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偽りの絆
第10話
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あぜ道を北に行く。カイは初陣での戦いを思い出した。半年前と同じ道をたどっている。
燕麦は春に収穫した。いまは牧草が短い丈を伸ばしている。農奴は空き腹を抱えて馬の餌を育てる。自分が馬以下だとも知らずに。
小さな橋を越えて死んだ村を突っ切った。槍に刺した生首はしゃれこうべになっていた。生き残りは戻ってきていないようだった。林道を抜けた。うねる緑野を道なりに進む。歩きながらグリニーの砦を見やる。ラロシュの死に顔。血塗れのベア。豚を七匹殺しました。あのときは餓鬼だった。いまはちがう。世の道理をわかっている。つまり、飯がすべてだ。蕪ばかり食っていて頭がまわるはずがない。だから領主は百姓に食わせない。
グリニーの町も死んでいた。一面焼け野原だった。
警戒しながら川沿いを歩く。朝日が昇りはじめた。波打つ流れが白くちらつく。橋は無事だった。町の西側に渡って街道に出た。道なりに行くと湖に突き当たった。かなり大きい。向こう岸には緑の尾根が壁のようにそびえている。
湖を右手に見ながら北西に進む。小さな桟橋に舟が止まっていた。行く先にもこんもりとした緑の山が待ち受けている。
ひたすら湖畔を歩く。湖ははるか先までつづいている。疲れはない。まだ余裕だ。ただ暑い。
昼を過ぎるとさらに暑くなった。街道を外れて休憩した。山羊の荷を下ろして休ませる。カイはボーモンから革袋を二つ受け取った。中身を椀に入れる。水と酢。自分のブドウ酒を注いでかきまわして飲んだ。うまくもなんともない。乾燥麺をふやかして食う。もっと飲みたい。だが持っているぶんを飲み干したらみんなにたかってまわることになる。我慢するしかない。
歩く。やがて湖の果てが見えた。向こう岸の尾根の様子が変わっている。湖の西から北にぐるりとまわりこんだようだ。山々がはっきりと近づいている。人に挑むように取り囲んでいる。
峠道に入った。緩い坂道を上る。山肌に沿ってうねりながら延々とつづいている。歩きの者とすれちがった。冒険者たちが話を聞いた。魔物は見かけない。道が険しいので引き返してきた。別の道で山を越えるつもりだ。
ベアは隊を進めた。歩きつづける。急な曲がりに出くわした。道はほとんど反対の方角に向かっている。上りはつづく。右に湖が見下ろせた。空にも明るい青がある。少しずつ天に近づいていく。
日暮れ前になると遠くの山の様相が変わってきた。粗く岩がちで、ところどころに雪が残っている。点々と、または血脈のように岩肌の隙間を縫っている。白い血だ。
道は上りつづける。セルヴは冒険者を何人か先にやった。宿駅でも居酒屋でも、とにかく寝床を見つけたら戻ってこい。
日が落ちた。ひらけた岩場に出た。まわりの山が低くなっている。尾根を歩いている。これが峠越えか。拍子抜けだ。そろそろ飲みたい。今日もアデルを抱いて寝る。
先遣隊が戻ってきた。行軍が止まる。先にはなにもない。道すらない。そんなはずはないとベアが言った。ともかく今夜は礫だらけの岩場で寝る。カイは背嚢を外して尻を下ろした。革袋を取り出す。薄めていないブドウ酒を思い切ってひと口やった。臓腑にしみた。小刀でチーズを切る。食いながら見まわす。松明がいくつもうろついている。アデルはいない。
小さな幕屋が立っていた。クロードが斧槍を抱いて番をしていた。長い髪の男前。いつも穏やかで、だれともつるまない。あまり話したことがない。
カイに気づくと手のひらを向けた。
「来るな。やめておいたほうがいい」
「眠れそうにないんです。女なしだと」
