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1巻
1-3
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ハイブランドの化粧品コーナーに立っているのは、本城友香という同じ専門学校に通っていた私のプライベートを一番よく知る親友だ。
セミロングの黒髪を夜会巻きにし、陶器のように美しいマットなベースメイクをしている。夜なのにメイク崩れなど一切ない完璧な美女。アイホールに、今売り出し中のアイシャドウを乗せ、唇は真っ赤なリップをつけている。
研修で疲れた私と違って、その隙のない美しさに恍惚とする。何より、単純に友香は私の好みの顔だから、その綺麗な顔をいつまでも見ていられるのだ。
「どうしたの、疲れてるね」
「いろいろあったんだよ……ねえ、友香。仕事終わるまで待ってるから、これから一緒に食事に行こう」
「私ラストまでだけど、それでもいい?」
「うん、もちろん」
友香とは頻繁に食事に行くし、社会人になった今でも休みが合えば遊びに出かけるくらいの仲良しだ。気を許せる存在で、彼女の前では気を張らずに何でも話せる。
そんな友香と食事に行く約束をした私は、舞い上がった気持ちのまま百貨店の中にあるパウダールームに向かい、化粧直しを始めた。
まずは乳液をコットンに出して、崩れたファンデーションを落とす。そしてもう一度ベースメイクからやり直して、疲れのにじみ出ていた顔を綺麗にしていく。一旦落として最初からやり直すのは美容部員時代の名残だと思う。部分的に化粧直しをするより、こうしたほうが結果的に綺麗な仕上がりになる。
化粧直しをしたあと、百貨店の近くのカフェで友香を待っていた。
「お待たせ~」
閉店作業を終え、制服から私服に着がえた友香は、リラックスした様子で私の前に座る。
「お疲れさま。急に誘ってごめんね」
「ううん、気にしないで。どうする、いつもの店でいい?」
「うん」
カフェのお会計を済ませて、私たちはよく行くイタリアンレストランへ向かうことにした。そこは料理が美味しいのはもちろん、個室で落ち着いているのでゆっくりできるから気に入っている。
到着して一通り料理をオーダーしたところで、私は向かいの友香に泣きついた。
「友香ぁーっ」
「どうした、どうした」
会社では見せないふにゃふにゃの顔で、私は最近起こったことを友香に打ち明ける。
「裕典がうちの会社の社長になった……」
「嘘でしょ、そんなことってある!?」
「あったんだよ、そんなことが!!」
星の数ほどある会社の中で、どうして私の勤めている会社にやってきたのか。しかも無視してくれればいいのに、顔を合わせるたびに笑いかけてきたり話しかけてきたりする。
「裕典くんと離婚してから連絡とってないって言ってたよね。茉莉花がヴィグレイシアにいること、知らなかったはずだよね?」
「そう、だと思うけど」
「そんな偶然、あるんだね」
会社や家では出せない弱気な自分を曝け出す。
「どうしよう……こんなの、困るよ」
「まぁ……元旦那が会社にいるなんて、地獄だわな」
とはいえ、そんな人、世の中にはごまんといるかもしれない。社内恋愛して結婚した人で離婚に至ったのなら、こういう状況もあり得るだろう。だけど、私の場合は防ごうと思えば裕典の気持ちひとつで防げたはずなのに、そうはしなかったってこと。
私がいることを知っていて、それに気を留めることなく入社するほどヴィグレイシアを気に入ったというのが本当だとしても、私にとっては嫌がらせでしかない。
「いちいち視界に入るしさ、しかも前よりフェロモンムンムンになってて、それが腹立つの!」
「どういうイラ立ちよ?」
ははは、と友香は笑い飛ばすけど、私にとっては不愉快極まりない。私の知らない裕典だし、周りの女性は皆裕典のことを素敵だと崇めているし、そういう状況は精神衛生上いいわけがない。
「ははーん、もしかして、裕典くんがモテているのが嫌なのかな?」
「ち、違うし。そんなことない」
「そうかなー? 興味なかったら、そこまで気にしないんじゃないの?」
友香は私と裕典が出会ったコンパに参加していて、私たちの馴れ初めも知っている。裕典との結婚式にも参加してくれたし、私たちにあった全てを見届けている。そんな彼女には、私の未練が見抜かれているのかもしれないとドキッとした。
「それとこれとは関係ない」
「まぁ……とにかく、元旦那が同じ会社にいるなんて、心中お察しするよ。絶対にそれはストレスになる。他の女とイチャイチャされても腹立つだろうし」
そんなところにはまだ遭遇していないけれど、実際目の当たりにしたらどうなるのだろう。今の時点でこんなにイライラしているのに、そんなことになったら爆発してしまうかも。
「気にしないようにするっていっても、限度があるだろうしね。可哀想に……」
