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1巻
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しおりを挟むプロローグ
都心から少し離れている場所にあるワンルームマンション。就職して田舎から東京に出てきた際、右も左も分からないところに不動産屋からこのマンションを勧められ、住人のほとんどが女性と聞いて即決した。
最先端を行くようなマンションではないけれど、デザイナーもオーナーも女性ということもあって全体的に可愛く、外観は白で統一されていて清潔感がある。
駅近で、利便性もいいからとても気に入っていた。だから私――藤ヶ谷希美は、五年間ずっとここに住んでいる。
「ただいま~」
真っ暗な部屋に入って電気のスイッチを押すと、朝に見たままの景色が広がった。ベビーピンクとホワイトで揃えた部屋のインテリアは、我ながら女子力が高いと思う。こういう可愛い部屋に住みたくて、ネットで調べてひとつずつ揃えていったのだ。
そして完成したのが、今の部屋。誰に見せるわけでもないけど、自分は満足している。
部屋の中に入って、廊下を歩きながらストッキングを脱いで洗濯機に放り込む。部屋着に着替え、コンタクトを外して眼鏡をかけると、髪をほどいてリラックスした状態になった。
「はぁー、今日も疲れた」
洗面所で手を洗ったあと、冷蔵庫から昨日のうちに作り置きしておいたおかずとサラダを取り出す。そして炭酸水をグラスに注いだら、それらをトレーに載せて、リビングへ向かった。
リビングの真ん中にある木製のテーブルの上に食事を並べて、ご飯を食べ始める。
バラエティー番組を見てケラケラ笑いながら食事をして、そのあと九時から始まるドラマを見つつ洗濯物を干す。それが終わったら後片付けをして、冷蔵庫の中のもので簡単な作り置きおかずを作っておく。
「さて、お風呂に入ろっと」
湯船に浸かって半身浴をしながら防水のタブレット端末でネット配信の番組を見たり、本を読んだり、リラックスタイムを過ごす。いい香りのボディソープを使って入念に体を洗い、美容院で買ったシャンプーとコンディショナーで髪を洗う。
お風呂から上がって、セミロングの髪にトリートメントをしてうるおいを補給したら、お気に入りのシリーズのスキンケア用品で顔と体をお手入れしてベッドに入るのだ。
そして、眠る前に毎回思うのは――
「この生活、最高ーっ‼」
ひとりの時間を謳歌できるこの環境。仕事帰りに英会話やヨガに通えるし、友人と食事に行くこともできる。休日は何時まで寝ていても文句を言われないし、好きな時間に起きてひとりで買い物に行って、たまにエステに行ってみたりして。外見だけでなく中身を磨くことも大事だ。いろいろなことを勉強して、洗練された都会の女性になるべく自分磨きに精を出す。その努力も全部自分のため。
ああ、私、自分の人生を生きてる――そう実感できる瞬間だ。
この生活にたどり着くまでには、長い道のりがあった。そしてある人のおかげでもたらされているものだと、その人物に感謝しなければならない。
この誰にも縛られない悠々自適な時間は、結婚をしたからこそ手に入れたもの。そう、私はひとり暮らしをしているにもかかわらず、既婚者なのだ。
結婚したものの一緒に住んでいない。形だけの結婚で、お互い必要なときにだけ夫婦のふりをする――そんな偽装結婚をしている。
夫とは関係が良好だが恋愛感情はない。
そんな二人にはルールがある。
必要なときだけ連絡を取る。
それぞれ別の生計を立てていて、生活スタイルは独身のときと変えない。
恋愛は自由。
もしどちらかがこの婚姻関係を不要だと思った場合は、離婚を切り出すことができる。
