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第二章 神代の剣~朴念仁の魔を断つ剣~
第二十六話 半妖精の少女
しおりを挟む先が二股に割れた赤い舌が、シュルシュルと長い牙の間を行き来する。
その姿は得物をどう食らおうかと舌舐めずりしているかのようだ。
女弓兵は、力が入らずだらりと垂れ下がった左腕を右手で押さえつつ、眼前で鎌首を持ち上げる巨大な蛇と対峙していた。
毒の混じった土煙を浴びた左腕は既に感覚がない。
手で押さえている箇所は、熱湯で茹であげたように爛れている。
蛇の毒はタンパク質を溶解してしまう成分が入っているようで、彼女の左腕は上腕部の筋肉までほとんど組織が崩壊していた。
この手の蛇毒は、得物を行動不能にするだけでなく、捕食した際に消化がしやすいようにする効果もあるらしい。
魔物化していない自然のクサリヘビには、希に神経毒や凝血をおこさせる毒を持つ種もあるらしいが、大抵はこの魔物化した蛇と同じような毒を持つという。
この毒に即死性はない。
ただし、血清がなければ毒を受けた組織はどんどん崩壊していき、治療が遅れれば後遺症を遺し、患部の切断を余儀なくされ、最終的に待つのは身体のあちこちの組織がグズグズに崩れて腐敗する無残な死だ。
エルは今回、蛇に直接噛まれたわけではなかったが、魔物化した蛇の毒はとてつもなく強力だったため、左腕は既に再起不能。
たとえ宮廷司祭の高度な信仰術でも完治させられないだろう。
さらに、右足のふくらはぎにも舞い散った毒を浴びており、皮膚が爛れて破け、そこから血球が崩れドロッとした黒い血糊と、溶け出した組織液が滲んでいた。
彼女の武器である理力弓は、左手の握力がなくなってしまった故に落としてしまい、既に蛇の下敷きになっている。
右足もほとんど動かすことが出来なくなってしまい、これ以上逃げ惑うことも出来なくなってしまった。
そんな彼女の姿を不気味な赤い眼球がとられている。
蛇は、人間を襲うという本能のみで活動している状態だが、魔法を編み込んだ者の悪意のせいだろうか。
もはや逃げ惑うことも出来なくなって、文字通り蛇に睨まれ身の竦んでしまった状態の得物を、いたぶりながら捕食しようと細く笑んでいる。
絶体絶命に見えるエルには、眼前の蛇からそんな風な印象を感じていた。
「嫁入り前の乙女のカラダを、よくも……」
悪態を理性のない蛇に向かってぶつけるエル。
もう、武器もなく逃げる術もない彼女だったが、もし仮に、彼女の敵としてこの場に対峙していた存在が、人並み程度に理性のある存在だったのなら……。
彼女の今の顔を見てきっと不審に感じたであろう。
むしろ、不審にと言うよりは不気味に感じ、さらに警戒したはずである。
ほとんど身動きできないほどに負傷し、弓すらも失ったその弓兵は、この状況で不敵に笑っていたのだ。
――接続……。
エルは瞳を閉じつつ、思念を現実の世界と隣り合いつつも交わらない世界へと送り込む。
次の瞬間、彼女の周囲の空気が急変していた。
☆
カリアスと別れたダーンは、戦闘が行われていると思われる、湖南岸に急行していた。
森の中をショートカットし、木の枝から枝へ飛び渡りながら、胸の辺りを締めつけるような不快を感じさせる気配がする方向へと急ぐ。
――これが《魔》の波動か……。
カリアスとの修練で得た知識、そして覚醒したサイキッカーとしての感応力が、禍々しく強大な魔法の反応を捉えていた。
「まずいな……」
独り言ちるダーンは、間もなく見えてくる戦場に対して懸念する。
感じる《魔》の波動から、凶悪で強大な敵の存在を意識した。
実際にこの目で見るまでは判断できないが、これほど禍々しい波動を強力に放つ魔法を扱う敵は、魔竜かそれ以上の存在だろう。
ただし、その魔力の変動を感じない。
今は、発動した魔法の波動のみを感知していて、その魔法を編んだ者の存在を戦場に感知できないでいるのだ。
今になってみれば、昼間、あの人狼が使った金属兵達も、高度な魔法により造られたモノだったと推測できるが、人狼の戦いぶりを見るに、あの人狼自身は魔法を使っていなかった。
そういえば、あの金属兵達が起動する際、人狼は杖のようなモノを持っていた。
どうやらそれが金属兵達の制御をするための魔導具だったのだろう。
――となると……ん?
