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1巻
1-2
え、どういうこと?
私の席に座る人物は、大広間の端にいたはずの、顔がとても好みな男だ。
いやそれは置いておいて、その男が本来座っていたはずの場所を見ると、なぜか綺麗に片付けられている。そして私の席に「最初から一緒に、ここにいましたよ」といった感じで男の皿や酒が移動していた。
なぜわざわざここに移ったのかわからないが、とにかく痴話喧嘩に巻き込まれるのは御免である。せっかくいい気分で呑んでいたのに台なしじゃないか。早くここから出て行こう。
残っていた人も私と同じ思いのようで、巻き込まれるのは勘弁とばかりに退散していく。
しかし私は一歩出遅れてしまい……男と、女と、私の三人だけが残った。
部屋の鍵をテーブルに置いたままだったから、こっそり取って自分の部屋に逃げようと心に決め、大広間に足を踏み入れる。鍵さえ取り戻せばもういい。部屋で本でも読みながら呑み直そうかと思ったその時、ふと聞き慣れた声に気付いた。
「だから! なんで急にいなくなったのって聞いてるのよ!」
この声は……
女はずっと男を責め続けていた。
「今日こそはって言ったじゃない! 折角、候補を集めたのに見もしないの? ああもう! 私には時間がないのよ。お願いだから、ねえ!」
「無理なものは無理だ」
「なんですって⁉」
一方的に女が責めているかのように見えたけれど、どうやらそうでもないらしい。男の声に誠意がまったく感じられないからだ。
女性のほうは、どことなく私が知っている人物に雰囲気が似て――
「あれ……もしかして、万理……さん?」
「……っ! あっ、えと、ええ? 綾ちゃん? どうしてここに⁉」
思ったことをそのまま口にしたら、それを聞いた女が弾かれたように顔を上げた。
声の主は、昨夜一緒に呑んでいた『てまり』の店主、万理さんだった。山奥のこの民宿にいるとは予想外だけれど、それは万理さんも同じな様子。
なぜか男のほうも唖然としていたが、万理さんと私を交互に見比べて一人なにか納得している。
「今日から旅行って、昨日万理さんに言ったじゃないですか」
「えー! 綾ちゃん、ここの民宿に来るつもりだったの?」
「前に話したことありませんでした? 私、いつもここに来てるんですよ」
きゃっきゃと話し始める私たちに、男がゴホンと咳払いをした。
あっ、そうだった。二人の話を邪魔してはいけない。
「それじゃ私はこれで――」
その場を離れようとしたところ、がしっと手首を掴まれた。やけに無骨な指だなと思いながらその先を辿ると、男が私の手首を握っている。
「望月さん、折角だから妹と一緒に呑まないか」
「えっ! 兄貴いったいどういうこと?」
手を掴まれたまま名前を呼ばれ、更に妹と一緒に、と言われて私は混乱した。
どなたですか、この方は。
状況から察するに、とりあえず男は万理さんの兄らしい。ということはこの二人は兄と妹――ということになるのかな。
それはかろうじて理解した。だけど、なぜ私の名前を知っている? 万理さんのお兄さんとは初対面なのに、突然一緒に呑もうと言われても警戒しかできない。
「万理、この人は俺と同じ会社の望月綾香さんだ」
「はっ?」
「えっ?」
目を丸くする私と万理さんを無視して、男は話し続ける。
「まだバスの時間あるだろう? 万理も折角だから一緒に呑もう。今夜はそれで勘弁してくれ」
朗らかな笑みを浮かべ、お兄さんは万理さんを誘う……私、込みで。
「一緒って、ちょっと――」
抗議の声を上げかけたけれど、万理さんは「いいの? やったあ!」と声を上げた。
「綾ちゃんがいるなら、私も呑もっかな。もちろん兄貴の奢りで!」
私は断りたい気持ちでいっぱいだった。しかし楽しそうに同席の準備を始めている万理さんを見たら、いまさら断りづらくなる。だから、少しだけなら……と観念して、しぶしぶ彼の隣に座る。それを見て、お兄さんはようやく私の手を離してくれた。
私の内心を知らない万理さんは、ニコニコとメニューを取り出して選んでいく。
「それにしても綾ちゃんてば兄貴と同じ会社だったのね、知らなかった~」
そう言って首を捻りながらも、呑むことと食べることが大好きな万理さんの意識は、すっかり宴会モードに切り替わっている。厨房にいる女将さんに注文を伝えるため席を立った。
「ま、万理さん、待って」
そんな彼女の様子は微笑ましいけれど、私はそれを黙って見送っている場合ではない。万理さんがこの場からいなくなると、二人きりになってしまうのだ。この、よく知らない男性と。
しかし万理さんには聞こえなかったようで、さっさと部屋を出て厨房に行ってしまった。
気まずいながらも、顔を上げて恐る恐る疑問を口にした。
「あの! どうして私の名前を」
「しーっ! 万理に聞かれるとマズい。……悪いけど、俺の話に合わせてくれないか」
猛然と抗議しようとしたら、私のほうに身を寄せ、こそこそと話してきた。
「話を合わせるって……。あの、あなたが万理さんのお兄さんというのはわかりましたが、いったいどういうことですか」
話がまったく見えない。
「俺は紅林――紅林哲也だ。同じ会社の支社に勤務していて、今度本社の研修会に参加する――」
「あっ! ……もしかして、主任の紅林さんですか」
彼のフルネームを聞き、ようやく私の記憶のページが開いた。
来週から開かれるリーダー研修会のために、紅林さんとは幾度となくメールや電話をしてきた。そうとわかると、確かにこの声には聞き覚えがある気がしてくる。