その場合、提案された側は、異議を申し立てず受け入れること。
そんな条件を交わして、半年前、私は夫――藤ヶ谷涼介さんと結婚した。
1
――ことの始まりは半年前。私が鈴村希美だったころ。
メールを知らせる枕元のスマホを手に取ると、まだ朝五時だった。こんな時間に連絡をしてくるのは、母しかいない。
東北地方で酪農業を営む鈴村家は五時に起床して、まだ暗い時間から牛舎に向かい掃除を始める。それが終わったら餌をあげて、牛たちの体調に変わりがないかチェック。それから家族で朝食をとって、一休みしてから搾乳をする。
うちの家はそんな一日の始まりだったことを、覚醒しきっていない頭で思い出す。
『おはよう、希美。来月お誕生日ね。約束覚えてる?』
その文面を見て、一気に目が覚めた。
母は私が就職をして東京に行くことを強く反対していた。
地元の中学、高校、大学へ進学し、両親に望まれる生き方をしてきた。礼儀正しく慎ましく、決して派手にせず、家庭的な女性になるよう教え込まれてきた。
けれどそんな生活が嫌で、就職活動が始まると家族に内緒で東京に本社がある大手企業ばかり面接を受ける。就職で家を離れるとなれば、頭の固い両親だって納得するはず。その結果、私は健康食品や医療施設向けの体組成計等を製造・販売をしている、グレハティ株式会社に就職することができた。
晴れて家を出ることになったものの、母からひとつ条件を提示された。
自由にしていいのは五年だけ。二十八歳の誕生日を過ぎたら、実家に帰ってくること。その際、両親が見つけてきた男性と結婚するか、母が納得するような真っ当で安定した職業に就いている男性を自分で見つけて結婚するか、どちらかを選ぶこと。
その条件を呑めるのなら、家を出てもいい――そう言われたのだ。
とにかく家を出たかった私は、母の出す条件を受け入れた。条件なんて言っているけれど、五年も経てばうやむやになるかもしれないし、今とは違う状況になっているはず。都会に出て仕事をしているうちに、素敵な人と巡り合える可能性だってある。そして母の望み通り、結婚しているかもしれない。
そんな未来に胸を膨らませて家を出て、初めて手にした自由。住んでいるマンションはオシャレで、駅近で利便性がよくて、近くにコンビニがあって、夜になってもいつまでも町が明るい。
誰にも監視されることなく、時間を自由に使える。いつ出かけても文句を言われないし、門限もない。夢見ていた生活そのものだ。
そして仕事は、一生懸命打ち込んでいくうちに責任のある仕事を任されるようになり、自分の企画したものを商品化することもできた。仕事にやりがいを感じ、自分で稼いだお金で、好きな洋服を買って、美味しいものを食べて。欲しい知識を得るために、たくさんの場所に足を運んで、有意義に時間を使える。
自立した生活を送れる幸せ。そんな毎日がずっと続くのだと思っていたのに……
就職して丸五年経つ今年の四月から、母からのメールが頻繁に来るようになった。
『もうすぐゴールデンウイークだけど、帰ってくるの?』
『いい人はできた?』
『あなたの誕生日の六月までよ。分かってる?』
もしかしてうやむやになるかも、なんて甘かった。母はずっとこのときを待っていたのだ。壁にかかっているカレンダーを見て、今日が五月二十日であることを確認し、頭を抱える。
私の誕生日は六月二十日。
タイムリミットはあと一ヵ月。彼氏いない歴二十八年の私に、残りの一ヵ月で結婚相手が見つかるような奇跡など起こるはずがない。
「あああ……終わりだ」
終わりの始まりだと絶望した私は、布団を頭まで被っていつもの起床時間までふて寝した。
今日は月曜日。週頭の早朝にあんなメールを送ってこられて、気分は最悪だ。
