ヤンデレ社長は別れた妻を一途に愛しすぎている

藍川せりか

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1巻

1-1

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   プロローグ


 世の中には、予期せぬことが起きることがある。
 交通事故に遭ったり、病気になったり、思ってもみないことが突然起きて、慌てたり驚いたりするのだ。
 何もかも思い通りにいかないのが人生。
 そう分かっているはずなのに、アクシデントが発生するたびに「どうしてこんなことになったんだろう……」とショックを受ける。それでも、何度も立ち上がってここまでやってきたのに。
 まだ、こんなことが起きますか。


 四月。今年度最初の朝礼なので気合を入れてのぞむ。
 新調したブランドスーツはライトベージュのノーカラージャケットのセットアップ。さわやかな春をイメージしたお気に入りのスーツは、体のラインを綺麗に見せてくれる。セミロングの髪は外巻き内巻きのミックスにしてトレンドを取り入れてみた。
 今日の私、なかなかいい感じ。メイクもヘアもファッションもトータルでうまくいった日は機嫌がいい。そういうのが仕事のモチベーションを上げてくれるから手を抜かない。
 新鮮な気持ちで朝礼に参加し、前向きな気分で司会進行をしている社員の話に耳を傾ける。
 私が勤めるのは、ニューヨークから進出してきた、新コスメブランド・ヴィグレイシアの日本支社。日本に来たばかりのブランドなのだが、大手化粧品会社である琥珀堂こはくどうの傘下に入っている。
 まだ周知されていないこの新しいブランドを日本に広めていくためにヘッドハンティングされ、一年前に入社した。
 日本発売から一年が経過し、少しずつ認知されてきて売り上げは上昇中。先月は雑誌の特集のおかげで注目のコスメブランドとして話題入りし、二十代女性を中心にかなり注目されている。
 そんな中、突然日本支社長が代わると発表され、社員たちは不安と期待で揺れていた。


「では、新社長を紹介いたします。皆さん、ご注目ください」

 オフィスに集められた多くの社員たちの前に現れた長身の男性に目を奪われる。彼はフルオーダーであろう体にフィットしたスーツを着こなし、自信に満ちあふれた堂々とした姿勢で挨拶あいさつを始めた。

「初めまして、今年度からヴィグレイシアの日本支社長に就任しました吉成裕典よしなりゆうすけと申します。この業界は未経験ですが、他業種でいくつか会社を経営して経験を積んで参りました。皆さまと会社を大きく成長させていけるよう最善を尽くしますので、よろしくお願いいたします」

 そう挨拶あいさつする男性――吉成裕典。
 よくよく見覚えのあるその顔を見つめて、私は開いた口が塞がらなかった。
 百八十センチを超える長身、筋肉質な体つき、すらっと伸びた足。きりっと男らしく、薄すぎず濃すぎない絶妙なバランスの顔立ち。真顔だと凜々りりしいのに、微笑むと可愛らしくなる雰囲気。
 髪はミディアムくらいの長さで色気があるし、口元から見える歯も白くて綺麗だ。
 年齢は三十二歳と社長にしては若いけれど、彼の今までの経歴を知れば若さなんて問題ない。むしろその若さで数々の事業を成功させてきたのだから、実力は充分にあると納得できるだろう。
 そんな彼は、私――横井よこい茉莉花まりかの「元」旦那だ。
 二十八歳のときに出会い、スピード結婚。そして、二十九歳で離婚。
 別れて一年。三十歳の今、やっと心の傷がえてきたところに、まさかの再会。
 再会というか、同じ職場って……そんなことある?
 離婚してから一度も会っていないし、私がこの会社にいることも知らないはずだから、偶然なのだろうけど……正直、こんな偶然はいらない。
 挨拶あいさつをしている裕典の姿を見て顔を引きつらせていると、隣にいる同僚の大貫おおぬきあずさが話しかけてきた。

「ねえ、吉成社長って有名な実業家で、今までいろんな会社の経営してきたんだよね。すごいよね、いくつも会社を経営していて、その全部に成功しているなんて。しかも男前だし。こんな人と結婚したい~」

 私、結婚してた~と心の中で答えて、顔がより引きつる。

「そう? だったら、アプローチしてみれば? もしかしたらいけるかもしれないじゃない」
「ええ~。そんなの無理だよ。だってあんなにハイスペックな人だよ。絶対恋人がいるよ」
「そうかな」

