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第三章 異 変 《Accident》

32 素直な厚意

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「ああいうのを、『夫婦漫才めおとまんざい』と言うんですね」
「……え?」

――夫婦めおと……漫才?

 リュウの唇から飛び出してきた意外すぎる単語に、優花はキョトンと目を丸める。

「コウとレーコの二人のことです」

 コウとは晃一郎、レーコとは玲子のことだろう。そういえば、優花のことも最初から「ゆーか」と、名前で呼んでいた。

「ゆーか」と呼ぶときだけ、若干、声のトーンに甘さが加味されている気がするが、おそらく優花の気のせいだろう。 

 アメリカと言うお国柄か、知己を得た人間を、ファースト・ネームで呼ぶのが彼の流儀らしい。

「夫婦漫才を知ってるんだね、リュウ君」
「ええ。大ファンです。日本の知人にDVDを送ってもらって、家族で良く見ました。楽しいですよねアレは。ただの喧嘩のように見えて、その奥に込められている愛憎模様が、なんとも言えず楽しいです」

「愛憎……」

 晃一郎と玲子の愛憎模様とやらを想像して、思わず優花は小さく吹き出した。

「やだ、リュウ君ってば、日本語上手すぎ」
「そうですか? ほめてもらえてウレシイです」

 意外だが楽しい話題に、自然と優花の気持ちもほぐれていく。そんな優花の表情の変化を捉えたのか、リュウは、ホッとしたように呟きを落とした。

「よかった」
「え?」

 リュウとの会話を楽しみながら、ほどほどに白熱するバレーの試合を目で追っていた優花は、その呟きの意味を掴みかねて、反射的に、すぐ隣、斜め上方にあるリュウの顔に視線を向けた。

 穏やかなディープ・ブルーの瞳には、安堵の色が見える。

「やっと笑ってくれたので、よかったと思って」

――心配してくれたの?
 それで、わざと明るくなれる楽しい話題をふってくれたんだ……。

「ありがとう」
「何がです?」
「ううん、なんでもないよ」

 優花の顔には自然と笑みが浮かんだ。

――優しい人なんだな。そう思った。

 リュウくんは、他人を労われる、優しい人。

 一ヶ月。
 短いか長いか良く分からない期間だけれど、きっと、リュウくんとは良い友達になれる――。

 優花は、そんな確かな予感を抱いた。

 優花がリュウとほのぼのとした親交を深めている間。コート上では、文句を言いつつもスポーツ万能選手の晃一郎は、目立った活躍を見せていた。

 相手コートに華麗なるジャンピング・サーブを決めた晃一郎の運動神経が、優花には少しばかり羨ましい。運動は嫌いではないが、決して得意とは言えなかった。

「ゆーか。聞いてもいいですか?」

 ひとしきり漫才談義に花を咲かせたリュウが、逡巡するような短い沈黙の後、静かに問いかけてきた。まっすぐ向けられる眼差しは柔らかいが、真剣そのものだ。心の奥底を見透かされそうな澄んだ瞳に見つめられて、優花はドギマギしてしまう。

――な、なんだろう?

 優花は、思わず背筋をピンと伸ばして居住いをただし、リュウに向き直った。

「私に答えられることなら、いいけど……」

 担任の鈴木先生から案内役を頼まれていると言う義務感からではなく、素直な厚意から、優花は自分の出来る限りリュウの役に立ちたいと、そう考えていた。


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