向かい合っているテーブルだから手は届かないものの、友香は私のほうに手を伸ばして頭を撫でるふりをしてくれた。
友香、優しい……
友人の優しい言葉に胸を熱くしながら、目の前の料理を食べる。美味しい料理と美味しいワイン。優しい友達に癒されて、やさぐれていた私の心が穏やかになっていくのを感じた。
新人研修最終日。
最初は個性の強かった関西のスタッフたちだったが、日に日にヴィグレイシアらしさが増して洗練された素敵なスタッフへと変貌していった。関西の店舗はきっと素晴らしいスタートを切るだろうと確信できる。
そんな彼らの研修を終え、ほっと一息ついたところに、渕田くんがやってきた。
「お疲れさまー。研修無事に終わったんだね。賑やかだったスタッフが帰ると、ちょっと寂しいね」
「そうだね」
関西弁で楽しく話してくれるスタッフたちがいる間は、休憩時間にはオフィスのほうまで楽しい声が聞こえてきていた。今は静けさを取り戻したのだけど、こんなに静かだったかなと思うほどだ。
「ねえ、よかったら今日、お疲れさま会しない?」
渕田くんはビールジョッキを持っているような仕草をして、飲みに行かないかと誘ってきた。彼はこうして食事に誘ってくることが多いのだけど、私が行くのは大人数のときだけ。
「うーん……どうしようかな。まだ仕事残ってるんだよね」
「そこを何とか。たまには茉莉花様と二人で飲みたいんだよ。営業も大変でさ。話聞いてよー」
研修の報告書をまとめなければならないし、今日のうちにやっておきたいことがあるので、断ろうと思っていると、渕田くんの言葉が続く。
「美味しいお寿司屋さんを見つけたんだよ。茉莉花様、お寿司好きだよね?」
「えっ……」
お寿司と聞いて、目が大きく開く。
そう、私は無類のお寿司好きだ。数ある料理の中でもお寿司には目がない。日本酒とお寿司の組み合わせが大好きすぎて、いいお寿司屋さんがあると聞くと一人でも食べに行くくらいだ。
「麻布十番にミシュランで星を獲った店があるんだよ。ほら、見て、ここ」
渕田くんのスマホに表示されているのは高級割烹料理屋「はま田」の料理の写真。お寿司に天ぷら、そして落ち着いて食事のできそうなしっとりとした店内の写真がスクロールと共に表示されて、私の心はグラグラと揺れる。
すごく美味しそう……
大将は有名店で修業をし、自分の店をオープンさせて、わずか数年でミシュランの一つ星を取得した。厳選された食材で一流の料理を提供すると紹介されていて、それを見ていると行きたい気持ちが高まってくる。
「で、でもなぁ……」
「なかなか予約が取れないみたいなんだけど、今日空きがあるみたいなんだよ。ね、行こうよ」
渕田くんにガンガン押されて、悩みつつも行く方向に心が傾きそうになったとき、私たちの会話に男性が割り込んできた。
「お話し中失礼、横井さん、ちょっといいかな?」
「あ、えーっと……はい」
割り込んできたのは、裕典だった。急いで来たのか、若干息が上がっているように見える。何をそんなに急いで来たのかと、不思議に思いながら彼の顔を見る。
何で裕典に個人的に呼び出されるんだろう?
私、仕事で何かやらかした? 新人研修の件で何かトラブルでもあったのだろうか。
渕田くんと食事に行くか行かないかの話など一瞬で吹き飛んで、胸に不安が渦巻く。
「こっちに」
オフィスから連れ出されて裕典のあとをついて行くと、社長室へ通された。奥の壁一面が窓になっていて、東京の景色が一望できる。その前に置かれた大きなデスクは綺麗に整頓されていた。広い部屋には、他に来客用のソファとテーブルが配置されている。
何を言い渡されるのだろうという不安を抱えつつも、いつもこんなところで仕事をしているのかと、思わず部屋の中を隅々まで見てしまった。
広いし、外の景色はいいし、集中して仕事ができそう。いいな。きっと私と住んでいたときのように、真剣な表情でパソコンを眺めていたりするんだろうな。ブルーライトカットの眼鏡をつけている姿を思い出し懐かしく思う。
つい思い出に浸っていると、立ったままの裕典が私に話しかけてきた。
「話をしている最中に割って入ってすまない」
「いえ、大丈夫です」
食事に誘われていただけで、仕事の話ではなかったから中断されても問題はない。それよりも、社長室に連れてこられたくらいだから、きっと大事な話なのだろう。そっちのほうが気になる。
「何か緊急のお話ですか?」
社長が直々に呼び出すくらいだ。
そこでふと、仕事の話だと思っていたけれど、もしかしたら一緒に働くうちに私のことが目障りになって、退職してほしいと言われるのではないか、と考える。
そんなの、生活もあるし急に言われたら困る!
そうでないことを祈りながら、裕典が話し出すのを待った。
「不躾な質問をして悪いけど……茉莉花は、渕田くんと付き合っているの?」
「は?」
何を言われるのかと戦々恐々としていたら、そんな質問で拍子抜けしてしまう。
何それ? 何でそんなことを聞くわけ?
