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しおりを挟む今晩は、bar マスカレイドへようこそ。
当店でお楽しみいただくためには、二つのルールがございます。
一つ、ここでは仮面を被り、身分を明かさないこと。
二つ、恋仲にある人間が居る場合は、赤の薔薇を。
……それでは今宵も、アナタに素敵な出会いがありますように。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「どうして私がこんな思いをしなければならないの……?」
私はいつもの席に座り、マスターが出したカクテルを手に取った。
わずかに曲げた指先でグラスをなでるように輝きを磨り、その小さな気泡を確かめると、はあ、と深いため息をついた。
グイっ、とお気に入りのカクテルを一気に飲み下す。
「どうぞ。こちら、ピンクレディでございます」
「……なに? 私、こんなもの頼んでいないわよ」
丁度飲み終えたと同時に、正面に立つマスターから、ぼんやりとピンク色に光るカクテルが出される。
「あちらのお客様からでございます」
仮面を被ったマスターは、変わらぬ口調で淡々と手を私の横へ向けた。
その手の先には、一人の男が静かに腰かけていた。
黒を基調とした装いに、仄かにきらめく銀の仮面──。
「……ああ、そういうこと?」
私は”ワケ”あって、いつもの赤の薔薇ではなく、白の薔薇を胸に指していた。
私は肩にかかる髪をひと房、無意識に指先で巻きながら、胸元の白い薔薇にそっと触れた。
赤は、相手がいます。
白は、相手がいません。
簡単に言えば、この薔薇にはそんな意味が込められている。
bar マスカレイドは、仮面越しに互いの素性を隠しながら、ほんのひととき現実から解き放たれる場所。
けれど、ここの客層は、ほとんどが地位も財も手にしている者ばかり。つまりは権力者だ。
そのぶん、関係も複雑で、裏にはそれぞれの事情がある。
だからこそ、無用な火種を避けるために、この薔薇の色分けというルールが設けられていた。
「今晩は、ピンク色の髪がお美しいですね。よろしければ、私と一緒に飲みませんか?」
男の低く艶を帯びた声が、暗がりの中でやわらかく響いた。
仮面の下から覗く口元には、品のある微笑。
「……いいですよ」
自分でも、驚くほどあっさりと返事をしていた。
普段の私なら、こんな申し出には決して応じなかっただろう。
彼がいるから、と。
――だけど、今は違う。もう、私には関係のないことだ。
ほんの一瞬だけ、胸が軋んだ気がした。
だけどそれは、すぐにカクテルの甘味に紛れていった。
男は静かに「ありがとうございます」とだけ言うと、私の隣の席へと腰を下ろした。
「マスター、私にも彼女と同じものを」
「かしこまりました」
マスターは淡々と応じ、再びカクテルを調合し始めた。
「ねえ、どうして私にこのお酒を?」
「美しい貴女にピッタリだと思いまして」
「……そりゃあ、どうも」
私はグラスを持ち上げ、遠慮なくピンクレディを飲み干した。
甘さの奥に潜むわずかな酸味が、喉を通り過ぎるのを感じる。
「貴方、ここにはよく来るの?」
「ええ。レディーが、いつも隅の席で、一人寂しそうにグラスを傾けているのも、見かけていました」
「あら怖い。ずっと私を見ていたの?」
わざとらしく眉をひそめて言うと、男は静かに微笑む。
「さぁ、どうでしょうか」
男は意味深に笑いながら、手元のグラスを軽く揺らした。
ピンク色の液体が、ゆるやかに波打っている。
「ところで、どうして今日は白の薔薇を?」
男の問いに、私は一瞬動きを止める。
そして、静かにグラスを机に置いた。
「私の婚約者が、婚約破棄を言い渡してきたのよ」
ぽつりと零れた言葉は、驚くほど淡々としていた。
「ほう、それはまた一体どうして?」
「ははっ、真実の愛を見つけたんだって」
「これはまたロマンチックな話ですね」
「なぁにが、ロマンチックよ……」
それは、今日の昼のこと。
「俺は真実の愛を見つけたんだ。申し訳ないと思っている、しかし君なら分かってくれるだろう?」
「ぐす、ぐす、申し訳ございません公女様……」
目の前に立つのは、私の婚約者ヘンリー・ブレイク伯爵令息。
彼の隣には、淡い金髪を揺らしながら涙を滲ませる、レリアン・ロンズデール男爵令嬢の姿があった。
ヘンリーはレリアンを庇うように肩を抱き、まるで私が彼女を傷つけるような存在であるかのように立っていた。
……ふざけないでよ。
「そうでしたか。そうとは知らず、申し訳ございません」
言葉を紡ぐと同時に、私は笑みを浮かべた。
咄嗟に作り上げた、完璧な笑顔。
頬の筋肉が痛くなるほどに引き上げられ、そこに曇りは一切ない。
優雅で、凛とした、まるで何も問題など存在しないかのような微笑み。
ヘンリーの表情がわずかに曇ったのを、私は見逃さなかった。
なによ、その顔は。
笑顔で平然と返事をするよりも、泣き崩れて許しを請うべきだった? それとも、捨てないでと見苦しく縋りつくべきだった?
