7 / 33
Amitié amourouse 恋は薔薇のしらべ
7 香りのノート
しおりを挟む
アルノーの夜は思った以上に早く、灯りが消えたのを確認してから時計を見た陽色は、嘘みたい、と呟いた。まだ九時……。
読んでいた本を伏せ、ベッドサイドの灯りを絞って首だけを起こした。
陽色がベッドルームを借りたせいで、事務所兼居間兼アルノーの寝室になった部屋を、コの字型になって対面している窓越しにじっと見つめる。再び灯りがつく気配はない。
陽色が身を横たえているベッドは、ゆったりとしたダブルサイズで、むくりと起き上がると、取り替えたばかりのリネンからラベンダーの香りがした。もしかすると、ラベンダーの枝の上に干したのかもしれない。
ティフォンはすっかり陽色に懐いて片時もそばを離れようとせず、ベッドを沈み込ませて足元で寝息をたてている。
そっとベッドからつま先を滑り落として、陽色は部屋を横切った。重い樫の扉を、音がしないように注意しながら少しずつ押し開いた。
暗い廊下を進み、アルノーの寝ている居間に続くキッチンの扉を、同じように押し開いた。どうにかすり抜けられるほどの隙間から中に滑り込む。壁に背を押し当て、陽色は細く息を吐いた。緊張に手のひらが汗ばんでいた。
アルノーに怪我をさせた上に、こんなこそ泥みたいな真似をしているなんて……。
世話になっている恩を仇で返すようで、陽色はいたたまれなかった。それでも、明日になる前にどうしても、手に入れておかなければならないものがある。最初の日に見た、あのノートだ。
どきん、どきんと鼓動がうるさいのを、なだめるように胸に手をあて、深呼吸してから、思い切って居間を進んだ。
ソファーの背側に顔を向けて、アルノーが眠っているのが見えた。正確には、人の形に盛り上がった毛布からのぞく後ろ頭だけが見えた。毛布はゆっくりと上下している。
窓から射し入る月あかりで、驚くほど室内は明るい。本棚に並んだ、背表紙のタイトルまで読み取れる。薄青い水の底を歩くように、陽色は忍び足で進んだ。
椅子の背に無造作にかけられたアルノーのシャツ。飲みかけのコーヒーをたたえたマグカップ。テーブルに置かれた磨りガラスの花瓶に活けられた、ミモザの枝……。
陽色は昔からミモザの花が好きで、庭でその楽しげな黄色を見つけた時、足を止めて見上げた。もしかして、アルノーはそれを見ていて?
そんなことはありえない。自分がミモザに目を留めたのは、ほんの一瞬だったのだから。それでもその枝垂れ咲いた、小さな丸いふわふわの集合花から目が逸らせなくて、陽色は突然、また泣きたくなった。
馬鹿なことをしようとしている自分に、なぜか部屋中のものが優しく感じられて──その持ち主のように……?
気持ちを切り替えようと頭を振った。しゃがみ込むと、重なった本やノートをずらして、目的のノートを探した。付箋がかさかさとおしゃべりを始めてしまいそうで、思わず手が震えた。
……あった。
クラフトの表紙のノート。
素早く手にして胸に抱えると、元来た通りにこっそりと寝室に戻り、陽色はベッドに近づいた。
番犬たるティフォンは気づく様子もなく、陽色を信頼しきって、腹まで見せて眠っている。陽色は携帯電話のカメラを起動し、ベッドにもぐり込んでノートを撮影した。
消せないシャッター音が、布団で作ったテントに響き渡り、冷や汗をかく。
ノートには、アルノーが交配したバラの親の品種名と学名、その交配から生まれたバラの通し番号、外観の特徴、そして香りの組成を表す化学記号が並んでいた。アルノーは、これと思ったバラについてはきちんと分析機関に香りの分析を依頼していたのだろう、それはもっとも陽色が必要とする情報だった。たとえアルノーを裏切ることになったとしても、どうしても手に入れなければならなかった。
数年前の出来事が脳裏をよぎり、陽色は唇を噛む。すべてはあの夜から、いや、あの香水から……。
頭に浮かんだ顔を打ち消すように、陽色は激しく首を横に振った。
もう、自分は戻ることができないのだ。