頭の中にクエスチョンマークが飛びかい、質問の意図が掴めなくなる。いや、でもこれは重大な話の前置きではないか。他愛ない話でジャブを入れてから、強烈なパンチがくるのかもしれない。
「いいえ、付き合っていません」
「本当に? 堂々とデートの約束をしていたじゃないか。二人でスマホを見て楽しそうに」
さっき渕田くんと割烹料理屋の写真を見ていたところを見られていたのか。でも別にやましいことをしているわけではないし、こうして怪しまれるようなことでもない。
「デートじゃありません」
「本当に?」
「本当です。でも、もし仮にそうであったとしても、社長には関係ないのでは?」
いくら裕典が元旦那だったとしても、今はもう離婚が成立しているのだから、私が誰と仲良くしようが関係ないし、こうして問い詰められる筋合いもない。
社長が一社員にこうしてプライベートなことを質問するのは、セクハラに当たると思うのだけど。
「ま……まぁ、そうなんだけど」
私の意見に反論できない裕典は、歯切れの悪い返事をする。それでもまだ納得できないようで、言葉を続ける。
「でも俺たちは、普通の上司と部下じゃないだろ?」
「いいえ。普通の上司と部下です」
ぴしゃりと言い切ったところで、ハッとする。いつも「茉莉花様」と揶揄される言葉尻のきついところが出てしまった。相手は元旦那とはいえ社長なのだし、もう少し優しい言葉遣いをするべきだったと反省する。
「失礼な物言いをしてしまい申し訳ございません。お話は以上ですか? それなら私はこれで失礼いたしますが」
「待って」
部屋を出ようとしたところで、逆に距離を詰められる。私の手首を掴んだ裕典は、まだ帰さないとばかりに強い眼差しで見つめてきた。
「俺たちのこと、ちゃんと話し合いたい」
「俺たちのこと……?」
「そう。職場でどうしていくか。ちゃんと話し合おう」
そんなこと話し合う必要がある? 他人のふりをしていればいいだけじゃないの?
そんな疑問が頭に浮かぶけれど、裕典の顔が近くにあって咄嗟に反論できない。彼に掴まれている手首がすごく熱くて、全身にその熱が広がっていく。
「今夜、俺に時間を作ってほしい」
「でも……」
さっき渕田くんから食事に誘われていたことが頭をよぎる。行くかどうかまだ返事をしていないものの、先に声をかけたのは向こうだ。
返事に戸惑っていると、畳みかけるように裕典が話を続けた。
「無理なら、職場で俺たちのことをオープンにするよ。それでいい?」
「う……」
それは困る。離婚相手が社長だったなんて知られたら、居心地が悪くなることが容易に想像できる。根掘り葉掘り聞かれて、地獄を見ることになりそうだ。
「それ、脅しですよ」
「そう捉えてもらっても構わない。俺と食事に行ってくれるね?」
笑顔なのに目が笑ってない。ぐいっと更に距離を詰められて、私は完全に逃げ場を失った。
こんなの、最初から選択肢がないじゃない。
目の前にいる悪魔のような元旦那を恨めしく思いながら睨む。
「…………分かりました」
「茉莉花の好きなお寿司、食べに行こう」
にこっと微笑みかけられて、私は顔を引きつらせた。
2
残務を終わらせたあと、渕田くんからの誘いを断り、私はオフィスの外へ出た。
離婚して一年も経ったのに、どうして元旦那と二人きりで食事に行かないといけないの?
仕事上の付き合いならまだしも、「二人のことをちゃんと話し合いたい」なんて、完全にプライベートじゃないか。
でも、会社で元旦那が裕典とバラされるのは、今後の仕事に影響が出そうだから困る。そこはしっかりすり合わせておく必要があるから、これは致し方ないものと割り切ろう。
裕典は普段車で通勤しているようだけど、今日はお酒を飲むつもりなのか会社に置いて帰るらしい。
社員たちに見つからないようにオフィスビルからかなり離れた場所で待ち合わせする。指定された場所に行くと裕典が私を待っていた。
オフィスの中で見ても洗練された大人の男性だと感じていたけれど、街の中だと余計にそれが際立って見える。
周りにいる男性より格段に魅力的で、街のイルミネーションを背景にした裕典になぜか胸が高鳴ってしまう。
何で元旦那にドキドキしなくちゃならないの……!