母からのメールを無視してこのまま働き続けたらどうだろう? ああ、だめだ。そんなことをしたら会社まで乗り込んでくるに違いない。そして今すぐ仕事をやめろと言うだろう。
会社勤めをしたことがない母にビジネスマナーなど通用するわけないし、強制送還させられてゲームオーバーになるだけだ。
そうなるくらいなら、ちゃんと一ヵ月前に退職願を提出して会社を去るほうがいい。一緒に働いてきたメンバーに迷惑をかけられない。今まで自分が受け持っていたものを全て引き継いでから去るのが義理だ。
「はぁ」と深いため息をついて、オフィスビルのエントランスに入る。首から下げた社員証をセキュリティ端末にかざしてゲートを通る。
ライトグレーのセットアップスーツに、インナーは白のフリルブラウス。動きやすさを重視している私は、パンツスーツを好んで着ている。髪はすっきり見えるようにひとつに纏めて、毛先に女性らしさが出るようにふんわりと巻いてあった。
日焼けするとすぐに赤くなってしまう白い肌と、濃いアイシャドーを使うと派手になりすぎる目。
鼻は平凡で、唇は顔のパーツで唯一好きなところ。薄すぎず厚すぎない感じで、いろんなリップを塗って楽しんでいる。
昔はほぼスッピンであか抜けていなかったけれど、今は違う。ちゃんとメイクをして年相応に見られるようになってきた。もうすぐ二十七歳になるし、若いだけが取り柄じゃない、ちゃんとした大人の女性に見られるように心がけている。
こんなに外見に気を使っても、浮いた話のひとつもないなんて……ちょっと悲しくなってきた。
「おはようございます」
「おはよう」
私の所属するWEB開発部のフロアに入ると、後輩の西野真琴が近づいてきた。
「希美さん、今日はGAGADOの社長とお約束の日ですよね?」
「GAGADOの社長……ああ、藤ヶ谷さんね。そうだね、十時からアポを取ってるけど。それがどうしたの?」
「ああー、いいなぁ……。藤ヶ谷さんと一緒にお仕事できるなんて、羨ましすぎます……」
開口一番何を言い出すのかと思いきや、藤ヶ谷さんの話かと呆れる。
GAGADOとは、動画サイトをいくつも運営する、今をときめくIT企業、GAGADO・JAPAN株式会社のことだ。
GAGADOの社長である藤ヶ谷涼介は二十代前半に会社を立ち上げ、WEBコンテンツをいくつも開発して、人気アプリを作り出した人物。
さらに料理動画にいち早く目をつけ、料理レシピや健康管理ができるようなものを制作し、もともと健康管理を得意とするうちの会社の監修を受けて、爆発的な人気アプリを作り出した。
当時はグレハティにとっても、体脂肪計や体組成計と連動させてスマホで管理できるものが欲しかった時期だったし、世間で料理レシピが話題になっていたタイミングだった。
動画サイトやアプリの運営に定評のあるGAGADOと共に人気アプリを作り出せたことは、大きな収益となった。
グレハティの製品も前年を超える売り上げを叩き出し、今もまだ右肩上がりだ。
私は半年ほど前からアプリ担当になり、GAGADOと毎月ミーティングを行っている。GAGADO側の制作チームと、藤ヶ谷社長、それからうちの健康管理部と私とでその月に掲載するレシピ動画の打ち合わせをするのだ。
「まぁ……確かに、藤ヶ谷さんは素敵な人だと思う。でも私たちみたいな普通のOLは相手にしないんじゃないかな。もっとこう……モデルとか、芸能人とか相手にしてそうじゃない?」
藤ヶ谷涼介と言ったら、セレブ特集で名が挙がるくらいの有名人。フルオーダーらしき仕立てのいいスーツに身を包み、インテリジェントな雰囲気を放ち、一目見ただけで腰が砕けてしまいそうなほどのいい男感がある。
