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夜1
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閉じられた暗闇の中を、ヒノデは大きく足を運んでいく。
裸足に夏草が刺さり、柔らかい頬を枝がかすめる。
霧は益々深くなり、湿気を吸ったドレスが体へと巻き付き、まるで水の中を歩いているようだ。
(さむい)
霧に熱をゆっくりと奪われていく。
ヒノデは腕の中のキイトに、少しでも体温を分けられるよう、抱え直し、さらに奥へと進んでいった。
視界を奪われるのは恐ろしい。
ヒノデの閉じられた世界の中、足元を何かがすり抜け、何かがよりそって来る。その度に、声を上げそうになる口を堅く結び、ヒノデはひたすら前を目指した。
視界を奪われた混乱からの錯覚ではない、淡いの生物とも、追放者とも違う気配が、彼女のまわりに集まっている。
突然、裸足の感触が変った。
草と土から、柔らかい泥と苔になったのだ。
思わず足を止めると、突然耳元で「ばぶるる」と馬のような嘶きがした。
「っ!」
知らぬ生き物の気配に、ヒノデは悲鳴を飲み込み、目隠しの下で硬く目を瞑り、再び歩き出した。
(私はもう楽園にいるのね。イトムシは、もとは楽園の生き物。だというのになぜ、こんなにも恐れているの、わたしは。苦しい。せつない。胸が痛い。場の空気が濃すぎる、夜の気配が強すぎる、お願い、私を拒絶しないで。この子を助けて)
すがるように祈りながら、どのくらい歩いたのだろうか。
見えぬ生き物に付き添われるたび、怯え驚いていた心も、次第に疲労へと落ち沈み、キイトを抱いている腕の感覚が失われていく。
血の巡りが定かでない腕に爪を立てながら、ヒノデはただ真っ直ぐ歩いた。
そんなヒノデの背を、時折、見えぬ者たちが励ますように押してくれる。
冷たい手に押されることもあれば、硬い枝のような指で、そっと押されることもあった。
そして異変に気が付いた。
糸輪につなげられた糸に、手繰り寄せられているのだ。
(なぜ? いけない、淡いに戻ってしまう)
指で確認すると、後ろへ伸びていたはずの糸が、前方に向かい伸ばされているではないか。
糸の先を持つのは、庭の小石丸。いつの間にか方向を間違えてしまったのだろうか。
慌てて戻ろうとすると、見えぬ者に強く背を押された。
(道を間違えたの、戻ってしまうわ、通して)
目で問うことも、口で聞くことも出来ず、ヒノデは子供のように泣き出しそうになる。
その背を、『しっかりしろ』とでも言うように手が強く押す。
伸びた糸が意思を持つように、前方へとヒノデを導いていく。
(この子を助けて、この子を助けて)
出来ることも無く、ただ祈りながら進むと、またも足元の感触が変った。石だ。滑らかに加工された石。さらに糸に導かれるまま行くと、前方で空気の流れがあり、扉の開く音が聞こえた。
(真っ直ぐ、真っ直ぐ……)
ヒノデはそのまま進む。
どこかに出た。
多数の気配に迎えられたそこは、音が響く大きな広間のようだ。
(建物?)
カサコソ、バタバタ、あらゆる音が聞こえる。羽を擦る音、柔らかい足が歩き回る音、蹄の音……様々な生物の立てる音が、そこかしこに満ちている。多くの者がそこに集まっているようだ。
「シッュ」
突然、耳に息がかかった。
異形の指で肩を掴まれ、止められる。
前方から、何かが近づいてくる気配。
(この子を助けて、お願いです。夜の奥方、私たちは、あなたのイトムシです)
キイトを強く抱きしめ、祈るヒノデ。
そのヒノデの体を、何かが包んだ。
それは、ヒノデの心と体を探っているようだった。温かい波が体を包んでは、顔も体もさわさわと撫でていく。
(あたたかい……これは)
ヒノデは肌の感覚から、驚くほど滑らかな毛むくじゃらと判断した。
滑らかな毛むくじゃらが、ゆっくりとヒノデの両腕に滑り込むと、キイトを優しく奪った。
(お願いします、どうかどうか……)
唇を噛み、強く願うヒノデ。キイトの体が奪われたと同時に、殆ど麻痺していた両腕が、だらりとさがった。
もふり
棒のようになった両腕を、毛むくじゃらが労るように包んでくれる。さらに、キイトを奪われ、空いた胸へとそれはぶつかって来た。
毛むくじゃらがヒノデの心臓の音を調べて来る。
しゃくしゃくトくんトクン
自分の心臓の音が体に響き、ヒノデの耳にも届いた。
滑らかな毛むくじゃらが離れると、広間に満ちるざわつく気配と音が、ピタリと止んだ。
豊かな静寂が訪れた。
ふいに、ヒノデの心臓が躍り出す。
指が痺れ、不思議な幸福感に、ふさがれた目から涙があふれては、つらつらと落ちる。
(『夜』に見つめられている)
確かにそう感じた。
遥かな頭上から、月よりも静かで、太陽よりも激しい瞳で。ヒノデは『夜の奥方』に見つめられているのを感じた。
心臓から、大輪の花が咲いたように感じた。
湧き上がる称賛と祝福、畏怖と感謝、それら極まる感情を全て飲み込み、ただ、ふさがれた目から涙を流す。
夜が微笑み、瞼を閉じた。
水の香りが空気に満ち、荘厳な気配が遠のくと、辺りにざわつきが戻って来た。
(行ってしまわれた……)
ヒノデも知らず止めていた息を吐いた。
どのくらいの間、『夜』に見つめられていたのだろう。定かではないが、それは刹那にも永遠にも感じられた。
イトムシとしては弱い体の震えが止まらない。
ヒノデは自分を抱き締めるように、空の腕を体に巻き付けた。
「シュッ、シュッツ」
震えるヒノデに見えぬ者が近寄って来た。優しい吐息が何かを伝えようとしている。そして背を押された。
見えぬ者にふたたび背を押されるが、ヒノデの腕にキイトは戻ってはいない。
(キイトは?私の息子はどこ?)
ヒノデは動かなかった。
急かすように、耳元で異形の馬が嘶き、足元を細い者がすり抜ける。さらに、冷たい触覚が何度も頬を撫でてきた。
すべてが、ヒノデを淡いに帰らせようとする意思を伝えてくる。
(嫌よ。キイト、あの子なしでは帰らない)
ヒノデの胸に先程とは打って変わり、炎のような怒りが湧きあがった。
(キイトを返して!)
ヒノデが思わず口を開きかけた時、それを押さえ、別の唇が押し付けられた。
(……?)
知らないイトムシの、糸の味がした。
(誰? 私たち以外に、イトムシはいないはず……)
驚いていると、糸輪の糸を引かれた。
足が自然に前へと出る。一歩進むと、不思議と疑念は消え、後は無心に前へと進んでいく。
糸輪から伸びる糸が五本、ヒノデを引き。ヒノデはただ真っ直ぐに、前へと進み続けた。
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