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7.失礼を承知で
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「おいおい、志乃ちゃん、そんなことしても大丈夫かい?」
やや不服そうな表情をして、黒岩はちらりと時宗を見た。
こちらとしても黒岩に許される必要はない。不満が顔に出ないようにできるだけ平静を装う。
「黒岩様、申し訳ありません。ですが、黒岩様のお話もじっくり聞きながらお仕事はできませんので、許していただけないでしょうか」
黒岩の機嫌を損ねないようにするのを優先した志乃は、丁寧に頭を下げる。志乃に丁寧に詫びられた黒岩は上機嫌のまま、穏やかな声で言う。
「まあ、志乃ちゃんがそう言うならば。ほら、少年、私が許すからここに来なさい」
だから、何故お前の許可がいる。
「ありがとうございます」
不満を悟られないように、できるだけ人が良さそうな笑顔を保つ。黒岩とは1つ席を空け、時宗は品書きを見ることにした。
コーヒーはすっかり冷め、何か甘いものを食べたくなった。頼めば、志乃が作るのだろうか。だがそんな手間をかけたくない。時宗は冷めたコーヒーを啜ることにした。
「志乃ちゃん、志乃ちゃん、話の続きを」
「ぜひお聞かせ願います」
志乃にそう言われた黒岩の口元が緩んでいる。よほど志乃に入れ込んでいるのだろうか。
親子ほど離れている年の差に何を思っているのかは時宗は知る由もない。自然に眉根を寄せる。
「この紙、宛名がないが、家の者が娘の菊乃が拾っているところを見たことがあると言っていたんだ。周りの様子を気にしながら、さっと袂に入れたんだと。まったく、そんなことは良家の子女がすることではないと言うのに」
大げさにため息を吐きながら、黒岩は首を横に振る。
「それは一回だけですか?」
「いや、数回見たというんだ。あまつさえ、外を気にしていたようだとも」
黒岩が不満げな言葉を紡いでいる間、志乃はただじっと紙を見ていた。
「娘様は、お付き合いしている方がいらっしゃるんでしょうか」
やや言葉を選んでいるような言い方で志乃が黒岩に問う。黒岩はコーヒーを一口飲んでから、答えた。
「ああ、ようやく婚約が決まってね。それまではなんだかんだ言いながら見合いを断っていたが、先日の見合いでようやく私が選んだ男と決まったんだ。もうすぐ女学校を卒業するところだったし、良かったよ。このまま結婚まで順調に進むと思うんだ」
「それは良かったですね。お嬢様は婚約者様ともう何度か会われているんですね」
「いや、これからだな。だから、結婚前のこんな大事な時に変なことだけは困る」
不満そうな口調でぐちぐちと話をしている黒岩をよそに志乃は腕を組みながら、宙を見て考えている。
その真剣な表情は、見たことがない表情なだけに時宗は見とれてしまった。時宗の視線に気づいたのか、志乃は宙を見ていた視線を紙に戻した。
「志乃ちゃん、何かわかったかい?」
黒岩が期待するような目で、志乃を見る。
「純愛、というのは駄目なのでしょうか」
「なんだと?」
思いもよらない言葉だったのか、黒岩が低く、なじるような声を出す。黒岩に怯むことなく、志乃は話を続けた。
「名家のお家同士のご結婚もまだまだ多い今の時代ですが、娘様の純粋なお気持ちを尊重することは許されないのでしょうか」
「当たり前だ」
どんっとテーブルを拳を叩きつけた黒岩。先ほどまでの惚れ惚れしていた雰囲気はどこにいったのか、今では顔が少し赤くなり、体が小刻みに震えている。
「良家は良家同士で結ばれ、家業をより繫栄させる必要がある。そのために、菊乃は女学校に通わせた。良妻賢母となるためだ。手塩にかけて育てた菊乃をどこの馬の骨ともわからぬ者には渡さない」
「娘様のお気持ちを聞いたことはありますか?」
「そんなもの必要がない。菊乃だって、私が選んだ男が良いと思っている」
自分の価値観に間違いがないような言い方に時宗は辟易した。
こいつは子どもを道具にしか考えていない。子どもだって、意思や希望がある。
少し考えればわかるだろうに。
「ああ、でも、志乃ちゃんにはわからないか」
小馬鹿にしたような黒岩の言葉は冷たく志乃に向けられた。先ほどまでとは正反対なその言い方に時宗は横目で黒岩を見る。
黒岩は少し顎を持ちあげ、やや見下すような態度でカウンター越しに志乃を見ていた。
「こんなところで女給をしている君にはわかるまい。女は家で家庭を守り、男は仕事をする。これが普通だと言うことを」