レリアンを抱くヘンリーの手に、ぎゅっと力が込められる。
「君は、本当に何を考えているのか分からない人だな」
冷たく吐き捨てるように、ヘンリーは私に告げた。
「ごめんなさい」
弱い私には、笑顔を浮かべて、ただ謝罪の言葉を口にすることしか出来なかった。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「アドバイス?」
酔いがゆっくりと回り始め、頭の中がぼんやりと霞んできた頃、男は唐突にそんなことを言い出した。
「ええ」
「……ふーん、言ってみてちょうだい」
私と同じくらいの量の酒を飲んでいるはずなのに、次第に意識が遠のき、呂律も怪しくなっている私とは対照的に、彼の口調は驚くほど落ち着いて冷静だった。
「レディー、深く考える必要はございません」
「深く考える必要はない……?」
眉をひそめる私に、男は穏やかに笑いながら続ける。
「ええ。そうですね、まずはその仮面を外してみてはいかがですか?」
「……はあ?」
あまりに唐突で、あまりに的外れで、思わずすっとんきょうな声が漏れた。
アドバイスと言うからには、てっきり婚約破棄をどう乗り越えるべきか、そんな話が来るのだと思っていた。
けれど、彼の言葉は想像のはるか斜め上をいくものだった。
「ここ、barマスカレイドのルールは仮面を外さないこと。貴方だって、分かっているでしょ?」
「はい、もちろん」
男は頷いた。
分かっているなら、どうしてそんなことを……?
「ですがそれは、あくまでこのマスカレードというbarの中でのことの話です」
低く、静かな声だった。
彼はグラスに視線を落としたまま、ゆるやかに指先で縁をなぞるような仕草をする。その一連の動きに、不思議と私は惹きつけられ、気づけば自然と彼の顔を、仮面の奥を見つめていた。
――仮面の隙間から覗く目元。
そこには、驚くほど澄んだ青い瞳。
そして、そのすぐ下の右目元には、小さなほくろがひとつ。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
私には兄弟が多い。兄が二人、弟が一人。
一人娘は可愛がられる。そんな話は、迷信だと思う。
貴族の家に生まれた女は、ただ「誰と結婚するか」で価値を測られる。家の名に利する縁談を受け入れ、適切な時期に嫁ぐこと。それが唯一にして最大の務めであり、存在理由。
だから、女である私が愛されるなんてことはあるはずがない。
両親は私に対して放任主義だった。学問も礼儀作法も、必要最低限だけを与え、あとは自由にすればいいという態度だった。それを心地よいと思う瞬間もあったけれど、結局のところ、それは「無関心」の裏返しでしかなかった。
だから私が、婚約破棄を申し出られたと言っても、両親は怒りを見せることもなく、ただ呆れたように溜息をついただけだった。
bar マスカレイドで仮面の男と飲み明かした、次の日。
「エステル、ここにサインを頼む」
低く、淡々とした声が部屋に響いた。
ヘンリーは無造作に一枚の書類を机の上に滑らせた。
それは、婚約解消の示談書だった。
私は机の上に視線を落とし、紙面をじっと見つめる。
そこには既に、ヘンリー・ブレイクの名がサインが記されていた。
私のことを捨てたくせに、親しげに私を名前で呼んでくるだなんて。本当に無礼な人。
「かしこまりました。それで、世間にはどう説明をするつもりですか?」