推察する途中ダーンは、感じていた禍々しい波動とは全く異質の波動が、向かっている戦場から新たに生まれ始めていることに気づいた。
その新たな波動は、妙な感覚を彼に抱かせる。
禍々しい《魔》の波動が、破壊や死のイメージを覚えさせるのに対し、今感じるこの感覚は、まるで碧の豊かな草原で涼しげな風に吹かれているようなイメージだ。
それがなんであるかは、《灼髪の天使長》から知識を得た彼にも想像し難いが……。
不吉な気配と未知の気配、その二つが存在するその戦場に、ダーンは抜刀しつつ音も無く滑り込んでいく。
その彼の視界に飛び込んできたのは――――。
☆
その背に微かに虹色に輝く半透明の羽があった。
まるで細かなプリズムを極薄の白い絹へ無数に散りばめたような羽。
その形状は、咲き乱れる花園に舞う蝶のものに酷似していた。
ただ、その羽の持ち主は、蝶でもなければその魔物といった類いでもない。
金髪のポニーテールを揺らす、ダーンがよく知る人間の少女だった。
「エル、その姿……」
ダーンの声に、背中に羽をはためかせた少女が驚くようにこちらを振り返る。
「ダーン? ……あちゃあ――。これはまずったわ……」
虹色の羽を背中に生やし、地面から数十セグ・メライ(センチメートル)ほど宙に浮かぶ少女、エル・ビナシスはバツの悪い声を上げ、左手で額を押さえる。
その彼女の左腕と右足には、先ほどのような爛れた傷はなく、よく見れば皮膚の表面が僅かに虹色にぼうっと光っていた。
さらに、彼女の前には血みどろの肉片が挽き肉のように、大地にばらまかれている。
「その姿……もしかして君は《妖精》なのか?」
ダーンの言葉に、エルは意外そうな顔でしばし瞳をしばたたかせると、
「ちょっと驚いたわ。まさか、ダーンから《妖精》の単語を聞くなんてね。どこで知ったの?」
「今さっきカリアスに教えてもらったばかりの知識だよ……俺だって、まさか身近にそういう存在がいたなんて夢にも思わなかったな」
カリアスとの修練で得た知識では、《妖精》とは、人と精霊の中間的な存在ということだった。
精霊はこの世界の自然現象や元素の活力を司る存在で、神界の住人である神族に近い。
妖精は、精霊のように自然現象や活力を司っているわけではないが、精霊達との意思疎通が容易にでき、さらに神族に近い存在であると推測されていた。
ここで、カリアスの知識が『推測』であるのは理由がある。
それは、《妖精》という存在を神界の神々も正確に把握していないからだ。
どうやら、元は『異界』の住人ではないかと考えられているようだが……。
彼ら《妖精》たちは、普段は地上の人間達とほとんど見分けがつかず、しかもその力や存在をひた隠しにする風潮がある。
この世界の活力に似たエネルギーを個々に持っていて、そのエネルギーを精霊達に供給することで、精霊の力を使役するということは解っているのだが……。
「なーるほど……ホントに天使長だったんだあの人……あっ、ちなみに私が妖精っていうのは半分不正解。……私、人間と妖精のハーフなの」
「妖精とのハーフ……」
人と精霊との中間的存在たる妖精、その妖精と人との混血児ということなのは、ダーンにもわかったが、そうなると、彼女はより人間に近い存在ということだろうか……。
「うん、そうよ。私の父親が人間で母親が妖精族。私の故郷じゃ結構あるパターンなんだけど……って、ヤバッ……つい動揺して余分なことまで言っちゃった。あーあ……この姿になるとどうも口が軽くなってダメなのよねー。う――――っ、まぁた、女王に怒られるぅ」
「女王?」
「そう……ブリティア王国の最高権力者よ。私達は妖精女王って……あ――――っ」
エルは両手で頭を抱え込んだ。
エルの言葉から、どうも彼女の故郷ブリティア王国は妖精達が人間世界に溶け込むように建国したもののようだ。
ただ、その事実は当然極秘なのだろう。
蒼髪の剣士は、若干声を上擦らせながら、頭を抱えて苦悶する羽を生やした少女に言う。
「……その、俺、今の聞いてないぞ、うん。だからその……気を落とさないように」
「もう遅いよぅ……ネットワークで繋がってるんだもん……バレバレだよぉ」
若干涙声になりつつ、エルはさらに重要な秘密を漏らしたようだったが、そのことすら彼女は気づかず、「ああ、なんて言い訳しよう」だの、「隊長と司祭様から離れているから誰にもバレないと思ったのに」などと呟いている。
「あー、とにかく……」
話題を変えようと切り出し、ダーンはわざとらしく咳払いをして、
「この辺から感じていた《魔》の気配が一つなくなっている……。どうやら倒したようだな」
「うん……そこの挽き肉になっているのが元クサリヘビの魔物。ネットワークから風の女王にお願いして大気の分子がプラズマ崩壊する程度の竜巻を、あの蛇の身体の中に発生させたの」
「あ……そう、ハハハッ……」
さらなる爆弾発言をまるで気にしていないように、乾いた笑いで応じるダーン。
その彼に、妖精の羽を消し、人間の姿に戻ったエルが、苦笑いをしながら近づいてきた。
「気遣いは嬉しいけど、もういいよダーン、無理に聞かないフリしなくっても。実は私達の国の秘密って、結構知られちゃっているらしいのよね、特に各国の王家の人々には……。
案外、あのアテネ国王だって、私の素性を知ってるんじゃないかな」
「え? そうなのか」
ダーンの言葉にエルは首肯する。
「今朝、王様と握手したときね……自分の親衛隊に所属変えないかって、言っていたでしょ」
「ああ、そんなこと言っていたな……あッ!」
ダーンが何かに気づき、その反応にエルが口元を綻ばせる。
「そうよ。アテネに国王の親衛隊なんてない。……ブリティア女王には、親衛隊があるけどさ。で、ブリティア女王親衛隊は、全員妖精か私のようなハーフなの」
エルの説明に、ダーンは「なるほどな……昔っから食わせ者なんだよなあの人」と口の中で呟く。
「取り敢えず、この事は後回しね。一刻も早く隊長隊と合流しましょ……きっと二人とも苦戦してるだろうし……」
エルがそう告げると、ダーンの表情が少し険しくなった。
「そうだった、もう一つ《魔》の波動があるんだった。行こう!」
そう言って、傭兵隊長と宮廷司祭が戦闘をしていると思われる方向に、蒼髪の剣士は駆けだすと、エルも力強く頷いて彼の後を追う。
「凄く強くなってきたね……ホント、驚いちゃった」
戦いに備えるように、洗練された闘気を纏う剣士の背を後から追いながら、妖精の血を持つ少女は密かに呟いていた。
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