 挨拶あいさつを終えた裕典は、私たち社員の朝礼を聞くために、壁際に移動する。男性社員が彼の傍につき、小さな声で何かを話している。きっと今行われている朝礼の内容を説明しているのだろう。
 久しぶりに見たけど……前と少し印象が違う気がする。
 髪形かな……?
 前はもっと短髪でさわやかな感じだった。それと体つきがたくましくなった? 前はもっとすらっとしてモデルみたいに細かったけれど、今は体が一回り大きくなって男らしさが増した気がする。
 以前より男ぶりがグレードアップしている感じがして、何だかしゃくに障る。私の知っていたころの裕典じゃなくなっていて……それは別にいいんだけど、でも何とも言い難い不快な気持ちが湧き上がってくる。
 そんな中、彼の視線がこちらを向いて、目が合ってしまった。
 う……っ、しまった。目が合っちゃった!
 まさか私だと気づいていないよね。こんなところに元嫁がいるなんて思ってもいないはず。急いで目を逸らそうとしたとき、彼は私を見てニコッと微笑んだ。
 そして「久しぶり」と声に出さず口を動かしてくる。
 バ、バレてる……!
 しかも、「久しぶり」と挨拶あいさつしてくるぐらいだから、私の存在をしっかり把握している様子だ。まさか分かっていてうちの会社に来たってこと?
 どんなリアクションをしていいか分からず、そっと視線を逸らすしかできなかった。



   1


 私、横井茉莉花は、ヴィグレイシアのマーケティング兼アドバイザートレーナーとして働いている。もともとビューティーアドバイザー(美容部員)になるため美容の専門学校に通っていた私は、卒業後、外資系ブランド・インフィニティグループのジョーカーコスメティックスに入社した。
 ジョーカーは、アメリカの人気メイクアップアーティストが創設したブランドで、アーティスト色の強いブランドだった。
 店のイメージカラーはブラック。百貨店の店舗に立つビューティーアドバイザーも全身黒の服を着たクールなイメージだった。
 専門学校でヘアメイクの勉強もしていた私は、メイクアップアーティストとしても働き、関東の売り上げトップにまで昇りつめ、二十五歳でビューティーアドバイザーからエキスパートアドバイザーに昇格した。それからは、お客さんから指名を貰い、全国の百貨店に行くようなポジションに就く。
 その後更に昇進して、二十七歳で本社勤務になった。店頭に出るのは週末の数回で、それ以外はトレーナーとしてビューティーアドバイザーの教育にいそしむ。メイクの技術はもちろん、どうやって商品を顧客にアプローチするかを教えていた。
 順調にジョーカーの中で昇格していった私だが、去年の四月、ヴィグレイシアに引き抜かれた。
 ジョーカーの日本事業部長が、日本に初上陸するヴィグレイシアの副社長に就任することとなり、彼に可愛がってもらっていた私も新ブランドに誘われたというわけだ。
 もともとコスメオタクの私は、海外旅行に行くたびに日本未発売のコスメを収集していた。そして数年前から注目していたのがヴィグレイシアだ。カラーアイテムの豊富なバリエーションと発色の良さ、ファンデーションのカバー力などがお気に入りで、日本での発売を熱望していた。
 そんな中、ヴィグレイシアの日本上陸が決まり、私は大好きなブランドを日本中に広めたいと引き抜きの話を二つ返事で受けたのだった。
 それなのに、それなのに、それなのに……っ!
 どうして元旦那が社長としてやってくるかな。そんなことってある? 酷すぎない?
 彼と別れて一年。
 やっと気持ちの整理ができて穏やかに暮らせるようになってきたというのに、再会しますか。しかも偶然に会ったとか、一時的に顔を合わせたとか、そういうレベルじゃない。
 同じ会社って……これからどうしたって、頻繁ひんぱんに顔を合わせるんじゃないの?
 裕典は社長だし、私たち社員の働くオフィスに机を並べることはないとはいえ、同じ階の別室にいるのだ。