それもこれも、裕典が無駄に色気づいているせいだ。ドキドキしている自分がチョロい女みたいで嫌になる。
「お待たせしました」
「じゃあ、行こうか」
隣を歩く裕典に案内されるまま数分歩き、目的の店の前に到着した。石畳を通って奥に進むと、間接照明に照らし出された美しい日本庭園が現れ目を奪われる。
「すごく素敵なお店ですね……」
「渕田くんと話していた店よりも、俺はこっちの店のほうがお勧め」
渕田くんに対して棘があるな……と思いつつ、黒塀のエントランスを抜け店の扉を開いた彼に続く。
「いらっしゃいませ」
すぐに着物姿の優しそうな女将さんが現れ、店の長い廊下を先導して私たちを奥の個室へ案内してくれた。
わざわざ個室を予約してくれたんだ……。まさかそこまでしてくれているとは思わず、一気に緊張が高まる。
私が無類のお寿司好きだから、結婚しているときに何度か一緒に食べに行ったことがあった。入籍祝いだとか、どちらかの誕生日だとか。回転寿司でいいと言ったのに、裕典はいつも美味しい店を探して連れていってくれた。
「どうぞ」
案内された部屋は、高級感溢れる落ち着いた雰囲気の和室だった。
三人が並べるくらいの小ぢんまりしたカウンターがあって、その内側に大将が立っている。私たちのためだけに目の前で握ってくれるスタイルらしい。
裕典と隣同士に座り、その距離の近さにそわそわしてしまう。横を向かなくても彼の存在を傍に感じて緊張する。
「お飲み物はいかがされますか?」
「まずはビールを。そのあと日本酒にします」
「かしこまりました」
裕典が大将にそう伝えると、目の前でビールの準備が始まった。
「茉莉花、それでよかった?」
「えっ……ああ、はい。大丈夫です」
なんて甘い声で名前を呼ぶの。今日、何度か名前で呼ばれているけれど、今のはとびきり優しい声色だったからドキッとしてしまった。
「はい、どうぞ」
大将が私たちの前に瓶ビールを置くと、裕典は自然な流れで私のグラスにビールを注いでくれた。私はグラスに手を添えてそれを静かに眺める。
彼は、私が最初の一杯はビールがいいことを覚えてくれていたみたい。私のビールを注ぎ終わると、自分の分を手酌し、すぐにグラスを持ち上げた。
「じゃあ、お疲れさま。乾杯」
「乾杯……」
ビールを一口飲んでも、緊張は解けない。
元旦那と一緒に食事だなんて、どういう心境で臨めばいいんだろう。友達みたいに接する? それとも上司と部下に徹する? どちらにしても不自然な気がするけど。
特に会話もなくビールを飲んでいると、目の前にいる大将が私たちに話しかけてきた。
「今日はご来店ありがとうございます。本日は、心を込めてお料理を提供いたしますので、最後までよろしくお願いします」
頭を下げて挨拶をされたので、私もつられて頭を下げる。
大将が食材を取りに出た隙に、裕典に質問してみることにした。
「ここ、よく来るの?」
「そうだな……たまに。でも、ここって予約が全然取れないんだ。俺はツテがあって突然の予約でも対応してもらえるけど、本当なら半年待ちみたい」
「ええっ……半年?」
まさかそんな人気店とは。確かに入店したときから、高級そうな雰囲気がしていたけれど、まさかそんなに待たないと来られない人気店とは思わなかった。
「そんな店に連れてきていただいて、ありがとうございます」
「前から茉莉花を連れてこようと思ってたんだ」
「またまた……」
きっとそれは嘘だと思う。離婚が成立したあと、裕典から連絡をしてきたことなんてなかったから、私を連れてこようと思っていたはずがない。
「別にいいですよ、そんな嘘を言わなくても」
「嘘じゃないから。茉莉花のために、俺は……」
彼が必死に弁明しようとしたところで大将が戻って来たので、この話は中断することになった。
私が信用していないことに納得がいっていない様子の裕典だったけれど、私は聞く耳を持たずビールをぐいっと飲み干した。
私のつれない態度から、これ以上話しても仕方ないと察したのか、裕典は別の話題に切り替えることにしたようで、料理の話を始めた。
「大将、彼女はエビが好きなので、ぜひお願いします」
「かしこまりました。今日は北海道産のいい車エビが入っているんですよ。きっと満足していただけると思います」
ここのメニューは全てお任せのようでメニュー表がない。大将に食べたいものをリクエストしておけば、それも一緒にコースで出してくれるそう。
……私がエビ好きだったってことも、まだ覚えているんだ。
言葉のひとつひとつに、つい引っかかってしまう。私の好みを把握していてまだ覚えていることに驚きつつも同時に安堵感もある。
短い結婚生活だったけれど、彼の中でちゃんと記憶として残っているのだと伝わってきて、少しだけ嬉しく思う。完全に記憶から消去されていたら、それはそれで悲しい。
「では、まずおつまみから。あんきもの酢味噌がけです」
大将が私たちの前に出したのは上品な小鉢。メインの前にいくつかおつまみを出してから、お寿司へと移るのだろう。最初は裕典と、この超高級な店に緊張していたけれど、お酒も入って少しずつリラックスしてきた。
美味しい料理と美味しいビール。毎日気を張っていた研修も今日で終わったし、解放感で気兼ねなく料理を楽しめる。