セットされた艶のある黒髪も、きりっと男らしい目元も、高い鼻も、形のいい唇も、申し分ないほど完璧に配置されている上に、百八十センチの長身。俳優になれるんじゃないかと思うほどの端整な顔立ちをしている。
しかも群を抜いて仕事ができるハイスペックな男性だ。
仕事に対して一切手を抜かない。面倒なことでも妥協せず自ら先頭に立ってやる。この人ともっと一緒にいいものを造りたいと思わせるようなカリスマ性もある。
だからそんな魅力的な人には、すでにそのレベルの女性が傍にいると思うのだけど。
「ですよね……激しく同意です。でも、藤ヶ谷社長に誘われたら……遊びでもいいから一晩過ごしたいです」
「こらこら、朝から何を言ってるの。西野さん、彼氏いるでしょ。しかもうちの会社に」
「はは、そうでした~」
西野さんは、ぺろっと舌を出して笑う。西野さんは、別部署の男性社員と付き合っている。それなのに藤ヶ谷さんに誘われたらついて行っちゃうなんて、けしからん。でも、そういうおちゃめなところが彼女の魅力だ。
恋愛に縁遠い私だって、社内恋愛に憧れていた時期もある。残念ながら、五年勤めているのに一度もそんなことは起きなかったけど。
「とにかく、写真撮れたら撮ってきてくださいね」
「そんなの、撮れるわけないでしょ。もう」
悪びれることなく、割と本気でそんなことを言って西野さんは離れていった。
それから私は、十時からの約束までにやるべき仕事を片付け、同行するメンバーと会社を出た。GAGADOのオフィスに到着したころ、バッグに入れていたスマホが震えていることに気がついた。
母からだ。
そのまま無視しておこうと思ったが、一度コールが鳴り終わったあと、すぐまた着信が来たのでメンバーから少し離れて出ることにした。
「もしもし?」
『希美、やっと出た。朝のメールも返信ないし、何かあったのかと心配したのよ』
「ごめん、ごめん。急いでいて返信できなかっただけだよ。それより、何? 急ぎの用事でもあった?」
何度も電話をかけてくるくらいだから、何か大事な用件があるのかと聞いてみる。しかし私の心配は杞憂だった。
『で、約束の日が近づいているけど、分かってる? どうせ結婚できるような相手いないんでしょ? 早くこっちに帰ってきてちょうだい』
もう二十八歳なのよ、と話は続いていく。
母の価値観は古い。最近では三十歳を過ぎてから結婚する人も多いし、二十代は自分のやりたいことをして、結婚なんてまだまだ先だと感じるような世代だ。けれど、母の感覚でいくと二十八歳は、もう結婚適齢期を逃していて、早く子どもを産まなければならない年齢らしい。
仕事を辞めて結婚して専業主婦になる。女性は家庭を守り子育てする。親の介護は子どもがする。こういったものを全てするのが子どもの務めだと決めつけているところがある。
話が不穏な方向に向かっている気がして、嫌な予感が胸を過る。いつもならこの辺で話が終わるのに、今日は全然止まる気配がなく、次から次へと話が続いていく。
『お母さんね、希美の結婚相手見つけてあるから安心していいわよ』
「え……? どういうこと?」
母の爆弾発言を聞いて、頭がクラクラする。私に何の断りもなく結婚相手を見つけるなんて、一体どういうこと?
相変わらず強引だと呆れ返る。
『小、中学校が同じだった、福山卓也くんって覚えてる? 彼ね、今、地元で役所勤めをしている、真面目で立派な人なの。希美と結婚してもいいって言ってくれているのよ』
福山卓也……?
フルネームを聞いてピンとこなかったけれど、しばらくして記憶の彼方にヒットする人物が思い浮かんだ。確か瓶底眼鏡をかけて大人しい雰囲気の男の子だったような気がする。
あまり接点がなかったため、仲良くしていた記憶はないけれど……なぜ結婚話が出るのだろう?
