を覆う。
それはいざという時のための簡易的な魔法陣が書かれた魔法具だった。
視界が白に塗り潰される。
爆風の向こう、クラウスの姿が煙の中に消えていく。
「殿下!」
ライの叫び声と共に、近衛兵たちが駆け込んでくる。
だが、時すでに遅し。
「……逃げたか」
煙が薄れた室内で、ガルハルトは歯を食いしばる。
だが、その視線はすぐに――リオンの元へと向けられた。
薄布の上から見える肩は細く、息は浅く、微かに熱を持っていた。
「……リオン……!」
息を呑んで、駆け寄る。
あまりに細い肩、汗に濡れた前髪――見慣れたはずの姿が、こんなにも遠く感じたのは、初めてだった。
熱に浮かされたリオンの瞳が、かすかに動く。
「……殿下……?」
消え入りそうな声。
だがその一言が、ガルハルトの胸に深く届く。
「遅くなった。だが、もう……大丈夫だ」
ガルハルトはそっとその身を抱き上げる。
獣の腕が、彼のすべてを包むように。
リオンは、安堵のような微笑を、ほんの少しだけ浮かべた。
唇が、かすかに動く。
「……殿下、やっぱり、きてくれた……」
それが、黒狼にとっての“勝利”だった。
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