静かな声色でそう問いかけたものの、額の奥がじんじんと疼いて、思わずこめかみに手を当てる。昨日、あれだけ飲むべきじゃなかったと、今さらになって後悔していた。
痛み止めも、気休め程度にしかならない。痛むのは頭だけじゃない。
心も、ずっと重たく軋んでいる。
それでも、私は平然とした顔でヘンリーに向き直った。
「ああ、それなら俺がやっておくからお前は気にするな」
「……分かりました」
私が返事を返すと、すぐ横から軽やかな声が響いた。
「ねえ、エステル嬢? 私のお茶が無くなっているのだけれど?」
まるで、気の利かない給仕に文句でも言うかのような口ぶりだった。
「気が利かず申し訳ございません、レリアン嬢。使用人を呼んできますので、少々お待ちください」
私はソファーから立ち上がり、無駄なく優雅な動作で軽く会釈し、部屋を出た。
――疲れた。疲れた。……本当に、疲れた。
すべて終わらせたら、部屋に戻って直ぐに眠ろう。
それとも、いっそまたマスカレードに行くのもいいかもしれない。あそこでは、侯爵令嬢エステル・フロンティアではなく、ただの一人の女でいられる唯一の場所だから。
使用人を呼びに行くと言ったものの、足が動かない。
重くなる呼吸。胸が締めつけられるような感覚に襲われ、私は扉の前でしばらく立ち尽くしていた。
そのとき、扉の向こうから、ひそひそと小さな声が聞こえてきた。
「……でも、なんて言うつもりなのよ、ヘンリー?」
甘ったるく、柔らかな声色。
レリアン・ロンズデール――あの女の声だ。
扉一枚隔てた向こうで、二人の声が重なる。
「安心しろレリアン。大丈夫だ、俺に考えがある」
「へえ……どう言うの?」
「完璧淑女エステル・フロンティア様には、跡継ぎを産むことができないという一番の欠点があった。そう、言いふらすつもりさ」
その言葉を聞いた瞬間。一瞬、時が止まったような気がした。
頭の中が、真っ白になる。息をすることさえ、忘れていた。
「まあ! そんなことをしたら、エステル様は嫁の貰い手がなくなってしまいますよ」
「ははっ、そうだろうな。だけどそんなこと、俺にはもう関係のないことさ」
ぞわり、と背筋を駆け上がる悪寒。まるで冷たい刃を突きつけられたようだった。
「本当に酷いひと。でも、私はそんな貴方の傍に居てあげますよ」
「レリアン……」
血の気が引いていく感覚に、呼吸の仕方さえ忘れそうになる。
気持ち悪い。
気持ち悪い、気持ち悪い……!
胸の奥に渦巻いていた感情が、いっきに噴き出した。
――バンッ!!
私は、勢いよく扉を押し開けた。
重厚な扉が壁に打ちつけられ、普段よりもずっと大きな音を立てる。
ヘンリーとレリアンが、凍りついたようにこちらを振り向いた。
「エ、エステル様……?」
突然現れた私の顔を見て、青ざめさせて驚くレリアン嬢。
流石にまずいと思ったのか、ヘンリーも狼狽を隠せない様子だった。
愕然とした表情を浮かべる二人を睨みつけながら、私は強く奥歯を噛みしめた。
「エステル……俺は、お前のすべてが不愉快なんだよ!」
突如、ヘンリーが叫んだ。
それは言い訳のつもりなの?
私が不愉快だから、 私が子供を妊娠できないという嘘の噂を流そうとしていたの?
それがどれほど貴族令嬢にとって致命的なことか、分からないとは言わせないわよ。
結婚の道具として疲れる貴族の娘にとって、結婚市場で価値を失うということは、つまり――人間としての存在を否定されるも同じ。
私のすべて。
貴方は、私の何を知っているというの?