低めのバリトンボイスで艶があり、電話の度に耳がくすぐったくて。電話を取り次ぐ女性たちからもときめきの声が上がり、非常に人気が高かった。
二年前も研修会に参加していたらしいけど、私は綿貫先輩の代わりに社外へ出ることが多く、出席者の顔を見る機会がほとんどなくて覚えていないのだ。
ともあれ、二回連続で研修会に参加できる人はなかなかいない。とても優秀な人物にのみ、特例として認められていることだと聞いたことがある。つまり、紅林さんもそうなのだろう。
そんな紅林さんがどうしてこの場所にいるのか、そしてどうして私に話を合わせてほしいなんて言ってくるのか……訳がわからない。
「明後日からの研修よろしく。……ま、つまりその研修のために実家に戻ったら、万理が見合いしろって煩くてね」
「あぁ……」
万理さんが親から結婚を許してもらえない原因になっているあの兄か。
「だからここへ?」
「そう。逃げ出すなんて格好悪いけど」
ふ、と目尻を下げて笑う。
……そんなこと言って。めちゃめちゃ格好いい人が、こんな笑い方するなんてずるい。
それを見て私は、胸が甘く騒めくのを感じた。
「研修期間は忙しくて結婚の話なんて聞いていられない、って突っぱねてたんだけど、その前ならいいと思ったんだろうな。家に帰ってすぐ、見合い写真やら釣書を持ってくると言い出したから隙をついて家を出た」
「でも見つかってしまいましたね」
「おかしいな、まいたつもりだったんだが」
難しい顔をして首を捻る紅林さんだけど、あ、と気付いたように声を上げる。それから、ふたたび声を潜めた。
「そこで君に頼みたいのは、もともと俺と知人だということにしてほしいんだ」
意外な申し出に、私はなんと答えたらいいかわからない。知人だとして、どういう意味があるのだろうか。不審な顔をする私に、彼は更に顔を近付ける。
「そうだな……共通の友人を巻き込もう。――綿貫からこの宿を紹介され、お互い同時期に泊まったに過ぎない。だけどこの大広間で会って、知らぬ仲ではないから研修会の話をしながら一緒に呑んでいた、ということでどうだ」
突然、綿貫先輩の名前が出てきたことに驚きつつも、確かに私は先輩からこの宿を紹介されたので嘘ではないな、と考える。それに紅林さんとは、業務上だけどメールも電話もしたから、広い意味で知人……でもある。
「まあ……そのくらいならいいですけど」
いまさら無理だと言いづらく、知人程度ならと受け入れた。研修会の前に、変な揉めごとを起こしたくないという社会人としての意識も働いた結果だ。
「よかった、ありがとう」
紅林さんは心底ほっとした顔を見せる。その表情は、まるで身内に見せるように気を抜いたもので、一瞬見惚れてしまった。慌てて「ど、どういたしまして」と言い、焦りながら、腿に置いていた手をもじもじと動かす。
そこへ、「おまたせー」と言いながら、万理さんが戻ってきた。手には複数の酒瓶、そして腕に載せたトレイには、コップや氷が山盛りのアイスペールが置かれている。
「あと私たちだけだし、適当にしていいっていうから借りてきちゃった。あ、この古漬けはサービスだって! ささ、呑も呑も!」
女将さんと色々話を付けたらしく、万理さんはてきぱきと場を整えていく。
タンタンと囲炉裏テーブルに酒瓶などを並べ、反す手で空いた皿をトレイに載せる。そしてそれらをまた厨房に運び、戻る時には今度はスパークリングワインを持ってきた。
「これ最初に呑もうよ。兄貴、支払いよろしくね!」
「お前……まあいい、好きにしろ」
二人の気安い口調に、なぜか私の頬は緩んだ。なんか、いいな。私は一人っ子だから、兄妹のこういう関係に少し憧れていた。
「さ、それでは改めて! 乾杯!」
注がれたワインをそれぞれ手に持ち、万理さんの音頭で乾杯する。
それからは、あっという間だった。瞬く間にワインの瓶が空き、一升瓶が空く。
三人とも酒に強く、最近の仕事についてや万理さんののろけ話で会話が弾んだ。
しかし、二本目の一升瓶の栓を開けたところで、万理さんが「あっ!」と言い立ち上がる。
「バス……」
その一言に、私も紅林さんも同時に壁掛け時計に視線をやる。時刻はバスの最終便をとうに過ぎていた。
あまりにも楽しくて、時間を忘れてしまったのだ。
「ごめんなさい万理さん。気付かなくて……」
「すっかり忘れてた……でもまあいっか。兄貴、泊めてくれるでしょ?」
「……わかった」
しぶしぶといった様子だけど、彼は泊まることを了承した。万理さんは兄と一緒だからと親と彼氏に電話し、紅林さんも電話を代わって説明する。嫁入り前なので、心配をかけないためだろう。優しい兄の心遣いを見て、私は密かに感動していた。
「じゃ、これで心置きなく呑めるね!」
そんな兄の気持ちなど露知らずといった様子で、万理さんはニコニコと新しい酒瓶を持ってきた。
「呆れたやつだな」
と言いつつも、コップを差し出す紅林さん。私もまだこの時間が続くことをうれしく思い、同じくコップを差し出した。
そして――
二本目の一升瓶を空けたところで、万理さんの目が据わりだした。かなり酔いが回っているらしい。
「だから~……兄貴は、さっさとぉ、結婚しろ~!」
「はいはい」
「ハイハイじゃなーい! あたしは~、二十代のうちに、結婚したいわけよ! 博さんてば転勤になるって言うじゃない? あたしは結婚して付いていきたいの!」
「はいはい」
「もー、すぐそうやって流そうとする~! あたしはぁ~時間がなくなったのー! 兄貴、誰かいないの~? せめて付き合っている人とかさ~、いい感じの人とかぁ……ね~」
囲炉裏テーブルに突っ伏しながら、万理さんはぼやき始めた。博さん、とは万理さんが十二年付き合っている彼氏で、フルネームは杉山博という。
