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幕間 常駐医・磯部薫の回想録
88 不動祐一郎との離婚と最後のキス
しおりを挟む正直言って、偽装結婚なんて馬鹿げた提案を、祐一郎が受けてくれるとは思っていなかった。でも、現実は小説よりも奇なり。祐一郎は、私の提案を受け入れ、二人はめでたく、夫婦と相成った。
とは言っても、役場で婚姻届を貰ってきてそれぞれ時間が空いているときに記入して、完成したものを私が役場に提出に行っただけだ。騙すようで気が引けたけれど、証人欄への記入は、後藤伯父さん夫婦にお願いした。
結婚式も披露宴もなし。対外的に『結婚してます感』を出したかったから、結婚指輪を作り親への報告用に、写真館でウエディングドレスとタキシード姿で結婚写真を撮っただけで、すべて完了。ザ・地味婚、ここに極まれりだ。
後は結婚生活の実態が全くないと周囲に怪しまれてしまうだろうから、私が週末だけ祐一郎のマンションに通う、週末婚の形態にした。
祐一郎は、『仕事で忙しいだろうから、別にわざわざ来なくてもいい』と言ったが、それでは私が困るのだ。
偽装結婚の期間は、結婚届からきっかり一年間。
でも、この期間に本当の夫婦になってしまえば状況は変わるはず。私は本気でそう考えていた。
だが、しかーし!
祐一郎は、私の予想を遙かに上回る恋愛音痴だった。
男なら、妙齢の女がセクシーなネグリジェで目の前をウロチョロしていたら、煩悩や本能が暴走したりするものじゃないの?
でもあの朴念仁は「そんなに薄着でいると風邪をひくぞ? 医者の不養生だな」などと、とぼけた親父ギャグを言ったりする。
素で鈍いのか、それともそう装っているのか。どちらにしても、私は悲しくなるくらい見事に女として認知されなかった。
まあ、一年間の間には、酒の勢いでなんとなくいい雰囲気になりかけたこともあったし、私の方から少し強引にアプローチをかけたこともあった。でも結局、祐一郎は私に手を出すことはなく、偽装結婚の契約期間は終了を迎えた。
その時の私の脱力感と無力感は、言葉には言い表せない。
離婚届を役場に提出してきたのは昼間に自由に動ける祐一郎だった。無事離婚届が受理されたことを報告に来てくれた祐一郎と「それじゃ、最後に二人で食事でも」という話になって、ホテルの最上階にある展望レストランに向かった。
食事が終われば、本当にそこで夫婦解消。もう、祐一郎のマンションに通うこともできない。
まだ、こんなに好きなのに。こんなに焦がれているのに。
私ではこの人の心の中には入ることができなかった。
どうしようもないやるせなさと切なさで、エレベーターに乗りこんだ瞬間、私の感情メーターが振り切れた。
少しでも二人きりでいられる時間を延ばそうと、最上階ではなく地下駐車場のボタンをさりげなく推して、私は祐一郎の正面からその顔をキッと睨み上げた。
「これで夫婦解消なんだから、キスぐらいさせなさいよ」
言いざま体をピッタリ寄せてその首に両腕を回せば、祐一郎は驚いたように目を丸めている。
驚け、朴念仁!
そのまま噛みつくように一気に唇を重ねた。わずかに空いた歯の隙間に舌をねじ込んで祐一郎の舌に絡めていく。身の内に走るのは、とてつもなく甘い衝動。
ためらいがちにキスに応じていた祐一郎の両腕が、背中と腰に回り、爪先立ちの私をしっかりと支えてくれる。
脳裏に、はじめて言葉を交わしたあの日の記憶が、鮮やかによみがえった。
高校二年の夏。貧血でもうろうとしている意識の下で感じた力強い腕。その腕が、今、私を抱いている。
最初で最後の、本気のキス。
それは、私が祐一郎から決別するために必要な儀式だった。
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