私は、貴方には仮面を被った姿しか見せていないわ。
淑女として完璧な、エステル・フロンティア侯爵令嬢の姿を。
仮面の裏を覗いたことすらない貴方に、私のなにが分かるっていうの。
『その仮面を外してみてはいかがですか?』
――仮面を取る。
私は、その瞬間すべてを理解した。
あの男が、彼が言った言葉の意味を。
「……いい加減にしてくださいよ」
「はっ、?」
「不愉快ですって……? それはこっちのセリフよ!」
普段は冷静で大人しい“完璧な淑女”が豹変した姿に、ヘンリーは驚きが隠せない様子だった。
目を見開き、思わず一歩後ずさる。
しかしその反応は、私をますます苛立たせた。
両親から「お前の婚約者だよ」と紹介されたとき、私は貴方に何も思わなかった。
ただ、私の、エステルの婚約者はこの人なのか――そう、思っただけだった。
私は貴方に対して、情も無ければ愛だって無い。
今、淑女エステル・フロンティアの仮面を外した時。
私は貴方が、憎くて憎くてたまらない。
「エステル……?」
「貴方みたいなクソ男、こっちからお断りよ!」
感情が胸の奥で破裂した。
私は、テーブルの上にあった紅茶の入ったティーカップを手に取ると、それを迷いなくヘンリーに向かって振りかけた。
――バシャッ!!
深紅の紅茶がヘンリーの顔面に勢いよくかかる。
滴る液体が彼の整った顔を濡らし、シャツの襟元に染み込んでいく。
「私はずっと、貴方のその間抜けな顔が嫌いだったわ」
口元に、自然と笑みが浮かんだ。
「真実の愛? バカなこと言わないで。貴方はただ、私より扱いやすい女に逃げただけでしょ?」
「なっ、お前……!」
ヘンリーの顔が怒りに歪む。しかし、その顔すらも私には滑稽でしかなかった。
彼の見栄も、プライドも、すべてが浅ましくて、薄っぺらい。
「エステル、お前頭でもおかしくなったか! この一瞬で、何があったっていうんだ!」
おかしい? 確かに、おかしいかもね。
だけど、これが本当の私なの。
完璧な淑女の仮面を被った、都合のいい人形じゃない。
私は今、この瞬間変わったのよ。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
その後、私は社交界に積極的に顔を出すようになった。
今までも、ヘンリーの尻ぬぐいのために、数々の貴族たちと仲良くしていたおかげで、私の登場に冷たい視線を向ける者は少なかった。むしろ、周囲の視線には――同情の色が混じっていた。
私は、何一つ隠すことなく経緯を語った。
嘘も誇張もせず、けれど決して感情に流されることなく、淡々と。
ただ、ほんの少しだけ、声を震わせて、涙を滲ませてみせた。
するとどうだろう。
可憐に振る舞っていた私の涙は、想像以上の効果を発揮した。
同情の矛先は、一気にヘンリーとレリアンへと向かっていった。
社交界の噂は、火のついた油のように燃え広がっていった。
元婚約者のエステル侯爵令嬢を貶めようとした伯爵家の若君ヘンリー・ブレイクと、無礼にもその不誠実な関係に身を投じたレリアン・ロンズデール男爵令嬢。
その話題は、日毎に尾ひれをつけて、貴族たちの口の端に上っていった。
「レリアン嬢、こちらの椅子は使用中ですの」
「まあ、ロンズデール嬢……こんなところでお会いするなんて奇遇ですわね。私は急用を思い出しましたので、これにて」
微笑みながら丁寧に避けていく令嬢たち。
表面上は礼儀を忘れず、けれど明確に拒絶の意志を見せるその態度に、レリアンは唇を噛みしめた。
一方、ヘンリーにも同様の冷たい風が吹いていた。
「息子にあんな育ち方をされては、ブレイク伯爵も肩身が狭いでしょうな」
「家名を捨てて愛を選んだと言っていたが、どうやら愛も社交の席からは逃げたようだ」
かつては女性たちの人気者だったヘンリーも、今では誰からも相手にされない。
残ったのは、酔った勢いで話しかけてくる下級貴族と、心配するフリをして笑い者にする中年たちだけ。
その話を聞いて、不愉快になることこそ無かったが、特別気分が良くなることも無かった。
――これは、罰でも復讐でもない。
ただ、嘘をつき、他人を傷つけた者が、自分の言葉と行いによって沈んでいっただけのこと。
私はなにもしていない。ただ、真実を話しただけ。
私は静かに、手にしたシャンパングラスを傾けた。
淡い金の液体が、グラスの内側を優雅に滑り落ちる。