そろそろ引き上げ時かな。時計を見ると、二十二時を回ったところだ。
――夕食は早めの十七時からだから、えーと……五時間ほど、ずーっと呑み続けていたってことよね。我ながら、よく呑んだと思うわ。
普段はふわふわと気持ちいい程度だけど、さすがに私も酔いを自覚し、眠くなってきた。
紅林さんもお酒は強いようだけど、あくびしている。
「さあ、そろそろ部屋に行こう」
空の酒瓶をつついていた万理さんは、紅林さんの声を聞いた途端、がばっと身を起こす。
「そうだ!」
突然大きな声を上げた万理さんは、なにか思いついたらしく、そうだ、そうだ、と何遍も繰り返しながら、にんまりと口角を上げる。
そして、私と紅林さんを交互に見比べ、うんうんと頷いた。
「兄貴と綾ちゃん。今日から婚約者ね~。きーまりっ!」
「えっ」
「待て、どういうことだ」
万理さんは、それがいい~! と膝を叩く。
「だ~からさ~、兄貴と綾ちゃんが婚約者ってことになれば~、あたしね~、あたし~……、結婚できると思うの~」
「ちょっと、万理さん? 婚約者って……あの……」
「二人が知人だーってことはさー。だからね~、いーこと思いついちゃったの~」
万理さんは、ぺちぺちとやる気のない拍手をしながら、ケラケラと笑い出した。
「博さん、転勤になるって。……これ本当のことだし……アハハ」
「いつだっけ、その転勤まで」
「うん……三ヶ月後にね。あたしは彼に付いていきたいんだけど……兄貴の結婚を待ってたら~、あたしは三十歳になっちゃう。それどころかさー、このままできない可能性だってあるよね……でも、あたしは彼と結婚したい……せめて、せめて三十歳までには、籍を入れたいの! だ・か・ら! 兄貴に婚約者よ!」
ちょっと静かに聞いてて、と釘を刺されたので、私も紅林さんも黙って次の言葉を待った。
「二人を婚約者ってことにしておけば、うちの親は渋るだろうけどあたしの結婚を許してくれると思うの。長く延ばしてきた負い目があるだけにね。――兄貴も」
万理さんは紅林さんに対して、自分のためにいい加減な結婚をして欲しくないと思いつつ、だけど早く相手を見つけて欲しいと願っていた。私はその気持ちを知っているだけに、胸の痛む話だ。
はぁ、と深い溜息をつきつつ、次の言葉を万理さんは口にする。
「こんなこと頼むの、申し訳ないと思うけれど……綾ちゃん、うちの馬鹿兄貴と婚約して!」
「ちょ、ちょっと! こ、こん……婚約⁉」
「あ、ちょっと違うわ。ええと、婚約者のふりをして! お願い!」
婚約者のふり?
唐突な申し出に、まるで意識がついていかない。なぜ私が紅林さんと婚約者のふりをしなければならないのか……
混乱する私の隣で、紅林さんは腕を組んで難しい顔をしながら要点をまとめた。
「つまり俺は、つい最近付き合い始め、結婚を約束した婚約者がいる。いずれ結婚するつもりだが、仕事の都合もありいますぐにというわけにはいかない。けれど、万理の年齢もあるし、俺に決まった相手もできたことだし先に結婚させてやってくれ……と、口添えしろということだな」
「さっすが兄貴! 話が早いわ! ねえ綾ちゃんお願い、しばらくの間……ううん、あたしが籍を入れるまで婚約者のふりをして! 彼の転勤先での任期は五年……しかも遠距離って、つまりもう付いていくか別れるかになると思わない? あたし、彼の転勤にどうしても付いていきたいの。こう言っちゃなんだけど、兄貴ってばそれなりにスペックは高いと思う。おんなじ会社ならわかるかな? 主任クラスから、お給料がドーンと増えていくのよね~。それに優しいしー、嫁姑問題もないと思う。あたし調べでは、それなりにモテてたはずなんだけど、この年まで結婚に至らなかった兄を、どうせならもらってちょーだい、綾ちゃん!」
立て板に水、といったようにズラズラズラっと勢いよく言われ、思わずのけぞった。
「なっ! なにを‼」
「おっと、あたしの希望を言っちゃった。ええと、ふりね、婚約者の、ふり! ほんのちょっとの間だから! ね、お願い!」
「万理……俺が研修でここにいるのは二週間だぞ」
「あっ、そうか。じゃあ、あたしのほうを二週間でなんとかするから! お願い!」
二週間でなんとかなるものなの? いままでずーっと兄のために結婚の許可を出さなかったご両親が、そんな短期間で首を縦に振るとは思えないんだけど……
助けを求めるように紅林さんへ顔を向けると、心底弱り切った表情で頭のうしろをガリガリ掻いている。
「俺は待たせて悪いと思っているし……頭ごなしに拒否しづらいな」
紅林さんは、高校時代からずっと妹が一人の男性と付き合ってきたのを知っている。結婚の話も出ているのに、自分のせいで結婚を随分待たせてきた自覚もある。それを心苦しく思う気持ちはあるけれど、かといって適当な相手と結婚することはできない。だから――賛成はできないけど、反対もできない、といったところだ。
「私は……」
正直な気持ちを言えば、断りたい。しかし、普段から世話になっている万理さんだ。一人暮らしの私の体調を気遣って、栄養満点な惣菜を持ち帰らせてくれたり、こちらでの生活や仕事の愚痴を聞いてくれたりと親身になってくれた。
断りづらい……というか、ほんの二週間だけなら、恩返しのつもりで受けてもいいかな、と思い始めた。なにより、杉山さんに転勤の辞令が下りてしまったいま、時間がない。
紅林さんとは、社内で連絡を取り合う仲で、まったく知らない人ではない。なにより万理さんのお兄さんで、今日初対面にもかかわらず、とても楽しくお酒が呑めた。
ほんの二週間だけなら……大丈夫よね?