「次はこちらをどうぞ」
私の大好物のぼたんエビの刺身が出てきて大興奮した。
「ん~~~~っ! 美味しいーっ」
ぷりっぷりのエビに、エビの味噌も添えられていて両方美味しい。口の中が幸せでいっぱいになって思わず笑顔が零れる。
「はは、その顔。すごく幸せそう」
「超幸せ! 美味しすぎるー」
今までいろいろとエビを食べてきたけれど、その中でも上位に入るほどの感動と美味しさだ。口の中ですぐに溶けて、もっと食べたいと思わせる味に酔いしれる。
私のビールがなくなったことに気づいた裕典は、日本酒をオーダーしていた。この店おすすめの日本酒の飲み比べセットを頼んでくれたようで三種類のグラスが運ばれてくる。
お寿司に合うお酒をチョイスしてあるらしい。
「わー、いただきます」
小さなグラスに注がれた透明のお酒を口に運ぶと、フルーティな香りで飲みやすいと感じた。
セミロングの黒髪を夜会巻きにし、陶器のように美しいマットなベースメイクをしている。夜なのにメイク崩れなど一切ない完璧な美女。アイホールに、今売り出し中のアイシャドウを乗せ、唇は真っ赤なリップをつけている。
研修で疲れた私と違って、その隙のない美しさに恍惚とする。何より、単純に友香は私の好みの顔だから、その綺麗な顔をいつまでも見ていられるのだ。
「どうしたの、疲れてるね」
「いろいろあったんだよ……ねえ、友香。仕事終わるまで待ってるから、これから一緒に食事に行こう」
「私ラストまでだけど、それでもいい?」
「うん、もちろん」
友香とは頻繁に食事に行くし、社会人になった今でも休みが合えば遊びに出かけるくらいの仲良しだ。気を許せる存在で、彼女の前では気を張らずに何でも話せる。
そんな友香と食事に行く約束をした私は、舞い上がった気持ちのまま百貨店の中にあるパウダールームに向かい、化粧直しを始めた。
まずは乳液をコットンに出して、崩れたファンデーションを落とす。そしてもう一度ベースメイクからやり直して、疲れのにじみ出ていた顔を綺麗にしていく。一旦落として最初からやり直すのは美容部員時代の名残だと思う。部分的に化粧直しをするより、こうしたほうが結果的に綺麗な仕上がりになる。
化粧直しをしたあと、百貨店の近くのカフェで友香を待っていた。
「お待たせ~」
閉店作業を終え、制服から私服に着がえた友香は、リラックスした様子で私の前に座る。
「お疲れさま。急に誘ってごめんね」
「ううん、気にしないで。どうする、いつもの店でいい?」
「うん」
カフェのお会計を済ませて、私たちはよく行くイタリアンレストランへ向かうことにした。そこは料理が美味しいのはもちろん、個室で落ち着いているのでゆっくりできるから気に入っている。
到着して一通り料理をオーダーしたところで、私は向かいの友香に泣きついた。
「友香ぁーっ」
「どうした、どうした」
会社では見せないふにゃふにゃの顔で、私は最近起こったことを友香に打ち明ける。
「裕典がうちの会社の社長になった……」
「嘘でしょ、そんなことってある!?」
「あったんだよ、そんなことが!!」
星の数ほどある会社の中で、どうして私の勤めている会社にやってきたのか。しかも無視してくれればいいのに、顔を合わせるたびに笑いかけてきたり話しかけてきたりする。
「裕典くんと離婚してから連絡とってないって言ってたよね。茉莉花がヴィグレイシアにいること、知らなかったはずだよね?」
「そう、だと思うけど」
「そんな偶然、あるんだね」
会社や家では出せない弱気な自分を曝け出す。
「どうしよう……こんなの、困るよ」
「まぁ……元旦那が会社にいるなんて、地獄だわな」
とはいえ、そんな人、世の中にはごまんといるかもしれない。社内恋愛して結婚した人で離婚に至ったのなら、こういう状況もあり得るだろう。だけど、私の場合は防ごうと思えば裕典の気持ちひとつで防げたはずなのに、そうはしなかったってこと。
私がいることを知っていて、それに気を留めることなく入社するほどヴィグレイシアを気に入ったというのが本当だとしても、私にとっては嫌がらせでしかない。
「いちいち視界に入るしさ、しかも前よりフェロモンムンムンになってて、それが腹立つの!」
「どういうイラ立ちよ?」
ははは、と友香は笑い飛ばすけど、私にとっては不愉快極まりない。私の知らない裕典だし、周りの女性は皆裕典のことを素敵だと崇めているし、そういう状況は精神衛生上いいわけがない。
「ははーん、もしかして、裕典くんがモテているのが嫌なのかな?」
「ち、違うし。そんなことない」
「そうかなー? 興味なかったら、そこまで気にしないんじゃないの?」
友香は私と裕典が出会ったコンパに参加していて、私たちの馴れ初めも知っている。裕典との結婚式にも参加してくれたし、私たちにあった全てを見届けている。そんな彼女には、私の未練が見抜かれているのかもしれないとドキッとした。
「それとこれとは関係ない」
「まぁ……とにかく、元旦那が同じ会社にいるなんて、心中お察しするよ。絶対にそれはストレスになる。他の女とイチャイチャされても腹立つだろうし」