「いやいやいや……お母さん、ちょっと待って。私……」
『待たないわ。うちを出るとき、約束したでしょう? あなたに五年猶予をあげただけでも、お母さんは譲歩したつもりよ。いつまでも好き放題してはいけないわ』
ぴしゃりと話を遮られる。確かにこの五年間は、自分の好きなように過ごして独身生活を謳歌してきた。
ここまで育ててもらった恩があるし、いつまでも両親を心配させてはいけないことも理解できる。だからって私の人生なのに、両親の言いなりになるのは何か違う気がする。
『とにかく、来月までだからね。七月にはこちらに帰ってくるように』
返事をしていないにもかかわらず、話は終了し電話を切られてしまった。ホーム画面に戻ったスマホを眺めて深いため息を漏らす。
「鈴村さん、もう時間ですよ」
電話を終えて茫然としている私に、同行メンバーのひとりが声をかけてきた。落ち込んでいる場合ではない。今から大事な打ち合わせが始まるのだから集中しないと。
「はい、すぐ行きます」
スマホをバッグにしまい込み、私はオフィスの中へ向かって歩き出した。
定例ミーティングでは、来月のレシピ動画の内容を決める。そしてユーザーからの意見を取り入れたアプリの更新をお願いするのだ。
それとは別に、うちから腕時計型のウェアラブルコンピュータ――いわゆるスマートウォッチを発売するにあたっての性能の説明などを二時間にわたって詰めていく。
制作チームが話を進める中、藤ヶ谷社長も意見を出す。
「スマートウォッチの性能で血圧や心拍数を管理できるのであれば、ユーザーの血圧の異常値を感知した場合に警告し、体調の変化に気づけるようにしたいです。その際、服用や医療機関への受診を促す、緊急時には周囲に知らせるなどの機能があれば、なおいいと思うんですが、その辺り、御社はどのようにお考えですか?」
「確かに、せっかくユーザーの体調を管理できるのであれば、危険を知らせる機能があったほうがいいかもしれませんね」
「そうです。この手の商品を持ちたいと思うユーザーは、健康への意識が高いですし、自身の健康状態に不安を持っていると思います。なので、危険を知らせる機能が搭載されているほうが、より購買意欲が高まるかと」
ただの健康器具の延長線になるのではなく、医療機器に近いクオリティにしたいと言う。
以降の藤ヶ谷さんの発言はどれも鋭い指摘ばかりで、「そうきたか」と納得するものだった。
さすが藤ヶ谷社長。着眼点が他の人とは違う。成功者とはこういう物の考え方をするのだと感心させられるし、知識も豊富だ。数字にもシビアで、ちゃんとした裏付けと共に、どうすれば利益が出るのかまで全て説明してくれる。
「こういう方向でいきたいと思いますが、皆さんはいかがでしょうか?」
彼は一通り述べたあと、周囲に意見を求めた。自分の意見を押し通そうとせず、それぞれの考えを聞いてくれる。そういうところも、器の大きさを感じさせる。
「藤ヶ谷社長のご意見にはいつも驚かされます。敬服いたしました、さすがです」
うちの社員が、彼のすごさに心酔してため息を漏らす。
「いえいえ、もともとは御社の製品じゃないですか。素晴らしいアイデアで作り上げられたものを、よりいいものにしたくて熱くなってしまいました」
はは、と照れて笑う姿も素敵だ。
「今ご提案させていただいたところを組み込んでくだされば、もっと素晴らしいものになると確信しています。ぜひ、お願いします」
その強気な姿勢に圧倒されるのと同時に、尊敬の念が湧いてくる。この人と一緒に仕事ができたら、もっと新しい世界が見られるような気がする。
でも――その藤ヶ谷社長とも、もうお別れかと思うと寂しくなってしまう。
無意識に彼のほうを見ていると、顔を上げた藤ヶ谷さんと目が合う。にこっと微笑みかけられて思わず赤面してしまった。
わ、わわ……! なに、あの素敵なスマイルは。美男子の微笑みがこんなにも胸に刺さるなんて知らなかった。挨拶程度に微笑まれただけなのに、心臓の音がうるさく鳴る。
藤ヶ谷社長が、女性からの人気が高いことも納得できる。藤ヶ谷社長に微笑みかけられたなんて、西野さんに知られたら怒られそうだ。
ミーティングが終わると、うちの健康管理部のメンバーは次のアポが間に合わないので急ぐと言って出ていった。私はこのあとの予定はないので、ひとりで片付けをする。
すると藤ヶ谷さんがこちらに向かって歩いてきた。
「鈴村さん、このあとご予定は?」
「特にありませんが……いかがされましたか?」
「もしよければ、一緒にランチでもいかがですか? 鈴村さんともう少しお話ししたくて」
まさか藤ヶ谷さんに誘ってもらえるなんて思っていなくて驚いた。仕事の話をもっとしたいのだと思い、急いで首を縦に振る。
「はい、行きます。お誘いありがとうございます」
仕事熱心な人だ。ランチミーティングをしようと思うくらい、うちのアプリに関心を持ってくれているということなのだろう。グレハティとしてもGAGADOの力は必要不可欠なので、この関係を大切にしなければならない。
なのだけど……ランチミーティングなので向こうの制作チームも一緒かと思っていたのに、レストランに案内されたのは私ひとりだった。
「あの……他の方は……?」
「ふたりきりですよ」
ええ……っ、ふたりきりなの?