「……わかりました」
決意を胸に、万理さんに伝える。
「たいしてお役に立てないかもしれないけど、よろしくお願いします」
すると、万理さんは突然涙をぼろぼろっと零した。
「あー! 綾ちゃん~! うれしい、うれしい~!」
「ちょ、ま、万理さんっ」
「兄貴の婚約者ぁぁ~」
「ふりですから! あくまで‼」
「うわぁ~~ん!」
それまでの苦労が蘇ったのか、万理さんは泣きじゃくりながら私に抱き付いてきた。私より一つ年上で、普段はキリッとしていて姉御肌だけど、かなり溜め込んでいたのだろう。子供のように感情を露わにしている。
私もぎゅっと抱き返し、万理さんの結婚がうまくいくように願った。
大広間の片付けはそのままでいい、とは言われていたけれど、囲炉裏テーブルの上は綺麗に片付け、食器などはすべて調理場に下げておいた。
そうして私と紅林さんは、酔いつぶれた万理さんを間に挟み、よたよたと紅林さんの部屋を目指す。万理さんを早く布団に寝かせてあげたい。
幸いにも彼の部屋は大広間から一番近い離れの間だったので、すぐに到着した。
「万理、着いたぞ」
「ん~?」
ぼやんとした顔で、それでも頬は緩んだまま万里さんは返事をした。紅林さんは、浴衣の袂から部屋の鍵を取り出す。すると、それを万理さんが手を伸ばして奪う。
「あたしが~あけちゃうよ~」
万理さんは私たちから体を離すと、部屋の鍵を開け、引き戸の中に体を滑り込ませた。万理さんに続いて紅林さんも入ろうとしたところ――鼻先で戸が閉まり、ガチャッと音がした。
「えっ」と、私と紅林さんは顔を見合わせる。
万理さんは、酔っているように見えてそこそこ意識がしっかりしてるのかなと思っていた。だから私は彼女の行動をただ見守っていたのだけれど、いまの遮断された音は……。わかったけど、わかりたくない事態に気付く。
「お、おい、万理! 万理、これはなんの真似だ!」
紅林さんが、戸を開けようと試みるが、ビクともしない。
すると内側からあくび混じりの声が聞こえた。
「兄貴~、あたしは~自分の部屋で寝るね~……」
「待て、違うぞ、ここは俺の部屋だ! おい万理‼」
「おやすみ~」
と声が聞こえたのを最後に、もう部屋の中から返事がない。
あれだけ酔っ払っていたので、あっという間に夢の中へ旅立ったに違いない。
「万理!」
それでもなんとか開けさせようと紅林さんは戸に手をかけるが、私はそれを止めた。
「紅林さん、もう遅い時間なので他のお客さんの迷惑になりますよ」
「いや、しかし……」
困るのには理由がある。まず第一に、紅林さんはこの部屋に荷物があるということ。財布だけは持っていたものの、着替えなど入れたバッグをすべて置いている。そして二つ目に、この民宿が今日は満室だということ……新たにもう一室借りて泊まることはできないのだ。
事情を話せば、この部屋の予備の鍵を使って開けてくれるかもしれないけれど、私たちが大広間にいた時から、女将さんは奥の部屋に引っ込んでいた。
こんな酔っ払いの失態に付き合わせるのは気が引ける。
かといって、アルコールが入っているので車の運転はできないし、タクシーや代行は、ここはかなりの山奥な上に、今日は週末だから「みんな出払っている」など適当な理由をつけて体よくお断りされるだろう。
二人でああでもないこうでもないと話してみたけれど、解決の糸口は掴めない。
「万理さんが自発的に起きてくるのを待つしかないですね……」
「そうだな」
紅林さんは、はぁ、と眉間を押さえながら溜息を一つ零す。それから、くるりとうしろに身をひるがえし、歩き出した。
「えっ、あの、紅林さんどちらへ」
慌てて声をかけると、いったん立ち止まって首だけ振り向く。
「仕方がないので、大広間の片隅にいさせてもらおうかと」
あの大広間ならいることは可能だけれど、囲炉裏テーブルだから寝るのにはまったく適さない。徹夜するにしても、秋とはいえ山奥はとても冷え込むのだ。つい心配になって引き留める。
「もし……あの、もしよろしかったら私の部屋にいらっしゃいませんか」
「ん?」
「ええと、その、私の部屋なら暖房器具がありますし、お布団も一応二組……」
見ず知らずの男性――ではないが、自分一人だけが泊まる部屋に誘うのはどうかと思う。ただ、このまま知らないふりもできない。
そう申し出ると、彼は最初、いや、でも、と遠慮していた。けれど、私が更に強く誘うと、ようやく首を縦に振った。
「じゃあ……すまない、お邪魔させてもらうよ」
私が先導し、飛び石が程よく配置された渡り廊下を歩いていく。あたりはとっぷりと闇に包まれていて、足元の電燈が温かく道を照らしている。
一番奥の部屋に着き、鍵を開けて部屋に入ると、畳の匂いが体を包んだ。
「適当に座っていてください。――あ、もう少し呑みますか?」
備え付けの冷蔵庫に、持ち込んだお酒がある。食事が終わったら部屋に戻って、本を読みながら呑もうと思っていたのだ。
まさか大広間であれほど呑むとは思ってもみなかったので、持ち込んだお酒はそっくりそのまま残っている。
「そうだな、ちょっと呑み直したい」
「はーい、じゃあちょっとお待ちくださいね」
棚の上には小さめのコップが二つ、お盆に伏せて置かれている。冷蔵庫から缶ビールを一缶取り出し、いったんひっこめた手をもう一度冷蔵庫に入れて、もう一缶お盆に載せた。だって紅林さんと一緒なら、一缶なんて瞬殺だろうから。
なんで部屋に入るなり呑もうと誘ったかというと――間が持ちそうにないから。
私の席に座る人物は、大広間の端にいたはずの、顔がとても好みな男だ。