そんなところにはまだ遭遇していないけれど、実際目の当たりにしたらどうなるのだろう。今の時点でこんなにイライラしているのに、そんなことになったら爆発してしまうかも。
「気にしないようにするっていっても、限度があるだろうしね。可哀想に……」
向かい合っているテーブルだから手は届かないものの、友香は私のほうに手を伸ばして頭を撫でるふりをしてくれた。
友香、優しい……
友人の優しい言葉に胸を熱くしながら、目の前の料理を食べる。美味しい料理と美味しいワイン。優しい友達に癒されて、やさぐれていた私の心が穏やかになっていくのを感じた。
新人研修最終日。
最初は個性の強かった関西のスタッフたちだったが、日に日にヴィグレイシアらしさが増して洗練された素敵なスタッフへと変貌していった。関西の店舗はきっと素晴らしいスタートを切るだろうと確信できる。
そんな彼らの研修を終え、ほっと一息ついたところに、渕田くんがやってきた。
「お疲れさまー。研修無事に終わったんだね。賑やかだったスタッフが帰ると、ちょっと寂しいね」
「そうだね」
関西弁で楽しく話してくれるスタッフたちがいる間は、休憩時間にはオフィスのほうまで楽しい声が聞こえてきていた。今は静けさを取り戻したのだけど、こんなに静かだったかなと思うほどだ。
「ねえ、よかったら今日、お疲れさま会しない?」
渕田くんはビールジョッキを持っているような仕草をして、飲みに行かないかと誘ってきた。彼はこうして食事に誘ってくることが多いのだけど、私が行くのは大人数のときだけ。
「うーん……どうしようかな。まだ仕事残ってるんだよね」
「そこを何とか。たまには茉莉花様と二人で飲みたいんだよ。営業も大変でさ。話聞いてよー」
研修の報告書をまとめなければならないし、今日のうちにやっておきたいことがあるので、断ろうと思っていると、渕田くんの言葉が続く。
「美味しいお寿司屋さんを見つけたんだよ。茉莉花様、お寿司好きだよね?」
「えっ……」
お寿司と聞いて、目が大きく開く。
そう、私は無類のお寿司好きだ。数ある料理の中でもお寿司には目がない。日本酒とお寿司の組み合わせが大好きすぎて、いいお寿司屋さんがあると聞くと一人でも食べに行くくらいだ。
「麻布十番にミシュランで星を獲った店があるんだよ。ほら、見て、ここ」
渕田くんのスマホに表示されているのは高級割烹料理屋「はま田」の料理の写真。お寿司に天ぷら、そして落ち着いて食事のできそうなしっとりとした店内の写真がスクロールと共に表示されて、私の心はグラグラと揺れる。
すごく美味しそう……
大将は有名店で修業をし、自分の店をオープンさせて、わずか数年でミシュランの一つ星を取得した。厳選された食材で一流の料理を提供すると紹介されていて、それを見ていると行きたい気持ちが高まってくる。
「で、でもなぁ……」
「なかなか予約が取れないみたいなんだけど、今日空きがあるみたいなんだよ。ね、行こうよ」
渕田くんにガンガン押されて、悩みつつも行く方向に心が傾きそうになったとき、私たちの会話に男性が割り込んできた。
「お話し中失礼、横井さん、ちょっといいかな?」
「あ、えーっと……はい」
割り込んできたのは、裕典だった。急いで来たのか、若干息が上がっているように見える。何をそんなに急いで来たのかと、不思議に思いながら彼の顔を見る。
何で裕典に個人的に呼び出されるんだろう?
私、仕事で何かやらかした? 新人研修の件で何かトラブルでもあったのだろうか。
渕田くんと食事に行くか行かないかの話など一瞬で吹き飛んで、胸に不安が渦巻く。
「こっちに」
オフィスから連れ出されて裕典のあとをついて行くと、社長室へ通された。奥の壁一面が窓になっていて、東京の景色が一望できる。その前に置かれた大きなデスクは綺麗に整頓されていた。広い部屋には、他に来客用のソファとテーブルが配置されている。
何を言い渡されるのだろうという不安を抱えつつも、いつもこんなところで仕事をしているのかと、思わず部屋の中を隅々まで見てしまった。
広いし、外の景色はいいし、集中して仕事ができそう。いいな。きっと私と住んでいたときのように、真剣な表情でパソコンを眺めていたりするんだろうな。ブルーライトカットの眼鏡をつけている姿を思い出し懐かしく思う。
つい思い出に浸っていると、立ったままの裕典が私に話しかけてきた。
「話をしている最中に割って入ってすまない」
「いえ、大丈夫です」
食事に誘われていただけで、仕事の話ではなかったから中断されても問題はない。それよりも、社長室に連れてこられたくらいだから、きっと大事な話なのだろう。そっちのほうが気になる。
「何か緊急のお話ですか?」
社長が直々に呼び出すくらいだ。
そこでふと、仕事の話だと思っていたけれど、もしかしたら一緒に働くうちに私のことが目障りになって、退職してほしいと言われるのではないか、と考える。
そんなの、生活もあるし急に言われたら困る!
そうでないことを祈りながら、裕典が話し出すのを待った。
「不躾な質問をして悪いけど……茉莉花は、渕田くんと付き合っているの?」
「は?」
何を言われるのかと戦々恐々としていたら、そんな質問で拍子抜けしてしまう。
何それ? 何でそんなことを聞くわけ?