それまで志乃に対して接していた下手に出ていた雰囲気はもはやなく、黒岩は志乃を侮蔑するような視線を投げている。
さすがに我慢できなくなった時宗はコーヒーカップを掴み、黒岩にコーヒーをぶちまけようとした時、志乃がそっと時宗の腕を掴んだ。
「黒岩様、失礼を承知で申し上げますね」
女給に何を言われても痛くも痒くもなさそうな顔の黒岩は、志乃に言葉を続けさせるように顎をしゃくった。
志乃は空になった黒岩のコーヒーカップをカウンターの内側に片付ける。陶磁器の白いカップを慈しむかのようにそっと志乃は撫でた。
何かを決意したのか、先ほどまでの穏やかな表情とは違う、完璧なほどの笑顔で彼女は口を開く。
「こんなところで、女給を口説いているようなお暇があるようだったら、お仕事をきちんとされた方が良いですよ。それでなくても、最近の黒岩家は傾いているようですし。ああ、もっともそれは隠されていたんですね。そうでなければ婚約なんてできませんしね」
「な、なにを言っている」
「噂は喫茶店にも届いていますよ。どうやら事業を失敗しているようですね。その挽回のために、娘様を良家に嫁がせようとしているんですよね。それを知っている、娘様を思う方が今回投げ文をされたのかもしれませんね」
コーヒーカップから手を離した志乃は再び紙を手に取り、手紙の内容を見ている。
「駆け落ちされて、娘様がいなくならないように今のうちにお気持ちを聞いて、きちんと正面から向き合うことをお勧めします。何せ、黒岩様のお家には娘様しかいらっしゃらないのですから。それに、この手紙の主ができる方かもしれないのに、黒岩様が無視するとは、これいかほどに、ということですね」
女性を、彼女を怒らせるというのはなんと恐ろしいことか。
時宗は目を見張ったまま志乃を見る。
完璧な笑顔を崩すことなく、志乃はまっすぐ黒岩を見ていた。
「う、うるさいっ。こんな店さっさと潰れてしまえっ」
顔を真っ赤にして、黒岩は椅子を蹴って立ち上がった。金をカウンターに叩きつけるようにして置いてから、どかどかと足音を鳴らしながら店を出て行った。
大人の男を怒らすほどの物言い。怖いもの知らずか、この人は。
時宗が唖然としたまま、黒岩が出て行った先を見ていると、志乃が申し訳そうな声で時宗に声をかけてきた。
やや不服そうな表情をして、黒岩はちらりと時宗を見た。
こちらとしても黒岩に許される必要はない。不満が顔に出ないようにできるだけ平静を装う。
「黒岩様、申し訳ありません。ですが、黒岩様のお話もじっくり聞きながらお仕事はできませんので、許していただけないでしょうか」
黒岩の機嫌を損ねないようにするのを優先した志乃は、丁寧に頭を下げる。志乃に丁寧に詫びられた黒岩は上機嫌のまま、穏やかな声で言う。
「まあ、志乃ちゃんがそう言うならば。ほら、少年、私が許すからここに来なさい」
だから、何故お前の許可がいる。
「ありがとうございます」
不満を悟られないように、できるだけ人が良さそうな笑顔を保つ。黒岩とは1つ席を空け、時宗は品書きを見ることにした。
コーヒーはすっかり冷め、何か甘いものを食べたくなった。頼めば、志乃が作るのだろうか。だがそんな手間をかけたくない。時宗は冷めたコーヒーを啜ることにした。
「志乃ちゃん、志乃ちゃん、話の続きを」
「ぜひお聞かせ願います」
志乃にそう言われた黒岩の口元が緩んでいる。よほど志乃に入れ込んでいるのだろうか。
親子ほど離れている年の差に何を思っているのかは時宗は知る由もない。自然に眉根を寄せる。
「この紙、宛名がないが、家の者が娘の菊乃が拾っているところを見たことがあると言っていたんだ。周りの様子を気にしながら、さっと袂に入れたんだと。まったく、そんなことは良家の子女がすることではないと言うのに」
大げさにため息を吐きながら、黒岩は首を横に振る。
「それは一回だけですか?」
「いや、数回見たというんだ。あまつさえ、外を気にしていたようだとも」
黒岩が不満げな言葉を紡いでいる間、志乃はただじっと紙を見ていた。
「娘様は、お付き合いしている方がいらっしゃるんでしょうか」
やや言葉を選んでいるような言い方で志乃が黒岩に問う。黒岩はコーヒーを一口飲んでから、答えた。
「ああ、ようやく婚約が決まってね。それまではなんだかんだ言いながら見合いを断っていたが、先日の見合いでようやく私が選んだ男と決まったんだ。もうすぐ女学校を卒業するところだったし、良かったよ。このまま結婚まで順調に進むと思うんだ」