泡のように消えていく二人の名声を、音もなく見送るように――。
まるで、舞台の幕が下りるのを待つ観客のような気持ちだった。
喝采も罵声もいらない。ただ静かに、終わりを見届けるだけ。
彼らが築いた虚構は、ひとつずつ剥がれ、やがて誰にも見向きされないものになっていくのだ。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「頼むよ、エステル! 君の方からすべてが虚偽の噂に過ぎないと弁解してくれ!」
乱れた息、焦りに濁った声。
かつて私を見下し、跡継ぎに不向きと断じたその口で、今さら何を言うつもりかしら。
「私が、貴方の言葉に呑気に頷いて、従順な犬のように従うとでも思っていたの?」
「……エステルっ、」
「レリアンは、男爵に見捨てられて修道院に送られるそうね。“純粋な恋”とやらの代償にしては、ずいぶん高くついたわね。それで、貴方は一体、どうなってしまうのかしら」
言葉に合わせて、わずかに首を傾げてみせる。
まるで心から案じているかのような、上等な皮肉。
「た、頼むよ。俺を見捨てないでくれ……!」
今にも膝をつかんばかりに、縋りついてくるような目。
あれほど誇り高そうに振る舞っていた男の、あまりにも滑稽な末路。
捨てるなと言われても、先に手を離したのは、そっちじゃない。
私は、必死に縋るヘンリーを見下ろして、ニコリと微笑んだ。
「真実の愛……応援していますよ、ヘンリー」
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
私にあんなにも怒る両親を見るのは、初めてだった。
どれだけ勉学に励もうとも、どれだけ礼儀作法を完璧に身につけようとも、彼らが私に振り返ることはなかったのに。
美しく、品行方正で、誰からも非の打ち所がない“完璧な淑女”であれば……きっといつか、両親は私を見てくれると思っていたのに。
今日、私がその長年被り続けた仮面を自ら破り捨てたとき、初めて両親は私に視線を向けた。なんて皮肉なことだろうか。
ギャーギャーと喚いているヘンリーとレリアンも、ひそひそと騒ぎ立てる周囲の人々の声も、もうどうでもいい。
「聞いたよ、エステル」
低く響く声が、静かな書斎の空気を切り裂いた。
振り向くと、そこに立っていたのは見慣れた人物――アルベール・フォン・ランカスター皇子殿下だった。
薄い金色の髪を整え、彼の端整な顔立ちには余裕を漂わせた笑みが浮かんでいる。
「ごきげんよう、アルベール皇子。あなたが私の元を訪ねてくるなんて珍しいですね」
アルベールは静かに歩みを進め、執務机の向かいの椅子に腰を下ろした。
「随分と世間を騒がしているようじゃないか」
「別に、勝手に周囲が騒いでるだけでしょ?」
私は心底つまらなそうに答えた。
正直、誰が何を言おうと気にするつもりはない。
「ははっ、本当に噂は本当だったようだ」
アルベールは小さく笑い、興味深そうに私を見つめた。
この男の目が「面白いものを見つけた」と言わんばかりに輝いているのが、少しだけ癪に障った。
こんなことになったのは、“貴方”だって当事者なのよ?
「どうして突然いらっしゃられたの?」
「君の姿が近頃見られないから、元気にしているのか見に来てやったんだ。はっ、僕はなんて優しい友人だろうか」
彼の気の抜けたような口調に、私は冷ややかに微笑んだ。
「それは、社交界での話ですか? ……それとも、barマスカレイドでですか?」
アルベールの表情が一瞬止まる。驚いたように眉を上げるが、それもほんの刹那。すぐに笑みへと変わった。
さすがはアルベール皇子。そう簡単に動揺するような男ではない。
「あなたにあんなにも紳士的な仮面があるだなんて知りませんでしたわ、アルベール皇子」
私の言葉に、彼の微笑がわずかに深まる。
その目が、獲物を見定めるように細められるのを見て、私は確信した。
仮面はすべてを覆い隠せるわけではない。
あの日の夜、bar マスカレイドで男がカクテルに視線を落としたとき、私は見た。
青く澄んだ瞳。そして、右目元にある小さなほくろ。
それはまるで、仮面の裏に隠された秘密のように、僅かに彼の素顔を垣間見せていた。
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