頭の中にクエスチョンマークが飛びかい、質問の意図が掴めなくなる。いや、でもこれは重大な話の前置きではないか。他愛ない話でジャブを入れてから、強烈なパンチがくるのかもしれない。
「いいえ、付き合っていません」
「本当に? 堂々とデートの約束をしていたじゃないか。二人でスマホを見て楽しそうに」
さっき渕田くんと割烹料理屋の写真を見ていたところを見られていたのか。でも別にやましいことをしているわけではないし、こうして怪しまれるようなことでもない。
「デートじゃありません」
「本当に?」
「本当です。でも、もし仮にそうであったとしても、社長には関係ないのでは?」
いくら裕典が元旦那だったとしても、今はもう離婚が成立しているのだから、私が誰と仲良くしようが関係ないし、こうして問い詰められる筋合いもない。
社長が一社員にこうしてプライベートなことを質問するのは、セクハラに当たると思うのだけど。
「ま……まぁ、そうなんだけど」
私の意見に反論できない裕典は、歯切れの悪い返事をする。それでもまだ納得できないようで、言葉を続ける。
「でも俺たちは、普通の上司と部下じゃないだろ?」
「いいえ。普通の上司と部下です」
ぴしゃりと言い切ったところで、ハッとする。いつも「茉莉花様」と揶揄される言葉尻のきついところが出てしまった。相手は元旦那とはいえ社長なのだし、もう少し優しい言葉遣いをするべきだったと反省する。
「失礼な物言いをしてしまい申し訳ございません。お話は以上ですか? それなら私はこれで失礼いたしますが」
「待って」
部屋を出ようとしたところで、逆に距離を詰められる。私の手首を掴んだ裕典は、まだ帰さないとばかりに強い眼差しで見つめてきた。
「俺たちのこと、ちゃんと話し合いたい」
「俺たちのこと……?」
「そう。職場でどうしていくか。ちゃんと話し合おう」
そんなこと話し合う必要がある? 他人のふりをしていればいいだけじゃないの?
そんな疑問が頭に浮かぶけれど、裕典の顔が近くにあって咄嗟に反論できない。彼に掴まれている手首がすごく熱くて、全身にその熱が広がっていく。
「今夜、俺に時間を作ってほしい」
「でも……」
さっき渕田くんから食事に誘われていたことが頭をよぎる。行くかどうかまだ返事をしていないものの、先に声をかけたのは向こうだ。
返事に戸惑っていると、畳みかけるように裕典が話を続けた。
「無理なら、職場で俺たちのことをオープンにするよ。それでいい?」
「う……」
それは困る。離婚相手が社長だったなんて知られたら、居心地が悪くなることが容易に想像できる。根掘り葉掘り聞かれて、地獄を見ることになりそうだ。
「それ、脅しですよ」
「そう捉えてもらっても構わない。俺と食事に行ってくれるね?」
笑顔なのに目が笑ってない。ぐいっと更に距離を詰められて、私は完全に逃げ場を失った。
こんなの、最初から選択肢がないじゃない。
目の前にいる悪魔のような元旦那を恨めしく思いながら睨む。
「…………分かりました」
「茉莉花の好きなお寿司、食べに行こう」
にこっと微笑みかけられて、私は顔を引きつらせた。
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残務を終わらせたあと、渕田くんからの誘いを断り、私はオフィスの外へ出た。
離婚して一年も経ったのに、どうして元旦那と二人きりで食事に行かないといけないの?
仕事上の付き合いならまだしも、「二人のことをちゃんと話し合いたい」なんて、完全にプライベートじゃないか。
でも、会社で元旦那が裕典とバラされるのは、今後の仕事に影響が出そうだから困る。そこはしっかりすり合わせておく必要があるから、これは致し方ないものと割り切ろう。
裕典は普段車で通勤しているようだけど、今日はお酒を飲むつもりなのか会社に置いて帰るらしい。
社員たちに見つからないようにオフィスビルからかなり離れた場所で待ち合わせする。指定された場所に行くと裕典が私を待っていた。
オフィスの中で見ても洗練された大人の男性だと感じていたけれど、街の中だと余計にそれが際立って見える。
周りにいる男性より格段に魅力的で、街のイルミネーションを背景にした裕典になぜか胸が高鳴ってしまう。
何で元旦那にドキドキしなくちゃならないの……!