「それは良かったですね。お嬢様は婚約者様ともう何度か会われているんですね」
「いや、これからだな。だから、結婚前のこんな大事な時に変なことだけは困る」
不満そうな口調でぐちぐちと話をしている黒岩をよそに志乃は腕を組みながら、宙を見て考えている。
その真剣な表情は、見たことがない表情なだけに時宗は見とれてしまった。時宗の視線に気づいたのか、志乃は宙を見ていた視線を紙に戻した。
「志乃ちゃん、何かわかったかい?」
黒岩が期待するような目で、志乃を見る。
「純愛、というのは駄目なのでしょうか」
「なんだと?」
思いもよらない言葉だったのか、黒岩が低く、なじるような声を出す。黒岩に怯むことなく、志乃は話を続けた。
「名家のお家同士のご結婚もまだまだ多い今の時代ですが、娘様の純粋なお気持ちを尊重することは許されないのでしょうか」
「当たり前だ」
どんっとテーブルを拳を叩きつけた黒岩。先ほどまでの惚れ惚れしていた雰囲気はどこにいったのか、今では顔が少し赤くなり、体が小刻みに震えている。
「良家は良家同士で結ばれ、家業をより繫栄させる必要がある。そのために、菊乃は女学校に通わせた。良妻賢母となるためだ。手塩にかけて育てた菊乃をどこの馬の骨ともわからぬ者には渡さない」
「娘様のお気持ちを聞いたことはありますか?」
「そんなもの必要がない。菊乃だって、私が選んだ男が良いと思っている」
自分の価値観に間違いがないような言い方に時宗は辟易した。
こいつは子どもを道具にしか考えていない。子どもだって、意思や希望がある。
少し考えればわかるだろうに。
「ああ、でも、志乃ちゃんにはわからないか」
小馬鹿にしたような黒岩の言葉は冷たく志乃に向けられた。先ほどまでとは正反対なその言い方に時宗は横目で黒岩を見る。
黒岩は少し顎を持ちあげ、やや見下すような態度でカウンター越しに志乃を見ていた。
「こんなところで女給をしている君にはわかるまい。女は家で家庭を守り、男は仕事をする。これが普通だと言うことを」
それまで志乃に対して接していた下手に出ていた雰囲気はもはやなく、黒岩は志乃を侮蔑するような視線を投げている。
さすがに我慢できなくなった時宗はコーヒーカップを掴み、黒岩にコーヒーをぶちまけようとした時、志乃がそっと時宗の腕を掴んだ。
「黒岩様、失礼を承知で申し上げますね」
女給に何を言われても痛くも痒くもなさそうな顔の黒岩は、志乃に言葉を続けさせるように顎をしゃくった。
志乃は空になった黒岩のコーヒーカップをカウンターの内側に片付ける。陶磁器の白いカップを慈しむかのようにそっと志乃は撫でた。
何かを決意したのか、先ほどまでの穏やかな表情とは違う、完璧なほどの笑顔で彼女は口を開く。
「こんなところで、女給を口説いているようなお暇があるようだったら、お仕事をきちんとされた方が良いですよ。それでなくても、最近の黒岩家は傾いているようですし。ああ、もっともそれは隠されていたんですね。そうでなければ婚約なんてできませんしね」
「な、なにを言っている」
「噂は喫茶店にも届いていますよ。どうやら事業を失敗しているようですね。その挽回のために、娘様を良家に嫁がせようとしているんですよね。それを知っている、娘様を思う方が今回投げ文をされたのかもしれませんね」
コーヒーカップから手を離した志乃は再び紙を手に取り、手紙の内容を見ている。
「駆け落ちされて、娘様がいなくならないように今のうちにお気持ちを聞いて、きちんと正面から向き合うことをお勧めします。何せ、黒岩様のお家には娘様しかいらっしゃらないのですから。それに、この手紙の主ができる方かもしれないのに、黒岩様が無視するとは、これいかほどに、ということですね」
女性を、彼女を怒らせるというのはなんと恐ろしいことか。
時宗は目を見張ったまま志乃を見る。
完璧な笑顔を崩すことなく、志乃はまっすぐ黒岩を見ていた。
「う、うるさいっ。こんな店さっさと潰れてしまえっ」
顔を真っ赤にして、黒岩は椅子を蹴って立ち上がった。金をカウンターに叩きつけるようにして置いてから、どかどかと足音を鳴らしながら店を出て行った。
大人の男を怒らすほどの物言い。怖いもの知らずか、この人は。
時宗が唖然としたまま、黒岩が出て行った先を見ていると、志乃が申し訳そうな声で時宗に声をかけてきた。
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