「だったら見張りに立て。それとも力尽くでどかしてみるか。どうだ」
柄の中ほどを強く握った。背丈はコートと同じ。斧槍はさらに長い。鋭い穂先に斧刃。刃の反対側には鶏の爪のような形の鎚が生えている。どうやって扱うのだろう。手合わせをお願いしてみようか。
クロードが真剣な顔で見下ろす。馬鹿馬鹿しい。カイは首を振った。背を向けて立ち去った。
次の日。明けの前から出発した。体は痛むが気分がいい。久々にぐっすり寝た気がする。
道が険しくなった。山と山の隙間のような渓谷で、大小の岩が地面を埋め尽くしている。山の岩肌には苔とまばらな低木しか生えていない。
とにかく歩く。岩を踏むたびに足首をひねりそうになる。疲れが溜まってきた。
下りになった。足元の岩が動いて転びかけた。体勢を立て直す。慎重に歩を進める。先を見る。先頭はさらに急な下りを進んでいる。
目の前の冒険者が仰向けにすっ転んだ。前にいた冒険者の足を引っかけて転ばせた。勢いで岩がいくつも動いた。ごとり、ごとり、と転がって止まった。石ころが飛び跳ねながら落ちていく。
先頭のガモが叫んだ。
「止まれ。だれも動くな」
カイは立ち止まった。足元の岩が傾いて音を立てた。
「氷河の跡、いまは石っころの川だ。最近崩れたばっかなんだろ、やたらと岩が動く。先は急に下ってる。下手すると生き埋めになるぞ。とくにおれら前のほうが」
ベアが後ろから地声で叫んだ。
「右手に脇道が見えるか」
「見える。体一つの幅もないぜ。踏み外したら石ころの川に真っ逆さまだ」
「だがいちばんの近道だ」
後ろから小石がぱらぱらと転がってきた。
ガモが怒鳴った。ベアが怒鳴り返す。
「山羊にどう言い聞かせればいい。とにかく慎重に行け」
後ろを行く冒険者が山羊の荷をばらした。小分けにしたやつを手渡しで前に送る。カイは金物を運ぶ。小鍋を縄で数珠つなぎにしている。首に引っかけて前に垂らした。昔、鰻をこうしてフラニアの市に運んだ。
全員右に寄って一列で進んだ。足元の岩を崩さないよう慎重に。石の川は広がりながら急激に下っている。そのまま行けばほとんど滑り落ちる格好になる。
脇道が見えた。右の岩肌に沿って延々とつづいている。道などというものではない。急な岩肌をほんの少し平らに削っただけだ。先を行く冒険者たちが道に入った。左側は崖。踏み外したら石の川に真っ逆さまだ。
カイも道に入った。歩くたびに金物が音を立てる。すり足で慎重に行く。左を見る。石の川ははるか下にある。道は平らで礫もない。遠目で見たよりよほど広い。問題ない。踏み外すのは酔っ払いくらいだ。
数人前を歩く冒険者が落ちた。悲鳴を上げながら宙を舞う。別の冒険者がよろめきながら腕を振りまわした。体が崖のほうに傾く。だれもなにもしていない。勝手に飛び降りようとしている。
一つ後ろの冒険者が肩をつかんだ。落ち着けと話しかける。完全に腰が抜けている。うずくまるようにして崖をのぞき込んでいる。さらに体が傾く。
飛び降りた。話しかけていた冒険者が片足を踏み外した。滑り落ちた。
カイは立ち止まった。石の川が引き寄せている。
ベアが後ろから叫んだ。
「恐れるとああなる。他人の恐れは癒やせん。仲間を助けるな。ただ歩け。落ちたいやつはひとりで落ちろ」
行列が進みはじめる。崖の道は果てしなくつづいている。カイは石の川を見下ろした。金玉が縮み上がった。高い。落ちたらどうなるのだろう。当然死ぬ。
知らずに体が傾いていた。崖に寄りかかる。岩肌が押し返してきた。金物ががらがらと鳴る。山が殺そうとしている。
何人かが落ちた。叫び声が遠のく。おまえも来いと呼んでいる。
足元をにらみつける。どうにかこらえた。進めない。膝に力が入らない。深く息を吐く。なにも考えるな。ただまっすぐ歩けばいい。ベアがわめいている。わたしの馬に触れるな。殺す気か。聖女の演技をすっかり忘れている。