──決して戻れない。どれほど願っても。
読んでいた本を伏せ、ベッドサイドの灯りを絞って首だけを起こした。
陽色がベッドルームを借りたせいで、事務所兼居間兼アルノーの寝室になった部屋を、コの字型になって対面している窓越しにじっと見つめる。再び灯りがつく気配はない。
陽色が身を横たえているベッドは、ゆったりとしたダブルサイズで、むくりと起き上がると、取り替えたばかりのリネンからラベンダーの香りがした。もしかすると、ラベンダーの枝の上に干したのかもしれない。
ティフォンはすっかり陽色に懐いて片時もそばを離れようとせず、ベッドを沈み込ませて足元で寝息をたてている。
そっとベッドからつま先を滑り落として、陽色は部屋を横切った。重い樫の扉を、音がしないように注意しながら少しずつ押し開いた。
暗い廊下を進み、アルノーの寝ている居間に続くキッチンの扉を、同じように押し開いた。どうにかすり抜けられるほどの隙間から中に滑り込む。壁に背を押し当て、陽色は細く息を吐いた。緊張に手のひらが汗ばんでいた。
アルノーに怪我をさせた上に、こんなこそ泥みたいな真似をしているなんて……。
世話になっている恩を仇で返すようで、陽色はいたたまれなかった。それでも、明日になる前にどうしても、手に入れておかなければならないものがある。最初の日に見た、あのノートだ。
どきん、どきんと鼓動がうるさいのを、なだめるように胸に手をあて、深呼吸してから、思い切って居間を進んだ。
ソファーの背側に顔を向けて、アルノーが眠っているのが見えた。正確には、人の形に盛り上がった毛布からのぞく後ろ頭だけが見えた。毛布はゆっくりと上下している。
窓から射し入る月あかりで、驚くほど室内は明るい。本棚に並んだ、背表紙のタイトルまで読み取れる。薄青い水の底を歩くように、陽色は忍び足で進んだ。
椅子の背に無造作にかけられたアルノーのシャツ。飲みかけのコーヒーをたたえたマグカップ。テーブルに置かれた磨りガラスの花瓶に活けられた、ミモザの枝……。
陽色は昔からミモザの花が好きで、庭でその楽しげな黄色を見つけた時、足を止めて見上げた。もしかして、アルノーはそれを見ていて?
そんなことはありえない。自分がミモザに目を留めたのは、ほんの一瞬だったのだから。それでもその枝垂れ咲いた、小さな丸いふわふわの集合花から目が逸らせなくて、陽色は突然、また泣きたくなった。
馬鹿なことをしようとしている自分に、なぜか部屋中のものが優しく感じられて──その持ち主のように……?
気持ちを切り替えようと頭を振った。しゃがみ込むと、重なった本やノートをずらして、目的のノートを探した。付箋がかさかさとおしゃべりを始めてしまいそうで、思わず手が震えた。
……あった。
クラフトの表紙のノート。
素早く手にして胸に抱えると、元来た通りにこっそりと寝室に戻り、陽色はベッドに近づいた。
番犬たるティフォンは気づく様子もなく、陽色を信頼しきって、腹まで見せて眠っている。陽色は携帯電話のカメラを起動し、ベッドにもぐり込んでノートを撮影した。
消せないシャッター音が、布団で作ったテントに響き渡り、冷や汗をかく。
ノートには、アルノーが交配したバラの親の品種名と学名、その交配から生まれたバラの通し番号、外観の特徴、そして香りの組成を表す化学記号が並んでいた。アルノーは、これと思ったバラについてはきちんと分析機関に香りの分析を依頼していたのだろう、それはもっとも陽色が必要とする情報だった。たとえアルノーを裏切ることになったとしても、どうしても手に入れなければならなかった。
数年前の出来事が脳裏をよぎり、陽色は唇を噛む。すべてはあの夜から、いや、あの香水から……。
頭に浮かんだ顔を打ち消すように、陽色は激しく首を横に振った。
もう、自分は戻ることができないのだ。
──決して戻れない。どれほど願っても。
17
あなたにおすすめの小説
入社1ヶ月のワンコ系男子が、知らずのうちに射止めたのはイケメン社長!?