「はぁ……」

 朝礼が終わり、肩を落としながら自分のデスクに戻る。
 久しぶりに裕典の姿を見て、この一年なるべく考えないようにしていた過去の思い出がぶわっとよみがえってきた。


 ――二年前の二月。
 ジョーカーで昇格して乗りに乗っていたある日、専門学校時代からの友人に急に飲み会に誘われて、仕事着でもある全身黒ずくめの服で参加することになった。
 当時の私は仕事に夢中だったので、長いこと恋人がいなかった。仕事は充実していて楽しい。やりたかった仕事に就けて満足しているけど、このまま独身なのかな――なんて漠然と考えていた。
 せっかくの出会いのチャンスに、こんな可愛げのない格好で行くなんて……
 そう思って一瞬気が引けたけど、きっといい人なんていないだろう。
 たまにこんな飲み会があるものの、いつも何も起こらない。ただご飯を食べて帰るだけだ。
 今日もそうなるだろうと思い、期待せずに行ったのだが――
 そこで彼と出会った。

「初めまして、吉成裕典です」

 目の前に座っている男性の照れくさそうに挨拶あいさつする様子が印象的で、さわやかで格好いい外見とは裏腹に可愛いと思った。感じのいい彼に目を奪われ、何となくこちらも照れる。
 彼はIT系の会社を経営しているらしく、いつも家に引きこもっているらしい。今日は友人に誘われて久しぶりに外出したのだと話していた。
 見た目もいいし感じもいいのに、ずっと家に引きこもっているなんてもったいない。きっと外に働きに出たら女性にモテるだろう。だけど、彼はそんなことには興味がないようで、仕事ばかりしているという。
 そんな人もいるんだな……と驚いていると、吉成さんが私をじっと見ていることに気がついた。

「あの……聞いてもいいですか」
「はい、何でしょう」

 ぽつぽつと会話はしていたものの、改めてちゃんと声をかけられると緊張する。いいなと思った男性に声をかけてもらえて、少し気分が高揚している自分に気づく。

「こんなことを聞いては失礼かもしれませんが、横井さんは日本の方ですか? その……目の色が、グレーっぽいので」

 突然何を聞かれたのかと思えば、瞳の色のことだった。目の悪い私は普段コンタクトレンズをしていて、今日はメイクに合わせて立体的なグレーのカラーコンタクトをしている。

「ぷ……っ、はは。これはカラコンです」
「カラコン……?」
「カラーコンタクトです。コンタクトレンズに色がついているんですよ」

 前に座っている彼のほうに顔を向けて瞳を見せるけれど、よく分からないと言う。なので、彼の隣の男性がトイレに立ったタイミングでいた席に移動して顔を近づける。

「どうですか? 瞳の周りにうっすらレンズが見えません?」
「見え……ます。それと、アイシャドウ、すごく綺麗ですね」

 吉成さんにじっと見つめられて、メイクをめられて……急速に胸が高鳴り出す。普段からメイクの濃い私は、女性からメイクをめられることはあっても、男性からめられることはまずない。
 特にジョーカーはアーティスティックなメイクが特徴なので、奇抜な色のアイメイクをしていることが多いから男性ウケはよくないし、もっとナチュラルにすれば? と言われることも多い。
 それなのに、それを綺麗だとめてくれたのが嬉しくて舞い上がってしまった。

めていただいて、ありがとうございます」
「お肌もツルツルですね。美容部員をされているとおっしゃっていましたもんね。さすがです」
「いえいえ」

 恥ずかしくなってもとの席に戻ろうとしたとき、彼に腕を掴まれた。

「まだ隣にいてください。横井さんともう少し話したいです」
「え……っと。あの……」

 男性にそんなことを言われるのは久しぶりだった。
 どうしよう、私、どうすれば……!
 そうだ、お酒を飲もう。そうすれば、この緊張もほぐれるはず。
 料理にペアリングされたシャンパンを飲み、いい感じで酔ってきたころには、私と吉成さんは意気投合していた。

「スポーツは見る専門だけど、野球よりサッカー派。あと、ラグビーも好きだな」
「分かる! マッチョな選手格好いいよね」
「この前のワールドカップ見た?」
「うんうん、見たよ。夜中からだったじゃない? 全試合見たら朝になってた」

 趣味の話をしても合うし、音楽の趣味も近い。私が好きだというアーティストの話をすると、ライブに行ったことがあると言われて嬉しくなる。

美味おいしいものを食べているときが一番幸せだよ。でも仕事に没頭すると食べるのを後回しにしてしまうんだ。お腹いっぱいだと頭の回転が遅くなってリラックスモードになっちゃうから」
「そうだよね、私も。だからやらないといけないことをぜーんぶやってから、ご飯食べるようにしてる」
「俺も、同じだ」