ただ歩いた。どれだけ経ったのかもわからない。なにも考えていなかった。ひたすら命を抱き締めていた。
前のほうで声が上がった。カイは目を上げた。とんでもないところに石橋が架かっている。崖の道の途中、石の川をまたいで向こう岸につながっている。ついに終わった。近くに修道院があるにちがいない。飯はなにが出るだろう。寝台で眠れるのだろうか。
道が広がっていく。橋に差しかかった。油断せずに渡る。先には峠道がある。幅は充分で足場もいい。岩山と青い空だけの世界。気づけば神に感謝していた。生き延びた。
渡りきった。しっかりとした大地。何人かが膝をついてこうべを垂れていた。カイも真似した。旅は悪くない。城にこもってなにをしていた。食って寝るだけだった。望みどおりの豚になれた。いい気分ではなかった。死んだ従者たちと同じだった。
橋のたもとに石の像が立っていた。いかめしい老人の像。カイは図画付きの銘を読んだ。聖アントンは旅人のために四十年かけて橋を築いた。渡る者はまず聖アントン修道院に立ち寄り、旅の安全を祈願すべし。
修道院はさらにとんでもないところに立っていた。峠道を歩きながら見上げる。はるか先、砥石を立てたような岩山の頂上に堂の赤い屋根が見える。どうやって石を運んだのだろう。あの高さにはなにか意味があるのか。少しでも天に近づくためか。
集落を見つけた。三家族だけで司祭もいなかった。子供が熱病に罹っていた。ベアは幕屋で化粧をしたあとしずしずと登場した。ケッサのよだれを額に塗りつける。一瞬どこにいるのかわからなくなった。一瞬で思い出す。子供が病気だった。ベアが癒やそうとした。子供は急に元気になった。村の者たちはおびえていた。
すぐに大きな集落にたどり着いた。居酒屋に旅籠もあった。旅の者が多くいた。塩売り商人に大道芸人、赤い着物を着た女も。カイは居酒屋に入って酒を飲んだ。セルヴが卓の向かいに腰を下ろした。カイの前に木皿をどんと置いた。自分の煮込み汁を掻き込みはじめる。話しかけようとしたがやめた。ケッサとコートが空いたところにすわった。ケッサはいろいろ話を仕入れていた。牧畜と糸紡ぎ業の裕福な村。聖アントン修道院のお膝元で、つまり王の村だ。先ほどの小さな集落は異端者のすみかだった。癒やしの噂はすでに流れている。聖アントンの修道士がベアと話している。赤い着物を着た女が勝手に隣にすわった。肩にしなだれかかる。あんた男前ね。遊びに行かない? セルヴがにらみつけてきた。お気に召さないらしい。ずっとこんな関係がつづくのか。突っ張れば突っ張るほど取り返しがつかなくなる。詫びを入れて剣の修行に打ち込もうか。昔のように。死んでもごめんだという気がした。
女は断った。久しぶりの寝台に寝ながら考えた。なにを考えているのかもわからないまま考えつづけた。なにも悪いことはしていない。弱くても構わないじゃないか。怪我をしても癒えるのなら。だから、日々の訓練はいらない。
次の日、聖アントン修道院に向かった。噂を聞いた何人かがついてきた。診療所には病気の者が多くいた。ベアが癒やすと修道士たちが狂いはじめた。祈り、わめき、駆けまわった。悪魔の技だ、異端だ。修道院長は緊急会議をひらいた。ベアを呼んでは質問攻めにした。リュシアンが言った。院の実入りが減るのを恐れているのですよ。坊さんも商売ですから。
三日足止めを食った。道路税を多めに払って無理やり修道院を出た。修道士たちの恐れは現実になった。集落の者がぞろぞろとついてくる。旅の者も予定を変えた。旅籠の親父は店を売り払ってまでついてきた。みなさんざん修道院の悪口を言った。組合をつくれないので自分たちで商売ができない。縮絨機があるのに修道院が使用を禁止している。
二日歩いてようやく峠を越えた。緑の台地を歩く。涼しくて気持ちがいい。恐ろしげな岩山は遠方に引いている。旅の者が賑やかに話している。カイは考えつづけた。ベアは化粧をしておっとりと馬の背に揺れている。アデルが隣を歩いている。いっそ魔物が出てくればいい。そうすればセルヴは話しかけてくれる。ともに戦える。死ぬかもしれないが。
丘を越えると眼下に湖が広がった。ほとりに大鬼の群れがいた。
燕麦は春に収穫した。いまは牧草が短い丈を伸ばしている。農奴は空き腹を抱えて馬の餌を育てる。自分が馬以下だとも知らずに。
小さな橋を越えて死んだ村を突っ切った。槍に刺した生首はしゃれこうべになっていた。生き残りは戻ってきていないようだった。林道を抜けた。うねる緑野を道なりに進む。歩きながらグリニーの砦を見やる。ラロシュの死に顔。血塗れのベア。豚を七匹殺しました。あのときは餓鬼だった。いまはちがう。世の道理をわかっている。つまり、飯がすべてだ。蕪ばかり食っていて頭がまわるはずがない。だから領主は百姓に食わせない。
グリニーの町も死んでいた。一面焼け野原だった。
警戒しながら川沿いを歩く。朝日が昇りはじめた。波打つ流れが白くちらつく。橋は無事だった。町の西側に渡って街道に出た。道なりに行くと湖に突き当たった。かなり大きい。向こう岸には緑の尾根が壁のようにそびえている。
湖を右手に見ながら北西に進む。小さな桟橋に舟が止まっていた。行く先にもこんもりとした緑の山が待ち受けている。
ひたすら湖畔を歩く。湖ははるか先までつづいている。疲れはない。まだ余裕だ。ただ暑い。
昼を過ぎるとさらに暑くなった。街道を外れて休憩した。山羊の荷を下ろして休ませる。カイはボーモンから革袋を二つ受け取った。中身を椀に入れる。水と酢。自分のブドウ酒を注いでかきまわして飲んだ。うまくもなんともない。乾燥麺をふやかして食う。もっと飲みたい。だが持っているぶんを飲み干したらみんなにたかってまわることになる。我慢するしかない。
歩く。やがて湖の果てが見えた。向こう岸の尾根の様子が変わっている。湖の西から北にぐるりとまわりこんだようだ。山々がはっきりと近づいている。人に挑むように取り囲んでいる。
峠道に入った。緩い坂道を上る。山肌に沿ってうねりながら延々とつづいている。歩きの者とすれちがった。冒険者たちが話を聞いた。魔物は見かけない。道が険しいので引き返してきた。別の道で山を越えるつもりだ。
ベアは隊を進めた。歩きつづける。急な曲がりに出くわした。道はほとんど反対の方角に向かっている。上りはつづく。右に湖が見下ろせた。空にも明るい青がある。少しずつ天に近づいていく。
日暮れ前になると遠くの山の様相が変わってきた。粗く岩がちで、ところどころに雪が残っている。点々と、または血脈のように岩肌の隙間を縫っている。白い血だ。
道は上りつづける。セルヴは冒険者を何人か先にやった。宿駅でも居酒屋でも、とにかく寝床を見つけたら戻ってこい。
日が落ちた。ひらけた岩場に出た。まわりの山が低くなっている。尾根を歩いている。これが峠越えか。拍子抜けだ。そろそろ飲みたい。今日もアデルを抱いて寝る。
先遣隊が戻ってきた。行軍が止まる。先にはなにもない。道すらない。そんなはずはないとベアが言った。ともかく今夜は礫だらけの岩場で寝る。カイは背嚢を外して尻を下ろした。革袋を取り出す。薄めていないブドウ酒を思い切ってひと口やった。臓腑にしみた。小刀でチーズを切る。食いながら見まわす。松明がいくつもうろついている。アデルはいない。
小さな幕屋が立っていた。クロードが斧槍を抱いて番をしていた。長い髪の男前。いつも穏やかで、だれともつるまない。あまり話したことがない。
