アミティエ・アムルーズ 恋は薔薇のしらべ

いつ海

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Amitié amourouse 恋は薔薇のしらべ

7 香りのノート

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 アルノーの夜は思った以上に早く、灯りが消えたのを確認してから時計を見た陽色は、嘘みたい、と呟いた。まだ九時……。
 読んでいた本を伏せ、ベッドサイドの灯りを絞って首だけを起こした。
 陽色がベッドルームを借りたせいで、事務所兼居間兼アルノーの寝室になった部屋を、コの字型になって対面している窓越しにじっと見つめる。再び灯りがつく気配はない。

 陽色が身を横たえているベッドは、ゆったりとしたダブルサイズで、むくりと起き上がると、取り替えたばかりのリネンからラベンダーの香りがした。もしかすると、ラベンダーの枝の上に干したのかもしれない。
 ティフォンはすっかり陽色に懐いて片時もそばを離れようとせず、ベッドを沈み込ませて足元で寝息をたてている。
 そっとベッドからつま先を滑り落として、陽色は部屋を横切った。重い樫の扉を、音がしないように注意しながら少しずつ押し開いた。

 暗い廊下を進み、アルノーの寝ている居間に続くキッチンの扉を、同じように押し開いた。どうにかすり抜けられるほどの隙間から中に滑り込む。壁に背を押し当て、陽色は細く息を吐いた。緊張に手のひらが汗ばんでいた。

 アルノーに怪我をさせた上に、こんなこそ泥みたいな真似をしているなんて……。

 世話になっている恩を仇で返すようで、陽色はいたたまれなかった。それでも、明日になる前にどうしても、手に入れておかなければならないものがある。最初の日に見た、あのノートだ。

 どきん、どきんと鼓動がうるさいのを、なだめるように胸に手をあて、深呼吸してから、思い切って居間を進んだ。
 ソファーの背側に顔を向けて、アルノーが眠っているのが見えた。正確には、人の形に盛り上がった毛布からのぞく後ろ頭だけが見えた。毛布はゆっくりと上下している。

 窓から射し入る月あかりで、驚くほど室内は明るい。本棚に並んだ、背表紙のタイトルまで読み取れる。薄青い水の底を歩くように、陽色は忍び足で進んだ。

 椅子の背に無造作にかけられたアルノーのシャツ。飲みかけのコーヒーをたたえたマグカップ。テーブルに置かれた磨りガラスの花瓶に活けられた、ミモザの枝……。

 陽色は昔からミモザの花が好きで、庭でその楽しげな黄色を見つけた時、足を止めて見上げた。もしかして、アルノーはそれを見ていて?
 そんなことはありえない。自分がミモザに目を留めたのは、ほんの一瞬だったのだから。それでもその枝垂れ咲いた、小さな丸いふわふわの集合花から目が逸らせなくて、陽色は突然、また泣きたくなった。

 馬鹿なことをしようとしている自分に、なぜか部屋中のものが優しく感じられて──その持ち主のように……?

 気持ちを切り替えようと頭を振った。しゃがみ込むと、重なった本やノートをずらして、目的のノートを探した。付箋がかさかさとおしゃべりを始めてしまいそうで、思わず手が震えた。
……あった。
 クラフトの表紙のノート。
 素早く手にして胸に抱えると、元来た通りにこっそりと寝室に戻り、陽色はベッドに近づいた。

 番犬たるティフォンは気づく様子もなく、陽色を信頼しきって、腹まで見せて眠っている。陽色は携帯電話のカメラを起動し、ベッドにもぐり込んでノートを撮影した。
 消せないシャッター音が、布団で作ったテントに響き渡り、冷や汗をかく。

 ノートには、アルノーが交配したバラの親の品種名と学名、その交配から生まれたバラの通し番号、外観の特徴、そして香りの組成を表す化学記号が並んでいた。アルノーは、これと思ったバラについてはきちんと分析機関に香りの分析を依頼していたのだろう、それはもっとも陽色が必要とする情報だった。たとえアルノーを裏切ることになったとしても、どうしても手に入れなければならなかった。

 数年前の出来事が脳裏をよぎり、陽色は唇を噛む。すべてはあの夜から、いや、あの香水から……。

 頭に浮かんだ顔を打ち消すように、陽色は激しく首を横に振った。

 もう、自分は戻ることができないのだ。

──決して戻れない。どれほど願っても。


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