 ご飯を食べるのも好きだし、お酒も好きだということが分かった。美味おいしいものを求めて海外旅行に行ったことがあると盛り上がり、吉成さんと夢中で話した。
 一軒目で飲み会は解散。そのまま帰ろうとしたとき、吉成さんに声をかけられた。

「茉莉花ちゃん! 二人でもう少し飲みたいんだけど……どうかな?」
「もちろん。行こう」

 こんなに意気投合した人は初めて。もっと話したいと思っていた私は、吉成さんとバーへ行くことになった。静かで落ち着いたバーのボックス席に座り、お酒を飲みながら会話は尽きない。
 いつしかさっきよりも深い話になって、仕事の話や恋愛の話になっていた。

「俺、この前三十歳になったんだよ。周りには結婚している奴もいて、正直ちょっとうらやましい」
「そうだね。私の周りも結婚ラッシュ。第一波が来たって感じ。まだまだ先でいいやーって思う気持ちと、ちょっと焦る気持ちがあるよね」
「そうなんだよなー。俺の家は、早く結婚してくれってうるさくて」
「うちも。三十歳までに結婚しないと、相手がいなくなるわよってかしてくる」
「一緒だ」

 そんなところまで一致して、そうだよね、と話が進む。

「吉成さんだったら、いい旦那さんになりそう」
「本当? 一人暮らしが長いから家事はするよ」
「それいいー。私、料理は好きだけど掃除が苦手なんだよね」
「俺は掃除が得意だけど、料理が苦手なんだよな」

 お互いの得意なところと苦手なところが別々で、この人と生活をしたら心地よさそうだと思い始める。

「吉成さんいいなぁ、すごくいい」
「じゃあ、試しに俺と結婚してみる?」
「え?」

 お酒の席の冗談とはいえ、そんなことを言われて胸が高鳴る。吉成さんと結婚したら、と想像が膨らんでいく。
 会って間もないけれど、見た目も好みだし、話も合う。好きなものの共通点が多いし、得意なことと苦手なことが正反対で、お互いのできない部分を補い合いながら生活できそう。
 いくつか会社を経営していてオフィスもあると言っているけれど、在宅の仕事が大半らしく、家事が得意なんだそう。
 私が外に働きに出ている間に、家にいてくれるようだし家事を分担できそうだ。それにお互い仕事が好きだし、結婚してもバリバリ働きたいというのも一致している。
 吉成さん、かなりいい。
 いきなり現れた好条件の彼。しかも結婚してみようか、と提案してくれている。軽いと言われたらそうかもしれないけれど、こういうことは勢いがないと前に進めないから、これくらいのノリのほうがいいのかもしれない。

「なーんてね。今日会ったばかりなのに、結婚なんてできないよね」
「いや……いいかも」
「茉莉花ちゃん……?」
「結婚してみようよ。案外いいかも、交際ゼロ日婚」

 吉成さんなら、仕事もちゃんとしているし、健康そうだし、申し分ない相手かもしれない。今日会ったばかりだけど、印象は悪くないし話していても楽しい。
 出会って長い間付き合ってから結婚しても、籍を入れてみないと分からないことだってあるだろうし、あれこれ考える時間がもったいない。
 そんなことを酔った勢いで話したのは覚えているけど――まさか本当にそうなるとは。
 私たちは、出会って二ヵ月で正式な夫婦となったのだった。


 あれから二年。
 その間に、入籍して、新婚生活を送って、離婚した。
 入籍したのも四月、離婚したのも四月。そして再会したのも四月。
 私の頭の中で、四月は厄月だとインプットされてしまいそうだ。
 ――よりにもよって同じ会社。
 元旦那と一緒に働くなんてあり得ない。そう思うけれど、大好きな仕事を放り投げて辞めるわけにもいかない。まだまだ始まったばかりのブランドで、これからというときにこんな私的なことで悩んでいる暇はない。
 考えていても仕方がないと、私は頭を仕事に切り替えることにした。
 人事部から貰った新店舗のスタッフ採用リストを眺めて研修内容をまとめていると、こちらに歩いてくる足音が聞えてきた。

「横井さん、ちょっといいですか?」

 カスタマーケア部の男性社員、長嶺ながみねさんだ。長嶺さんは主に顧客からのクレームや意見の対応をしている。

「どうぞ」
「このファイルを見てもらってもいいですか? 先月寄せられたお客様からのご意見です」

 長嶺さんが見せてくれたファイルをざっと確認する。
 プレストパウダーのひび割れについての件が目についた。

「プレストパウダーについてのご意見が多いですね」
「そうなんです。海外ではあまり起こっていないケースなので、日本の気候のせいかもしれません。それか輸送時の問題か」

 ヴィグレイシアではベースメイク商品が人気なのだが、非常に粒子の細かいパウダーのため破損しやすいという声があるのは確かだ。
 更に詳しい話を聞くため、私は長嶺さんに質問を続けた。

「分かりました。商品開発部に原因を追究してもらいますね。あわせて、店舗スタッフにも周知しておきます。ちなみにこういった場合、どういう対応をされていますか? 商品の交換? それとも返金ですか?」
「お客様に選んでいただいています。どちらを選ばれても、サンプルをいくつかお送りして謝罪のお手紙を添えています」
「なるほど」

 ヴィグレイシアはブランドとして未熟なので、こういったトラブルもまだまだ起きる。そのたびに、私たちはひとつずつ問題を解決して前に進んでいくしかないのだ。
 こういった場合、すぐに店舗へ連絡して、店頭での対応を周知しておく。お客様の信頼を失くさないために、その都度、丁寧に対応するように指示をしなければ。
 店舗はまだ都心の百貨店にしかないものの、二ヵ月後には関西への出店が決まっている。これからもっとブランドを大きくするために、いろいろとやらなければならないことは多い。
 これからの段取りを頭の中で考えていると、長嶺さんが明るい声で話題を変えた。

「あ、そうだ。話は変わりますけど、この前は出産祝いをありがとうございました」
「いえいえ、そんな。赤ちゃんはどうですか? 可愛いですか?」

 長嶺さんは、一ヵ月前に子どもが生まれたので、出産祝いを送ったのだ。奥様は大学からの同級生らしく長年の付き合いを経て、結婚に至ったのだとか。

「めちゃくちゃ可愛いですよ。ほら、見てください」
「わぁ~、本当だ。可愛い!」

 長嶺さんが見せてくれた写真は、新生児の写真。まだ生まれて間もないけれど、目元が長嶺さんに似ている。

「いいなぁ、赤ちゃん。ずっと見ていられます」
「横井さんもこれからじゃないですか」

 う……っ。
 今、三十歳の私は、いつ結婚や出産をしてもおかしくない年齢。けれど、正直、そんな気は全くない。

「あー、でも私、結婚願望ゼロなので」
「そうなんですか?」
「そうなんです。前の結婚で向いていないと気づいたので」

 この会社に入社したときは、すでに吉成から横井に変わっていたので、裕典が元の旦那だと気づく人はいないだろうけど、私に離婚歴があることはオープンにしている。
 隠すことでもないし、この会社の人たち全員が知っているだろう。

「でも……まぁ、こればっかりは縁ですからね。横井さんの気持ちを変化させてくれる人がまた現れるかもしれませんし、相手が変われば、内容も変わるかもしれませんよ」
「そうでしょうか……。ま、いいんですけど」

 裕典と離婚して、もう結婚はしたくないと思った。理由はいろいろあるけれど、離婚するのってかなりのエネルギーを消費する。想像を絶する大変さで、メンタルもやられるし、もうこんな思いは二度としたくないというのが本音だ。
 だから、今は恋愛より結婚より、仕事だ。

「とにかく、今は仕事に全力をそそぎます。私、仕事に生きることに決めたので」
「さすが横井さん。格好いいですね」
「ありがとうございます」

 余計なことを考える暇がないほど仕事に集中していたい。仕事は裏切らないし、やった分だけ成果を得られる。特に今は新ブランドを大きくしていくという目標があるから燃えていた。
 長嶺さんと雑談をしたあと、店舗に連絡メールを一斉送信し、新人トレーニングの内容をもう一度熟考する。そして、午後からは夏の新商品の資料に目を通してから、先月の売り上げについてのミーティングに出た。
 春の限定品の売り上げについてと、予約状況の確認。オンラインでの売り上げを伸ばすためのイベントについて話し合う。
 ミーティングが終わったのが六時。会議室から出て、オープンスペースのソファに座ってコーヒーを飲んでいると男性に声をかけられた。

「お疲れさま」
「…………お疲れさまです……社長」

 まさか初日から声をかけられるなんて想定外だった。できればずっと避けていたかったのに、声をかけられてしまうと逃げられない。


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