カイに気づくと手のひらを向けた。
「来るな。やめておいたほうがいい」
「眠れそうにないんです。女なしだと」
「だったら見張りに立て。それとも力尽くでどかしてみるか。どうだ」
柄の中ほどを強く握った。背丈はコートと同じ。斧槍はさらに長い。鋭い穂先に斧刃。刃の反対側には鶏の爪のような形の鎚が生えている。どうやって扱うのだろう。手合わせをお願いしてみようか。
クロードが真剣な顔で見下ろす。馬鹿馬鹿しい。カイは首を振った。背を向けて立ち去った。
次の日。明けの前から出発した。体は痛むが気分がいい。久々にぐっすり寝た気がする。
道が険しくなった。山と山の隙間のような渓谷で、大小の岩が地面を埋め尽くしている。山の岩肌には苔とまばらな低木しか生えていない。
とにかく歩く。岩を踏むたびに足首をひねりそうになる。疲れが溜まってきた。
下りになった。足元の岩が動いて転びかけた。体勢を立て直す。慎重に歩を進める。先を見る。先頭はさらに急な下りを進んでいる。
目の前の冒険者が仰向けにすっ転んだ。前にいた冒険者の足を引っかけて転ばせた。勢いで岩がいくつも動いた。ごとり、ごとり、と転がって止まった。石ころが飛び跳ねながら落ちていく。
先頭のガモが叫んだ。
「止まれ。だれも動くな」
カイは立ち止まった。足元の岩が傾いて音を立てた。
「氷河の跡、いまは石っころの川だ。最近崩れたばっかなんだろ、やたらと岩が動く。先は急に下ってる。下手すると生き埋めになるぞ。とくにおれら前のほうが」
ベアが後ろから地声で叫んだ。
「右手に脇道が見えるか」
「見える。体一つの幅もないぜ。踏み外したら石ころの川に真っ逆さまだ」
「だがいちばんの近道だ」
後ろから小石がぱらぱらと転がってきた。
ガモが怒鳴った。ベアが怒鳴り返す。
「山羊にどう言い聞かせればいい。とにかく慎重に行け」
後ろを行く冒険者が山羊の荷をばらした。小分けにしたやつを手渡しで前に送る。カイは金物を運ぶ。小鍋を縄で数珠つなぎにしている。首に引っかけて前に垂らした。昔、鰻をこうしてフラニアの市に運んだ。
全員右に寄って一列で進んだ。足元の岩を崩さないよう慎重に。石の川は広がりながら急激に下っている。そのまま行けばほとんど滑り落ちる格好になる。
脇道が見えた。右の岩肌に沿って延々とつづいている。道などというものではない。急な岩肌をほんの少し平らに削っただけだ。先を行く冒険者たちが道に入った。左側は崖。踏み外したら石の川に真っ逆さまだ。
カイも道に入った。歩くたびに金物が音を立てる。すり足で慎重に行く。左を見る。石の川ははるか下にある。道は平らで礫もない。遠目で見たよりよほど広い。問題ない。踏み外すのは酔っ払いくらいだ。
数人前を歩く冒険者が落ちた。悲鳴を上げながら宙を舞う。別の冒険者がよろめきながら腕を振りまわした。体が崖のほうに傾く。だれもなにもしていない。勝手に飛び降りようとしている。
一つ後ろの冒険者が肩をつかんだ。落ち着けと話しかける。完全に腰が抜けている。うずくまるようにして崖をのぞき込んでいる。さらに体が傾く。
飛び降りた。話しかけていた冒険者が片足を踏み外した。滑り落ちた。
カイは立ち止まった。石の川が引き寄せている。
ベアが後ろから叫んだ。
「恐れるとああなる。他人の恐れは癒やせん。仲間を助けるな。ただ歩け。落ちたいやつはひとりで落ちろ」
行列が進みはじめる。崖の道は果てしなくつづいている。カイは石の川を見下ろした。金玉が縮み上がった。高い。落ちたらどうなるのだろう。当然死ぬ。
知らずに体が傾いていた。崖に寄りかかる。岩肌が押し返してきた。金物ががらがらと鳴る。山が殺そうとしている。
何人かが落ちた。叫び声が遠のく。おまえも来いと呼んでいる。
足元をにらみつける。どうにかこらえた。進めない。膝に力が入らない。深く息を吐く。なにも考えるな。ただまっすぐ歩けばいい。ベアがわめいている。わたしの馬に触れるな。殺す気か。聖女の演技をすっかり忘れている。
ただ歩いた。どれだけ経ったのかもわからない。なにも考えていなかった。ひたすら命を抱き締めていた。
前のほうで声が上がった。カイは目を上げた。とんでもないところに石橋が架かっている。崖の道の途中、石の川をまたいで向こう岸につながっている。ついに終わった。近くに修道院があるにちがいない。飯はなにが出るだろう。寝台で眠れるのだろうか。
道が広がっていく。橋に差しかかった。油断せずに渡る。先には峠道がある。幅は充分で足場もいい。岩山と青い空だけの世界。気づけば神に感謝していた。生き延びた。
渡りきった。しっかりとした大地。何人かが膝をついてこうべを垂れていた。カイも真似した。旅は悪くない。城にこもってなにをしていた。食って寝るだけだった。望みどおりの豚になれた。いい気分ではなかった。死んだ従者たちと同じだった。
橋のたもとに石の像が立っていた。いかめしい老人の像。カイは図画付きの銘を読んだ。聖アントンは旅人のために四十年かけて橋を築いた。渡る者はまず聖アントン修道院に立ち寄り、旅の安全を祈願すべし。
修道院はさらにとんでもないところに立っていた。峠道を歩きながら見上げる。はるか先、砥石を立てたような岩山の頂上に堂の赤い屋根が見える。どうやって石を運んだのだろう。あの高さにはなにか意味があるのか。少しでも天に近づくためか。
集落を見つけた。三家族だけで司祭もいなかった。子供が熱病に罹っていた。ベアは幕屋で化粧をしたあとしずしずと登場した。ケッサのよだれを額に塗りつける。一瞬どこにいるのかわからなくなった。一瞬で思い出す。子供が病気だった。ベアが癒やそうとした。子供は急に元気になった。村の者たちはおびえていた。
すぐに大きな集落にたどり着いた。居酒屋に旅籠もあった。旅の者が多くいた。塩売り商人に大道芸人、赤い着物を着た女も。カイは居酒屋に入って酒を飲んだ。セルヴが卓の向かいに腰を下ろした。カイの前に木皿をどんと置いた。自分の煮込み汁を掻き込みはじめる。話しかけようとしたがやめた。ケッサとコートが空いたところにすわった。ケッサはいろいろ話を仕入れていた。牧畜と糸紡ぎ業の裕福な村。聖アントン修道院のお膝元で、つまり王の村だ。先ほどの小さな集落は異端者のすみかだった。癒やしの噂はすでに流れている。聖アントンの修道士がベアと話している。赤い着物を着た女が勝手に隣にすわった。肩にしなだれかかる。あんた男前ね。遊びに行かない? セルヴがにらみつけてきた。お気に召さないらしい。ずっとこんな関係がつづくのか。突っ張れば突っ張るほど取り返しがつかなくなる。詫びを入れて剣の修行に打ち込もうか。昔のように。死んでもごめんだという気がした。
女は断った。久しぶりの寝台に寝ながら考えた。なにを考えているのかもわからないまま考えつづけた。なにも悪いことはしていない。弱くても構わないじゃないか。怪我をしても癒えるのなら。だから、日々の訓練はいらない。
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二日歩いてようやく峠を越えた。緑の台地を歩く。涼しくて気持ちがいい。恐ろしげな岩山は遠方に引いている。旅の者が賑やかに話している。カイは考えつづけた。ベアは化粧をしておっとりと馬の背に揺れている。アデルが隣を歩いている。いっそ魔物が出てくればいい。そうすればセルヴは話しかけてくれる。ともに戦える。死ぬかもしれないが。
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