まさかそんなことになるとは思わず、気軽に返事してしまったけどよかったのだろうか。
連れて来られたのは、ビルの最上階に入っている高級なフレンチレストラン。ドレスコードがありそうな場所だけど、スーツだからセーフだろう。
男性と接する機会が少ないから、こんな素敵な男性とふたりきりで食事なんて緊張してしまう。失礼なことをしてしまわないよう気を引き締めなければ。
「さ、座って」
「失礼します」
案内された席は、窓際の半個室。窓からは東京の街並みが一望できる、とても開放的でいい席だ。
「鈴村さんは、何か食べられないものはありますか?」
「大丈夫です。苦手なものはありません」
「そうですか」
藤ヶ谷さんはおすすめのものをオーダーし、緊張している私に気を使わせないように配慮してくれた。
ああ、もう。どこまでスマートなんだろう。女性の扱いも、話も上手。レストランの華やかさに負けないくらいの色気があって絵になる。
「鈴村さんと一緒にお仕事をするようになって、半年ほど経ちますね。いつも食事に誘いたいなと思っていたんですけど、皆さんと一緒なのでなかなかチャンスがなくて」
お世辞でも、そんなふうに言われたら胸が跳ねる。思わず顔が緩んでしまいそうになって少し俯く。
「僕、鈴村さんの仕事に対する姿勢が好きなんです。周りに対して何を求められているのか、先回りして考えて動いていますよね。それから、こちらの要求にすぐ応えられるように抜かりなく準備している。なかなかここまでできる人はいませんよ」
「いやいや……。藤ヶ谷さんは、私のことを過大評価なさっています」
以前アプリで、ある一定のスマホの機種に対してバグが生じたことがあった。その報告をした際、詳細を述べると共に、その機種を準備していた。社内ではそこまでしなくてもいいのではという声もあったが、藤ヶ谷さんはきっと自分の目ですぐ確かめたいだろうと思ったので持っていくことにしたのだ。
それ以外にも、彼が指摘しそうなものを予測して、ある程度準備してミーティングに臨んでいたので、きっとそれを評価してくれたのだろう。
「そんなことない。鈴村さんはとても優秀な方だ。うちの会社に来てほしいくらいです」
「そんな……」
「まぁ、懇意にしていただいているグレハティの社員さんをヘッドハンティングなんてしたら、関係が悪化してしまうので、実際にはできませんが。でも、鈴村さんが欲しいのは本当ですよ」
その色気溢れる声で「欲しい」なんて言われたら、舞い上がってしまいそうになる。あまりの刺激的な状況に胸の鼓動がバクバクとうるさい。
こんなにドキドキさせられるなんて初めての体験だ。
恥ずかしさで縮こまっていると、前菜が運ばれてきた。顔を上げると、藤ヶ谷さんがにこっと微笑みかけてくる。
「食べましょうか」
「はい」
こんなにお淑やかになるなんて、いつもの私じゃないみたい。男性の同僚と食事をしても、照れることなんてないのに。
「そうだ。来年、新しいSNSを発表することになりそうなんです。サンプルが出来上がったら、すぐにお見せします。というか、やはりこれも鈴村さんが開発チームに入ってくれたらな……なんて思ってしまうんですよね」
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