いやそれは置いておいて、その男が本来座っていたはずの場所を見ると、なぜか綺麗に片付けられている。そして私の席に「最初から一緒に、ここにいましたよ」といった感じで男の皿や酒が移動していた。
なぜわざわざここに移ったのかわからないが、とにかく痴話喧嘩に巻き込まれるのは御免である。せっかくいい気分で呑んでいたのに台なしじゃないか。早くここから出て行こう。
残っていた人も私と同じ思いのようで、巻き込まれるのは勘弁とばかりに退散していく。
しかし私は一歩出遅れてしまい……男と、女と、私の三人だけが残った。
部屋の鍵をテーブルに置いたままだったから、こっそり取って自分の部屋に逃げようと心に決め、大広間に足を踏み入れる。鍵さえ取り戻せばもういい。部屋で本でも読みながら呑み直そうかと思ったその時、ふと聞き慣れた声に気付いた。
「だから! なんで急にいなくなったのって聞いてるのよ!」
この声は……
女はずっと男を責め続けていた。
「今日こそはって言ったじゃない! 折角、候補を集めたのに見もしないの? ああもう! 私には時間がないのよ。お願いだから、ねえ!」
「無理なものは無理だ」
「なんですって⁉」
一方的に女が責めているかのように見えたけれど、どうやらそうでもないらしい。男の声に誠意がまったく感じられないからだ。
女性のほうは、どことなく私が知っている人物に雰囲気が似て――
「あれ……もしかして、万理……さん?」
「……っ! あっ、えと、ええ? 綾ちゃん? どうしてここに⁉」
思ったことをそのまま口にしたら、それを聞いた女が弾かれたように顔を上げた。
声の主は、昨夜一緒に呑んでいた『てまり』の店主、万理さんだった。山奥のこの民宿にいるとは予想外だけれど、それは万理さんも同じな様子。
なぜか男のほうも唖然としていたが、万理さんと私を交互に見比べて一人なにか納得している。
「今日から旅行って、昨日万理さんに言ったじゃないですか」
「えー! 綾ちゃん、ここの民宿に来るつもりだったの?」
「前に話したことありませんでした? 私、いつもここに来てるんですよ」
きゃっきゃと話し始める私たちに、男がゴホンと咳払いをした。
あっ、そうだった。二人の話を邪魔してはいけない。
「それじゃ私はこれで――」
その場を離れようとしたところ、がしっと手首を掴まれた。やけに無骨な指だなと思いながらその先を辿ると、男が私の手首を握っている。
「望月さん、折角だから妹と一緒に呑まないか」
「えっ! 兄貴いったいどういうこと?」
手を掴まれたまま名前を呼ばれ、更に妹と一緒に、と言われて私は混乱した。
どなたですか、この方は。
状況から察するに、とりあえず男は万理さんの兄らしい。ということはこの二人は兄と妹――ということになるのかな。
それはかろうじて理解した。だけど、なぜ私の名前を知っている? 万理さんのお兄さんとは初対面なのに、突然一緒に呑もうと言われても警戒しかできない。
「万理、この人は俺と同じ会社の望月綾香さんだ」
「はっ?」
「えっ?」
目を丸くする私と万理さんを無視して、男は話し続ける。
「まだバスの時間あるだろう? 万理も折角だから一緒に呑もう。今夜はそれで勘弁してくれ」
朗らかな笑みを浮かべ、お兄さんは万理さんを誘う……私、込みで。
「一緒って、ちょっと――」
抗議の声を上げかけたけれど、万理さんは「いいの? やったあ!」と声を上げた。
「綾ちゃんがいるなら、私も呑もっかな。もちろん兄貴の奢りで!」
私は断りたい気持ちでいっぱいだった。しかし楽しそうに同席の準備を始めている万理さんを見たら、いまさら断りづらくなる。だから、少しだけなら……と観念して、しぶしぶ彼の隣に座る。それを見て、お兄さんはようやく私の手を離してくれた。
私の内心を知らない万理さんは、ニコニコとメニューを取り出して選んでいく。
「それにしても綾ちゃんてば兄貴と同じ会社だったのね、知らなかった~」
そう言って首を捻りながらも、呑むことと食べることが大好きな万理さんの意識は、すっかり宴会モードに切り替わっている。厨房にいる女将さんに注文を伝えるため席を立った。
「ま、万理さん、待って」
そんな彼女の様子は微笑ましいけれど、私はそれを黙って見送っている場合ではない。万理さんがこの場からいなくなると、二人きりになってしまうのだ。この、よく知らない男性と。
しかし万理さんには聞こえなかったようで、さっさと部屋を出て厨房に行ってしまった。
気まずいながらも、顔を上げて恐る恐る疑問を口にした。
「あの! どうして私の名前を」
「しーっ! 万理に聞かれるとマズい。……悪いけど、俺の話に合わせてくれないか」
猛然と抗議しようとしたら、私のほうに身を寄せ、こそこそと話してきた。
「話を合わせるって……。あの、あなたが万理さんのお兄さんというのはわかりましたが、いったいどういうことですか」
話がまったく見えない。
「俺は紅林――紅林哲也だ。同じ会社の支社に勤務していて、今度本社の研修会に参加する――」
「あっ! ……もしかして、主任の紅林さんですか」
彼のフルネームを聞き、ようやく私の記憶のページが開いた。
来週から開かれるリーダー研修会のために、紅林さんとは幾度となくメールや電話をしてきた。そうとわかると、確かにこの声には聞き覚えがある気がしてくる。
低めのバリトンボイスで艶があり、電話の度に耳がくすぐったくて。電話を取り次ぐ女性たちからもときめきの声が上がり、非常に人気が高かった。
二年前も研修会に参加していたらしいけど、私は綿貫先輩の代わりに社外へ出ることが多く、出席者の顔を見る機会がほとんどなくて覚えていないのだ。
ともあれ、二回連続で研修会に参加できる人はなかなかいない。とても優秀な人物にのみ、特例として認められていることだと聞いたことがある。つまり、紅林さんもそうなのだろう。
そんな紅林さんがどうしてこの場所にいるのか、そしてどうして私に話を合わせてほしいなんて言ってくるのか……訳がわからない。
「明後日からの研修よろしく。……ま、つまりその研修のために実家に戻ったら、万理が見合いしろって煩くてね」
「あぁ……」
万理さんが親から結婚を許してもらえない原因になっているあの兄か。
「だからここへ?」
「そう。逃げ出すなんて格好悪いけど」
ふ、と目尻を下げて笑う。
……そんなこと言って。めちゃめちゃ格好いい人が、こんな笑い方するなんてずるい。
それを見て私は、胸が甘く騒めくのを感じた。
「研修期間は忙しくて結婚の話なんて聞いていられない、って突っぱねてたんだけど、その前ならいいと思ったんだろうな。家に帰ってすぐ、見合い写真やら釣書を持ってくると言い出したから隙をついて家を出た」
「でも見つかってしまいましたね」
「おかしいな、まいたつもりだったんだが」
難しい顔をして首を捻る紅林さんだけど、あ、と気付いたように声を上げる。それから、ふたたび声を潜めた。
「そこで君に頼みたいのは、もともと俺と知人だということにしてほしいんだ」
意外な申し出に、私はなんと答えたらいいかわからない。知人だとして、どういう意味があるのだろうか。不審な顔をする私に、彼は更に顔を近付ける。
「そうだな……共通の友人を巻き込もう。――綿貫からこの宿を紹介され、お互い同時期に泊まったに過ぎない。だけどこの大広間で会って、知らぬ仲ではないから研修会の話をしながら一緒に呑んでいた、ということでどうだ」
突然、綿貫先輩の名前が出てきたことに驚きつつも、確かに私は先輩からこの宿を紹介されたので嘘ではないな、と考える。それに紅林さんとは、業務上だけどメールも電話もしたから、広い意味で知人……でもある。
「まあ……そのくらいならいいですけど」
いまさら無理だと言いづらく、知人程度ならと受け入れた。研修会の前に、変な揉めごとを起こしたくないという社会人としての意識も働いた結果だ。
「よかった、ありがとう」
紅林さんは心底ほっとした顔を見せる。その表情は、まるで身内に見せるように気を抜いたもので、一瞬見惚れてしまった。慌てて「ど、どういたしまして」と言い、焦りながら、腿に置いていた手をもじもじと動かす。
そこへ、「おまたせー」と言いながら、万理さんが戻ってきた。手には複数の酒瓶、そして腕に載せたトレイには、コップや氷が山盛りのアイスペールが置かれている。
「あと私たちだけだし、適当にしていいっていうから借りてきちゃった。あ、この古漬けはサービスだって! ささ、呑も呑も!」
女将さんと色々話を付けたらしく、万理さんはてきぱきと場を整えていく。
タンタンと囲炉裏テーブルに酒瓶などを並べ、反す手で空いた皿をトレイに載せる。そしてそれらをまた厨房に運び、戻る時には今度はスパークリングワインを持ってきた。
「これ最初に呑もうよ。兄貴、支払いよろしくね!」
「お前……まあいい、好きにしろ」
二人の気安い口調に、なぜか私の頬は緩んだ。なんか、いいな。私は一人っ子だから、兄妹のこういう関係に少し憧れていた。
「さ、それでは改めて! 乾杯!」
注がれたワインをそれぞれ手に持ち、万理さんの音頭で乾杯する。
それからは、あっという間だった。瞬く間にワインの瓶が空き、一升瓶が空く。
三人とも酒に強く、最近の仕事についてや万理さんののろけ話で会話が弾んだ。
しかし、二本目の一升瓶の栓を開けたところで、万理さんが「あっ!」と言い立ち上がる。
「バス……」
その一言に、私も紅林さんも同時に壁掛け時計に視線をやる。時刻はバスの最終便をとうに過ぎていた。
あまりにも楽しくて、時間を忘れてしまったのだ。
「ごめんなさい万理さん。気付かなくて……」
「すっかり忘れてた……でもまあいっか。兄貴、泊めてくれるでしょ?」
「……わかった」
しぶしぶといった様子だけど、彼は泊まることを了承した。万理さんは兄と一緒だからと親と彼氏に電話し、紅林さんも電話を代わって説明する。嫁入り前なので、心配をかけないためだろう。優しい兄の心遣いを見て、私は密かに感動していた。
「じゃ、これで心置きなく呑めるね!」
そんな兄の気持ちなど露知らずといった様子で、万理さんはニコニコと新しい酒瓶を持ってきた。
「呆れたやつだな」
と言いつつも、コップを差し出す紅林さん。私もまだこの時間が続くことをうれしく思い、同じくコップを差し出した。
そして――
二本目の一升瓶を空けたところで、万理さんの目が据わりだした。かなり酔いが回っているらしい。
「だから~……兄貴は、さっさとぉ、結婚しろ~!」
「はいはい」
「ハイハイじゃなーい! あたしは~、二十代のうちに、結婚したいわけよ! 博さんてば転勤になるって言うじゃない? あたしは結婚して付いていきたいの!」
「はいはい」
「もー、すぐそうやって流そうとする~! あたしはぁ~時間がなくなったのー! 兄貴、誰かいないの~? せめて付き合っている人とかさ~、いい感じの人とかぁ……ね~」
囲炉裏テーブルに突っ伏しながら、万理さんはぼやき始めた。博さん、とは万理さんが十二年付き合っている彼氏で、フルネームは杉山博という。
そろそろ引き上げ時かな。時計を見ると、二十二時を回ったところだ。
――夕食は早めの十七時からだから、えーと……五時間ほど、ずーっと呑み続けていたってことよね。我ながら、よく呑んだと思うわ。
普段はふわふわと気持ちいい程度だけど、さすがに私も酔いを自覚し、眠くなってきた。
紅林さんもお酒は強いようだけど、あくびしている。
「さあ、そろそろ部屋に行こう」
空の酒瓶をつついていた万理さんは、紅林さんの声を聞いた途端、がばっと身を起こす。
「そうだ!」
突然大きな声を上げた万理さんは、なにか思いついたらしく、そうだ、そうだ、と何遍も繰り返しながら、にんまりと口角を上げる。
そして、私と紅林さんを交互に見比べ、うんうんと頷いた。
「兄貴と綾ちゃん。今日から婚約者ね~。きーまりっ!」
「えっ」
「待て、どういうことだ」
万理さんは、それがいい~! と膝を叩く。
「だ~からさ~、兄貴と綾ちゃんが婚約者ってことになれば~、あたしね~、あたし~……、結婚できると思うの~」
「ちょっと、万理さん? 婚約者って……あの……」
「二人が知人だーってことはさー。だからね~、いーこと思いついちゃったの~」
万理さんは、ぺちぺちとやる気のない拍手をしながら、ケラケラと笑い出した。
「博さん、転勤になるって。……これ本当のことだし……アハハ」
「いつだっけ、その転勤まで」
「うん……三ヶ月後にね。あたしは彼に付いていきたいんだけど……兄貴の結婚を待ってたら~、あたしは三十歳になっちゃう。それどころかさー、このままできない可能性だってあるよね……でも、あたしは彼と結婚したい……せめて、せめて三十歳までには、籍を入れたいの! だ・か・ら! 兄貴に婚約者よ!」
ちょっと静かに聞いてて、と釘を刺されたので、私も紅林さんも黙って次の言葉を待った。
「二人を婚約者ってことにしておけば、うちの親は渋るだろうけどあたしの結婚を許してくれると思うの。長く延ばしてきた負い目があるだけにね。――兄貴も」
万理さんは紅林さんに対して、自分のためにいい加減な結婚をして欲しくないと思いつつ、だけど早く相手を見つけて欲しいと願っていた。私はその気持ちを知っているだけに、胸の痛む話だ。
はぁ、と深い溜息をつきつつ、次の言葉を万理さんは口にする。
「こんなこと頼むの、申し訳ないと思うけれど……綾ちゃん、うちの馬鹿兄貴と婚約して!」
「ちょ、ちょっと! こ、こん……婚約⁉」
「あ、ちょっと違うわ。ええと、婚約者のふりをして! お願い!」
婚約者のふり?
唐突な申し出に、まるで意識がついていかない。なぜ私が紅林さんと婚約者のふりをしなければならないのか……
混乱する私の隣で、紅林さんは腕を組んで難しい顔をしながら要点をまとめた。
「つまり俺は、つい最近付き合い始め、結婚を約束した婚約者がいる。いずれ結婚するつもりだが、仕事の都合もありいますぐにというわけにはいかない。けれど、万理の年齢もあるし、俺に決まった相手もできたことだし先に結婚させてやってくれ……と、口添えしろということだな」
「さっすが兄貴! 話が早いわ! ねえ綾ちゃんお願い、しばらくの間……ううん、あたしが籍を入れるまで婚約者のふりをして! 彼の転勤先での任期は五年……しかも遠距離って、つまりもう付いていくか別れるかになると思わない? あたし、彼の転勤にどうしても付いていきたいの。こう言っちゃなんだけど、兄貴ってばそれなりにスペックは高いと思う。おんなじ会社ならわかるかな? 主任クラスから、お給料がドーンと増えていくのよね~。それに優しいしー、嫁姑問題もないと思う。あたし調べでは、それなりにモテてたはずなんだけど、この年まで結婚に至らなかった兄を、どうせならもらってちょーだい、綾ちゃん!」
立て板に水、といったようにズラズラズラっと勢いよく言われ、思わずのけぞった。
「なっ! なにを‼」
「おっと、あたしの希望を言っちゃった。ええと、ふりね、婚約者の、ふり! ほんのちょっとの間だから! ね、お願い!」
「万理……俺が研修でここにいるのは二週間だぞ」
「あっ、そうか。じゃあ、あたしのほうを二週間でなんとかするから! お願い!」
二週間でなんとかなるものなの? いままでずーっと兄のために結婚の許可を出さなかったご両親が、そんな短期間で首を縦に振るとは思えないんだけど……
助けを求めるように紅林さんへ顔を向けると、心底弱り切った表情で頭のうしろをガリガリ掻いている。
「俺は待たせて悪いと思っているし……頭ごなしに拒否しづらいな」
紅林さんは、高校時代からずっと妹が一人の男性と付き合ってきたのを知っている。結婚の話も出ているのに、自分のせいで結婚を随分待たせてきた自覚もある。それを心苦しく思う気持ちはあるけれど、かといって適当な相手と結婚することはできない。だから――賛成はできないけど、反対もできない、といったところだ。
「私は……」
正直な気持ちを言えば、断りたい。しかし、普段から世話になっている万理さんだ。一人暮らしの私の体調を気遣って、栄養満点な惣菜を持ち帰らせてくれたり、こちらでの生活や仕事の愚痴を聞いてくれたりと親身になってくれた。
断りづらい……というか、ほんの二週間だけなら、恩返しのつもりで受けてもいいかな、と思い始めた。なにより、杉山さんに転勤の辞令が下りてしまったいま、時間がない。
紅林さんとは、社内で連絡を取り合う仲で、まったく知らない人ではない。なにより万理さんのお兄さんで、今日初対面にもかかわらず、とても楽しくお酒が呑めた。
ほんの二週間だけなら……大丈夫よね?