monteri
BL
CM制作会社の新入社員、藤白純太は入社1ヶ月で教育係の先輩が過労で倒れたため、特別なクライアントの担当を引き継ぐことになる。
そのクライアントは、女子禁制ミーハー厳禁の芸能事務所だった。
主人公の無知で純なところに、翻弄されたり、骨抜きにされるイケメン社長と、何も知らない純太がドキドキするお話です。
※今回の表紙はAI生成です
※小説家になろうにも公開してます
【完結】護衛騎士の忠誠は皇子への揺るぎない溺愛
卯藤ローレン
BL
――『皇帝の怒りを買い、私邸に幽閉された』という仄暗い噂を持つ皇子に会ったら、あまりにも清らかな人でした――
この物語の舞台は、とある大陸の最西端に位置する国、ファンデミア皇国。近衛騎士団に転属となったブラッドリーは、第四皇子の護衛騎士に任命された。実際に会ったその人は、とっても気さくでとってもマイペース、意外とちょっとやんちゃ。そして、市民から『英雄』と称され絶大に慕われていた。それは奇病――皇子が生まれながらに有している奇跡の力で、密かに国を救っているからだった。しかしその力は、多方面からめちゃくちゃに命を狙われる原因にもなっていて……。皇子に向く刃、ブラッドリーはその全てから身を挺して主人を護る。
襲撃されて、愛を自覚して、筋トレして、愛を育んで、また襲撃されて。
たったひとりの愛しい皇子を、護衛騎士は護って護って護り抜く。
主従関係の上に咲く激重な溺愛を、やかましい使用人ズと共に、しっとりめなラブコメでお送りします。
◇筋肉バカつよつよ年下騎士×マイペース花咲く年上皇子
◇21日からは12時と18時の2回更新。
何故よりにもよって恋愛ゲームの親友ルートに突入するのか
風
BL
平凡な学生だったはずの俺が転生したのは、恋愛ゲーム世界の“王子”という役割。
……けれど、攻略対象の女の子たちは次々に幸せを見つけて旅立ち、
気づけば残されたのは――幼馴染みであり、忠誠を誓った騎士アレスだけだった。
「僕は、あなたを守ると決めたのです」
いつも優しく、忠実で、完璧すぎるその親友。
けれど次第に、その視線が“友人”のそれではないことに気づき始め――?
身分差? 常識? そんなものは、もうどうでもいい。
“王子”である俺は、彼に恋をした。
だからこそ、全部受け止める。たとえ、世界がどう言おうとも。
これは転生者としての使命を終え、“ただの一人の少年”として生きると決めた王子と、
彼だけを見つめ続けた騎士の、
世界でいちばん優しくて、少しだけ不器用な、じれじれ純愛ファンタジー。
[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった
ざびえる
BL
エリートリーマン×平凡リーマン
モデル事務所で
メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才
中学時代の初恋相手
高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が
突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。
昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき…
夏にピッタリな青春ラブストーリー💕
僕たち、結婚することになりました
リリーブルー
BL
俺は、なぜか知らないが、会社の後輩(♂)と結婚することになった!
後輩はモテモテな25歳。
俺は37歳。
笑えるBL。ラブコメディ💛
fujossyの結婚テーマコンテスト応募作です。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
影武者は身の程知らずの恋をする
永川さき
BL
孤児院出身のライリーは農場で働いている傍ら、冒険者を副業としている。
しかし、農場では副業が禁止である上に、冒険者は孤児院で嫌悪の対象となっている。
解雇や失望されてしまう可能性があっても冒険者として働くのは、貧しい孤児院に仕送りをするためだった。
そんなある日、冒険者ギルドから帰宅する途中、正体不明の男に尾行される。
刃を交え、ギリギリのところで男を振り切ったが、逃げ切れていなかったとわかったのは、その数日後のこと。
孤児院に現れたのは王宮の近衛騎士の三人。
そのうちの一人であるユリウスは、ライリーが尾行を振り切った正体不明の男だった。
自身の出自を餌に、そして言外に副業やその内容をバラすと脅され、王宮に行くことを決意したライリーを待ち受ける運命とは……。
近衛騎士×元孤児の影武者の切ない身分差BL。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる