Blackheart

高塚イツキ

文字の大きさ
上 下
47 / 61
戦う理由

第4話

しおりを挟む
 寝床に横たわりながらベアのあえぎ声を聞いていた。ガモとやっている。フラニアの城で暮らしていたころはよく下司な冗談を飛ばしていた。当然手は出さなかった。尊敬しているふしさえあった。元暗殺者が給料ももらわずにここまでついてきた。やはりなにかがおかしい。
 アデルが抱き締めてくれた。
「決心はついた?」
 カイはうなずいた。
「リシェにも、呉服屋はあるだろう。きれいな腰帯を取ってきてやる」
「うん。赤いのがいい」
 目が覚めた。大部屋はがらんとしていた。何人かが眠たげに荷をまとめている。宿駅は結局もぬけの殻だった。破滅に向かって歩んでいるような気がした。
 アデルが腕の中で眠っている。幼い顔が穏やかに微笑んでいる。そっと起こした。青い瞳が揺れた。唇を合わせる。息は少し生臭かった。
 支度をして中庭に出た。諍いが起きていた。ガモと弓使いフォールがやりあっている。
 ガモが肩を突き飛ばした。
「これから逃げるってやつに分け前なんかやるかよ」
「公平に分けると決めただろう。おれたちは取り分を要求する」
 セルヴが割って入った。フォールに言う。
「おまえらは手ぶらのほうがいい。荷なんか背負ってたら金持ちの旅行者に見えるぞ。賊どもが襲いかかってくる」
「おれたちは無法者にも勝てないってのか」
「そうだ。おまえらは弱い」
 フォールが食ってかかる。ボーモンが止める。あっという間にもみくちゃになった。
 ガモが諍いの輪からするりと抜け出た。あとじさりながら囃す。
「よう雑魚ども。おれはベアと聖都に行くぜ。途中で逃げるやつあ、次も途中で逃げるもんだ。逃げっぱなしの人生だ」
 カイは長剣ロングソードの柄をぎりぎりと握った。ガモの横面をにらみつける。
 ガモが目を向けた。眠たげな半眼がわずかにひらいた。
 ゆっくりと近づいてきた。
「なんだよその目は。やんのか」
 腰に提げた短剣ダガーに触れる。カイは背嚢を外して放った。
「おれの女に手を出すな、ってか? ベアは喜んでたぜ。いまやおれがベアの騎士殿だ」
 一歩。短剣の間合いになってしまった。
「どうしてついていくんです。やれたお返しですか」
「てめえにゃ関係ねえ。奴隷野郎もさっさと邦に帰んな。百姓の娘を連れてよ」
 カイは長剣をたたき落とした。ガモはすぐさま左の手のひらで受け止めた。さすがに斬れない間合いだと知っている。
 ガモは右の腰をまさぐった。なんて隙。この状態で短剣を抜こうとしている。
 刀身を真上に突き上げた。手のひらを切り裂いた。
 ぎゃっとわめいて手を押さえた。後ろによろめく。一歩、二歩。まだ長剣の間合いだ。剣の線から逃れようともしない。
 踏みとどまった。右手で短剣を抜く。カイは右足を引いた。リュシアンの言うとおりだ。なにかがガモに取り憑いている。ベアにも、アデルにも。ヌーヴィルで出たという幽鬼ゴースト
 カイは大上段に構えた。確かめてやろう。
 頭めがけて長剣を落とした。ただ落とす。受け止めるか、避けるか。後ろか、横か。
 ちがった。ガモは下手で短剣を投げた。切っ先が顔に迫る。
 カイは左足を横に出した。刃が右の肩当てをかすめる。振りを止めて左の腰に引いた。切っ先をガモに向ける。
 右足を寄せる前にガモが踏み出した。長剣の内側に刃を当てた。すでに左手で短剣を握っていた。
 さらに踏み込む。がりがりとこすりつけながら右に押しやる。押しは弱い。カイは気づいた。こちらは大股をひらいた不自然な体勢だ。どうして弱く押す必要がある。
 カイは右足に力を込めた。肩を入れて強引に押し返す。左足を寄せる。短剣を外したら最後だ。押す力でそのまま喉を掻き切ってやる。
 ガモは押し返さない。左の肘がいっぱいまで曲がる。ガモの顔を見る。恐れている。
 右手が動いた。右の腰に手をやった。馬鹿か。さっき投げたから鞘は空だろう。
 カイは思い切り急所を蹴り上げた。男の悲鳴。
 足元にうずくまった。手のひらを向ける。きれいに縦に切れている。
「降参。強えじゃねえか。一緒に来いよ。死ぬまで楽しもうぜ」
 カイは息をついた。冒険者たちは諍いをやめていた。こちらを見ている。全員に憑いているのか。アデルには憑いている。ベアはあんたを騙してる。セルヴにも。師匠はやくざ者などではない。いい家の出だから十二で従士になれたのだ。ベアにも。死がふたりを分かつまで。
 目の前を刃が横切った。敵は背後にいる。カイはとっさに長剣を立てた。押し出す。がちんと打ちつける。眼前で十字に組み合った。
 敵は左手で切っ先をつかんだ。胸を背に押しつける。ベアだ。剣をぎりぎりと引き寄せる。カイは押し返す。なにをやっているんだ。
 ベアはいきなり頭上に持ち上げた。鋼鉄ががりっと鳴る。おのれの刃が額に迫る。カイはあわてて腹を向けた。
 頭を打ちつけた。じんと痺れる。目の端に涙がにじんだ。
 ベアが離れた。カイは長剣を下ろして頭を押さえた。ガモはまだうずくまっている。
 後ろからベアがのぞき込んできた。黒髪が顔に垂れる。
「さあ、行くぞ。今日じゅうに王の森を抜ける。リシェの川を越え、荒野を進む」
「フラニアに帰ります」
「ならばひとりで行け。アデルはわたしの侍女だ」
 アデルが駆けてきた。手に小刀を握っている。ベアの背を狙っている。

 カイはベアを突き飛ばした。小刀がベアの脇腹をかすめた。
 髪を揺らして振り返る。小刀を構え直す。金切り声を上げてむしゃぶりつく。
 ベアはあっさり手首をつかんだ。膝で腹を蹴り上げた。
 地べたに転げた。腹を押さえて丸くなる。涙に濡れた顔でカイを見上げる。どうして助けたの。
 ベアがカイの肩に腕をまわした。冒険者たちに言う。
「少し待っていろ。ついてくる者は山羊に荷を積め。逃げ出す者は手ぶらで去れ」
 歩き出した。突き当たりのブドウ酒倉に向かっている。セルヴが叫んだ。おれたちの終点はリシェだ。カイは振り返った。うなずきで伝える。だいじょうぶ。もうベアは愛していない。
「カイ、なにやってる。戻ってこい。どうしてついていくんだ」
 倉に入った。ベアは扉を閉めた。だれもいない。石壁に沿って大樽が二段に積んである。乾いた石のにおい。薄闇に存在を感じる。幽鬼がいる。
 ベアが手を取った。優しく奥に導く。
 カイは鼻をすすった。
「昨日の、夜は」
「妬いたか。だが愛しているのはおまえだけ」
「幽鬼のせいなんです。なにもかもが」
「ではアデルはおまえを愛しておらんということになるな。セルヴも然り。おまえは幽霊憑きの連中についていくのか」
「ご主人様もです。愛してないんだ」
「おまえもなのだろう? 昨日からよそよそしくなった。これも幽鬼のせいかな」
 ベアは樽に寄りかかった。カイの手を自分の腰にまわした。背に触れて引き寄せる。腹と腹が重なる。
 人差し指で顎に触れた。首をかしげていたずらっぽく微笑んだ。
「髭が生えてきた。男になってきたね」
 唇をふさぐ。革と鋼鉄。大人の女。
 カイは肩をつかんで引き離した。緑の瞳がすばやく持ち上がった。カイを捕らえる。奥の奥をのぞき込む。こうして欲しいものを手に入れる。死ぬまで戦わせる。死よりも苦しいことがある。
 ベアが抱き締める。動けない。胸が冷たく鼓動を打つ。囚われの身だ。
 耳元でささやいた。
「なぜ泣いている」
「解放してください。ぼくは、アデルと暮らします。百姓らしく、つつましく暮らします」
「わたしが嫌いになったか」
 押しのける。力が入らない。
「待って手に入るものなどないぞ。戦い、勝利し、主人の愛を奪い取るのだ。騎士冥利に尽きるだろう」
「ぼくは騎士じゃない。馬にも乗れない」
「これよりわたしの騎士となる。神および神の代理であるフラニアの司教より授かりし権限により、おまえに騎士の称号を授ける。時間がないので儀礼は簡単に」
 ベアは抱擁を解いた。両肩を二度たたいた。頬を軽く張る。背を向けて出ていくんだ。ベアは東で死ぬだろう。二度と会えなくなる。どうして胸が苦しいんだ。おまえを利用しているだけの女なんだぞ。
「解放してください。ぼくは、農奴です。くさい豚です」
「ちがう。おまえはまことに貴人の血を引いている。おまえの顔、おまえの勇気。系図など調べずともわかるのだ。胸が苦しいのはな、百姓暮らしで穢れた心が救いを求めているからだ。気づいているのだ、アデルといると死ぬまで畜生のままだ、と。あれこそおまえを騙している。高貴なおまえを畜生の世界に引きずり下ろそうとしている。ずっとそうだったのだろう? 城に来るずっと前から」
「豚なんだ。だから」
「ふたりで〈黒き心〉を手に入れよう。勝利し、存分に愛を交わそう。策はある。わたしを信じろ。人の生を思い出せ。アデルを殺し、人に戻るのだ。いいな」
 冷たい手からゆっくりと逃れる。ベアの顔が白い蛇のように見えた。
「どうしてなんです。どうして」
「殺せばわかる。世にいるほとんどは人に見える豚だ。食って寝るだけの豚だ。豚を屠ってなにが悪い。殺さねば苦しみは一生ついてまわるぞ。貴人に生まれ変わるのだ。わたしを娶り、人の生を送るのだ。主がふたりを分かつまで」
しおりを挟む

処理中です...