それもこれも、裕典が無駄に色気づいているせいだ。ドキドキしている自分がチョロい女みたいで嫌になる。
「お待たせしました」
「じゃあ、行こうか」
隣を歩く裕典に案内されるまま数分歩き、目的の店の前に到着した。石畳を通って奥に進むと、間接照明に照らし出された美しい日本庭園が現れ目を奪われる。
「すごく素敵なお店ですね……」
「渕田くんと話していた店よりも、俺はこっちの店のほうがお勧め」
渕田くんに対して棘があるな……と思いつつ、黒塀のエントランスを抜け店の扉を開いた彼に続く。
「いらっしゃいませ」
すぐに着物姿の優しそうな女将さんが現れ、店の長い廊下を先導して私たちを奥の個室へ案内してくれた。
わざわざ個室を予約してくれたんだ……。まさかそこまでしてくれているとは思わず、一気に緊張が高まる。
私が無類のお寿司好きだから、結婚しているときに何度か一緒に食べに行ったことがあった。入籍祝いだとか、どちらかの誕生日だとか。回転寿司でいいと言ったのに、裕典はいつも美味しい店を探して連れていってくれた。
「どうぞ」
案内された部屋は、高級感溢れる落ち着いた雰囲気の和室だった。
三人が並べるくらいの小ぢんまりしたカウンターがあって、その内側に大将が立っている。私たちのためだけに目の前で握ってくれるスタイルらしい。
裕典と隣同士に座り、その距離の近さにそわそわしてしまう。横を向かなくても彼の存在を傍に感じて緊張する。
「お飲み物はいかがされますか?」
「まずはビールを。そのあと日本酒にします」
「かしこまりました」
裕典が大将にそう伝えると、目の前でビールの準備が始まった。
「茉莉花、それでよかった?」
「えっ……ああ、はい。大丈夫です」
なんて甘い声で名前を呼ぶの。今日、何度か名前で呼ばれているけれど、今のはとびきり優しい声色だったからドキッとしてしまった。
「はい、どうぞ」
大将が私たちの前に瓶ビールを置くと、裕典は自然な流れで私のグラスにビールを注いでくれた。私はグラスに手を添えてそれを静かに眺める。
彼は、私が最初の一杯はビールがいいことを覚えてくれていたみたい。私のビールを注ぎ終わると、自分の分を手酌し、すぐにグラスを持ち上げた。
「じゃあ、お疲れさま。乾杯」
「乾杯……」
ビールを一口飲んでも、緊張は解けない。
元旦那と一緒に食事だなんて、どういう心境で臨めばいいんだろう。友達みたいに接する? それとも上司と部下に徹する? どちらにしても不自然な気がするけど。
特に会話もなくビールを飲んでいると、目の前にいる大将が私たちに話しかけてきた。
「今日はご来店ありがとうございます。本日は、心を込めてお料理を提供いたしますので、最後までよろしくお願いします」
頭を下げて挨拶をされたので、私もつられて頭を下げる。
大将が食材を取りに出た隙に、裕典に質問してみることにした。
「ここ、よく来るの?」
「そうだな……たまに。でも、ここって予約が全然取れないんだ。俺はツテがあって突然の予約でも対応してもらえるけど、本当なら半年待ちみたい」
「ええっ……半年?」
まさかそんな人気店とは。確かに入店したときから、高級そうな雰囲気がしていたけれど、まさかそんなに待たないと来られない人気店とは思わなかった。
「そんな店に連れてきていただいて、ありがとうございます」
「前から茉莉花を連れてこようと思ってたんだ」
「またまた……」
きっとそれは嘘だと思う。離婚が成立したあと、裕典から連絡をしてきたことなんてなかったから、私を連れてこようと思っていたはずがない。
「別にいいですよ、そんな嘘を言わなくても」
「嘘じゃないから。茉莉花のために、俺は……」
彼が必死に弁明しようとしたところで大将が戻って来たので、この話は中断することになった。
私が信用していないことに納得がいっていない様子の裕典だったけれど、私は聞く耳を持たずビールをぐいっと飲み干した。
私のつれない態度から、これ以上話しても仕方ないと察したのか、裕典は別の話題に切り替えることにしたようで、料理の話を始めた。
「大将、彼女はエビが好きなので、ぜひお願いします」
「かしこまりました。今日は北海道産のいい車エビが入っているんですよ。きっと満足していただけると思います」
ここのメニューは全てお任せのようでメニュー表がない。大将に食べたいものをリクエストしておけば、それも一緒にコースで出してくれるそう。
……私がエビ好きだったってことも、まだ覚えているんだ。
言葉のひとつひとつに、つい引っかかってしまう。私の好みを把握していてまだ覚えていることに驚きつつも同時に安堵感もある。
短い結婚生活だったけれど、彼の中でちゃんと記憶として残っているのだと伝わってきて、少しだけ嬉しく思う。完全に記憶から消去されていたら、それはそれで悲しい。
「では、まずおつまみから。あんきもの酢味噌がけです」
大将が私たちの前に出したのは上品な小鉢。メインの前にいくつかおつまみを出してから、お寿司へと移るのだろう。最初は裕典と、この超高級な店に緊張していたけれど、お酒も入って少しずつリラックスしてきた。
美味しい料理と美味しいビール。毎日気を張っていた研修も今日で終わったし、解放感で気兼ねなく料理を楽しめる。
「次はこちらをどうぞ」
私の大好物のぼたんエビの刺身が出てきて大興奮した。
「ん~~~~っ! 美味しいーっ」
ぷりっぷりのエビに、エビの味噌も添えられていて両方美味しい。口の中が幸せでいっぱいになって思わず笑顔が零れる。
「はは、その顔。すごく幸せそう」
「超幸せ! 美味しすぎるー」
今までいろいろとエビを食べてきたけれど、その中でも上位に入るほどの感動と美味しさだ。口の中ですぐに溶けて、もっと食べたいと思わせる味に酔いしれる。
私のビールがなくなったことに気づいた裕典は、日本酒をオーダーしていた。この店おすすめの日本酒の飲み比べセットを頼んでくれたようで三種類のグラスが運ばれてくる。
お寿司に合うお酒をチョイスしてあるらしい。
「わー、いただきます」
小さなグラスに注がれた透明のお酒を口に運ぶと、フルーティな香りで飲みやすいと感じた。
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