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夜の楽園
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頬や体に葉が触れ、硬い枝がパシリと肩を打つ。
茂みの中は月明かりが届かず、濃い闇となっていた。それでも見上げれば、 木々の隙間からちらりと月が見える。
足元の感触が突然変わった。
硬い土が消え、柔らかい苔むした地へと変わった。
茂みの中だというのに、辺りに御加水の霧が漂いはじめた。霧は一息ごとに体を潤し、何とも気持ちが良い。
ぴちゃり。裸足に水が触れた。
キイトがしゃがみ込んで目を凝らすと、地面を覆う緑色の苔に水が流れ込み、波が寄せている。手を浸すと少し冷たい。
茂みにも緑地にも、こんな水源は無いはずだ。
この波の正体を知りたい。
キイトが好奇心に駆られ走り出すと、気が急いた所為で躓き、前へと倒れ込んでしまった。
「っ……!。……?」
とっさに取った受け身の下で、豊かな甘い香りの苔と、土の匂いがする。
聴いた事も無い生き物たちの声が聞えた。
水の寄せる音が響いて来る。
なんだか、誰かに抱き寄せられたように、懐かしい。
手を付き、身を起こすとそこは、
「……楽園だ」
自分から出た言葉にキイトは驚いた。
夜の楽園。
そこは、何処までも続く終りの見えない湖。
驚くべき造形の木々と、不思議な植物を抱く森を合わせた場所だった。
湖の所々には浮島が存在し、浮島よりも大きな樹木が、水の中から延び浮島を絡めている。
真っ直ぐに生える巨木もあれば、水面に沿い、どこまでも伸びていく木もある。
その全てがひっそりと夜に沈み、美しい星灯りに照らされ、煌めいていた。
ほぅほぅ るるるるる まつつまつつ
四方から鳴き声が聞こえる。淡いの世界では聞いたことのない、透明な声。
キイトが湖に近寄ってみると、御加水の濃い香りが鼻腔をくすぐり、呼吸に似たリズムで、波が裸足を濡らした。
キイトはふと喉の渇きを覚え、膝を付き水面へと口づけると、楽園の湖の水を飲んだ。
(美味しいっ、本物の御加水だ)
キイトが夢中になって水を飲む横に、同じように口を付け、水を飲みはじめた者がいる。
(だれ?)
キイトはそれに気付き、そっと目だけで相手を伺った。相手はその視線に答えるよう、口を止め、そして、キイトの目を覗き込んできた。
「……」
「……」
瞬きを互いに送った後、キイトは思わず挨拶をした。
「良い夜だね」
「むぃ」
いままで見た生き物の中で、一番それに近い物は、ムカデだろうか。しかしその生き物は、ふさふさとした水色の毛が生えており、ウサギに似た長い耳を持っていた。さらにムカデとは比べ物にならないほど大きく、キイトの四倍は胴が長く、生える足は大人の腕ほどだ。
「むぁ」
「うん。ここの水は美味しい」
生き物の鳴声は柔らかく、見つめて来る灰色の目は、艶々として美しい。
キイトは思わず、むかし母にしたように眼差しを送り、そっと自分の目へと招いてみた。
ムカデは素直にキイトの夜へと入り込むと、驚くほど温かく、親愛の情を示してきた。
(母さん以外はじめてだ、こんなにイトムシの目を見てくれるものは……)
胸が苦しいほど嬉しくなる。自然と涙が溢れ、慌てて拭っていると、ムカデが身を寄せてきた。
手を伸ばし水色の毛を撫でながら、キイトはさらに驚いた。
いつの間にか、湖のそこかしこに、楽園の生き物たちが姿を現していたのだ。
ある者は水を飲み、ある者は水に浮いている。
全てが奇妙で、美しい生き物たちだった。
(凄いや、本で見た以上に綺麗だ)
キイトは感嘆のため息をついた。
ムカデは、そんなぼんやりとするキイトの頬に、湿った鼻っ面を押し付けると、とぷり、と音を立て湖へと入り、尻尾を振って行ってしまった。
キイトはムカデに手を振り見送ると、さっそく生き物たちを見て回りはじめた。
甲羅、触覚、毛、鱗、羽、どれも皆異なり、どの生き物も、神聖で祝福された存在であることが分かる。
キイトはやがて足を止め、水が迫ってこない苔の岸辺へと寝転がった。
見上げた楽園の夜空は、紺色や藍色、菫と星灯り、夢と囁き声を合わせた色で、母の瞳の夜に良く似ていた。
まるで昔のように、母と視線を交わしているようで、キイトは嬉しかった。
(今日は母さんにやっと会えたのに、失敗したな……。目を伏せて敬意を示さなきゃいけなかったのに。母さんがっかりしただろうな)
母と共にいるためには、皆が必要とする、強く立派なイトムシにならなくてはいけない。でないと母が責められ、必要とされない自分は、イトムシでもなくなる。
そう師から教わった。
だから耐えた。痛みも否定も屈辱も。
いつかまた、大好きな母と暮らせるならば、再び抱き締めてもらえるなら、何だって我慢できた。
(母さんだって、僕に強く立派なイトムシになってほしいから、小石丸様に預けたんだ。だからもっと、頑張らなくちゃ。もっと、もっと……)
キイトは欠伸を一つすると、目を閉じ眠りについた。
イトムシを見下ろす星たちが、瞬きを送る。それを受けた何匹かの生き物が、身をくねらせ、あるいは素早く這い寄って行き、イトムシの体が冷えぬよう寄り添ってやった。
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