「……わかりました」
決意を胸に、万理さんに伝える。
「たいしてお役に立てないかもしれないけど、よろしくお願いします」
すると、万理さんは突然涙をぼろぼろっと零した。
「あー! 綾ちゃん~! うれしい、うれしい~!」
「ちょ、ま、万理さんっ」
「兄貴の婚約者ぁぁ~」
「ふりですから! あくまで‼」
「うわぁ~~ん!」
それまでの苦労が蘇ったのか、万理さんは泣きじゃくりながら私に抱き付いてきた。私より一つ年上で、普段はキリッとしていて姉御肌だけど、かなり溜め込んでいたのだろう。子供のように感情を露わにしている。
私もぎゅっと抱き返し、万理さんの結婚がうまくいくように願った。
大広間の片付けはそのままでいい、とは言われていたけれど、囲炉裏テーブルの上は綺麗に片付け、食器などはすべて調理場に下げておいた。
そうして私と紅林さんは、酔いつぶれた万理さんを間に挟み、よたよたと紅林さんの部屋を目指す。万理さんを早く布団に寝かせてあげたい。
幸いにも彼の部屋は大広間から一番近い離れの間だったので、すぐに到着した。
「万理、着いたぞ」
「ん~?」
ぼやんとした顔で、それでも頬は緩んだまま万里さんは返事をした。紅林さんは、浴衣の袂から部屋の鍵を取り出す。すると、それを万理さんが手を伸ばして奪う。
「あたしが~あけちゃうよ~」
万理さんは私たちから体を離すと、部屋の鍵を開け、引き戸の中に体を滑り込ませた。万理さんに続いて紅林さんも入ろうとしたところ――鼻先で戸が閉まり、ガチャッと音がした。
「えっ」と、私と紅林さんは顔を見合わせる。
万理さんは、酔っているように見えてそこそこ意識がしっかりしてるのかなと思っていた。だから私は彼女の行動をただ見守っていたのだけれど、いまの遮断された音は……。わかったけど、わかりたくない事態に気付く。
「お、おい、万理! 万理、これはなんの真似だ!」
紅林さんが、戸を開けようと試みるが、ビクともしない。
すると内側からあくび混じりの声が聞こえた。
「兄貴~、あたしは~自分の部屋で寝るね~……」
「待て、違うぞ、ここは俺の部屋だ! おい万理‼」
「おやすみ~」
と声が聞こえたのを最後に、もう部屋の中から返事がない。
あれだけ酔っ払っていたので、あっという間に夢の中へ旅立ったに違いない。
「万理!」
それでもなんとか開けさせようと紅林さんは戸に手をかけるが、私はそれを止めた。
「紅林さん、もう遅い時間なので他のお客さんの迷惑になりますよ」
「いや、しかし……」
困るのには理由がある。まず第一に、紅林さんはこの部屋に荷物があるということ。財布だけは持っていたものの、着替えなど入れたバッグをすべて置いている。そして二つ目に、この民宿が今日は満室だということ……新たにもう一室借りて泊まることはできないのだ。
事情を話せば、この部屋の予備の鍵を使って開けてくれるかもしれないけれど、私たちが大広間にいた時から、女将さんは奥の部屋に引っ込んでいた。
こんな酔っ払いの失態に付き合わせるのは気が引ける。
かといって、アルコールが入っているので車の運転はできないし、タクシーや代行は、ここはかなりの山奥な上に、今日は週末だから「みんな出払っている」など適当な理由をつけて体よくお断りされるだろう。
二人でああでもないこうでもないと話してみたけれど、解決の糸口は掴めない。
「万理さんが自発的に起きてくるのを待つしかないですね……」
「そうだな」
紅林さんは、はぁ、と眉間を押さえながら溜息を一つ零す。それから、くるりとうしろに身をひるがえし、歩き出した。
「えっ、あの、紅林さんどちらへ」
慌てて声をかけると、いったん立ち止まって首だけ振り向く。
「仕方がないので、大広間の片隅にいさせてもらおうかと」
あの大広間ならいることは可能だけれど、囲炉裏テーブルだから寝るのにはまったく適さない。徹夜するにしても、秋とはいえ山奥はとても冷え込むのだ。つい心配になって引き留める。
「もし……あの、もしよろしかったら私の部屋にいらっしゃいませんか」
「ん?」
「ええと、その、私の部屋なら暖房器具がありますし、お布団も一応二組……」
見ず知らずの男性――ではないが、自分一人だけが泊まる部屋に誘うのはどうかと思う。ただ、このまま知らないふりもできない。
そう申し出ると、彼は最初、いや、でも、と遠慮していた。けれど、私が更に強く誘うと、ようやく首を縦に振った。
「じゃあ……すまない、お邪魔させてもらうよ」
私が先導し、飛び石が程よく配置された渡り廊下を歩いていく。あたりはとっぷりと闇に包まれていて、足元の電燈が温かく道を照らしている。
一番奥の部屋に着き、鍵を開けて部屋に入ると、畳の匂いが体を包んだ。
「適当に座っていてください。――あ、もう少し呑みますか?」
備え付けの冷蔵庫に、持ち込んだお酒がある。食事が終わったら部屋に戻って、本を読みながら呑もうと思っていたのだ。
まさか大広間であれほど呑むとは思ってもみなかったので、持ち込んだお酒はそっくりそのまま残っている。
「そうだな、ちょっと呑み直したい」
「はーい、じゃあちょっとお待ちくださいね」
棚の上には小さめのコップが二つ、お盆に伏せて置かれている。冷蔵庫から缶ビールを一缶取り出し、いったんひっこめた手をもう一度冷蔵庫に入れて、もう一缶お盆に載せた。だって紅林さんと一緒なら、一缶なんて瞬殺だろうから。
なんで部屋に入るなり呑もうと誘ったかというと――間が持ちそうにないから。
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