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第四章 ざわめく水面~朴念仁と二人の少女~
第十二話 はしばみの瞳
しおりを挟む柔らかい温かさと、豊潤な香りが口腔内に広がりちょっとした幸福感に浸る。
「美味しい……」
白いティーカップの中を見つめながら、ステフは軽く感嘆の言葉を漏らした。
昨夜も湯冷ましに座った窓辺の椅子に座っている彼女は、カップから立ち上る香りに満足し、窓の外に視線を向ける。
町の近くにある淡水湖《セイレン湖》から流れてくる淡い霧が、視界にある街の姿を朧気にしていた。
白と灰色の濡れた景色は、見る限り人の姿がない。
それもそのはず、時刻は午前5時半を回ったところであり、街は未だ眠っているのだ。
そんな静かで寂しいけれどもどこか趣がある風景から、ゆっくりと視線を室内に戻せば、部屋にはダーンの姿がない。
彼は、先程から旅館の内湯の方へ向かって、朝風呂に出かけている。
露天風呂は以前来たときと異なりいつの間にか混浴になっていたが、一応フロントに確認したところ内湯の方は男女別に分かれているとのことだった。
また、万が一の敵の襲撃も考えないではなかったが、ここはアーク王国の街中だ。
のどかな温泉街に見えて、実はあらゆるセキュリティーで不審者を警戒している。
さらに、今は《神器ソルブライト》の加護も得ていることから、危険は極めて少ないと判断。
というわけで、折角の温泉旅館なのだから、お互い内湯の方に向かうことになったが……。
その前に少し一人で落ち着くのもいいかもしれないと考え、ダーン一人を内湯に向かわせて、ステフはこうして一人留守番をしている。
そして、取り敢えず気分を落ち着かせようと、ルームサービスで紅茶を注文したのだった。
今し方紅茶入りのティーポットが届き、早速カップに注ぐと、白い湯気と共に強いマスカテル・フレーバーが立ち上った。
その高貴な香りは、未だ旅先で微かに残っていた全身の緊張をほぐし、蒼い髪の少女にまるでアーク王宮の自室にいるような安らぎを与えた。
使われている茶葉は、寒暖の差がはげしい高地で栽培し夏摘みされたもので、遠く離れた異国のイディアという国から輸入したものだろうと推測する。
茶葉としては最高級のものだ。
だが、高級な茶葉ほど、使う水との相性や淹れる際の湯温が難しくなる。
正直、ステフはルームサービスの紅茶などには期待していなかったのだが――――
――これって……カレリアが淹れてくれたものに匹敵するかも。
ふと、首都のジリオ・パレスにいる妹のことを思い出す。
自分のように料理を得意としているわけではなかったが、彼女は紅茶の名人だった。
しかも、それは誰かに習ったというわけでもなく、物心がついた頃には、彼女は名人芸を披露してくれていた。
そんな彼女曰く、「水がおいしい淹れ方を教えてくれる」とのことだったが、何のことかはさっぱりだ。
『確かに……この香りはなかなかのものですね』
ステフの胸元から、ソルブライトも感心するように言葉を紡いだ。
「……あなたって、その状態で香りとかも分かるの?」
『私が感じ取ることはできませんが、あなたの感じたものを間接的に感じているのです。私とあなたは、たとえ《リンケージ》していなくとも感覚を共有することができますから』
ソルブライトの解説に、ステフは少しふてくされたような顔をして、
「つまり、勝手に人の身体を使って、ティータイムを楽しんでいると……」
『言い方にずいぶんと棘がありますが、まあそういうことで間違いありません。それと、貴女の身体の状態もよく判っています。基本的な健康状態から、排卵周期まで完璧です。……そうですね、万が一の契約破棄の際は、一回限定になってしまいますが、危険日かどうか教えてあげますよ』
ソルブライトの無遠慮な物言いに、ステフは口にしていた紅茶を吹き出しそうになった。
吹き出しそうなところを強引に飲みこみ、少し咽せて涙目になるステフは、肩を怒らせて胸元の神器を両手で掴む。
眼前にそれを掲げて、
「結構よッ。まったく、スレームの常時携帯型みたいなものね、アンタは」
『褒められていないことはよく判ります。おっと……ダーンが戻ってきました……おや?』
ソルブライトは部屋の外の気配感じ、意外そうな言葉を漏らすと、微かに笑った。
☆
旅館の内湯に汗を流す程度に浸かってきたダーンは、自分達の部屋の直前に佇立する少女を認め、右手を軽く挙げ声を掛ける。
「ステフ……どうしたんだ? 部屋にいればいいのに」
その声に反応して、蒼い髪の少女はくるりと身体ごとこちらを向くと、随分と嬉しそうな表情を見せた。
「あなたが来るのを待ってたの……一刻も早く会いたくて……」
弾む声で蒼い髪の少女は応じると、不意に駆け出してダーンの胸元に飛び込む。
「なッ……なにを……」
少し着崩した浴衣の胸元に飛び込んできた少女を、思わず両腕を軽く広げて受け止めてしまったダーンだったが――――
胸元に抱きつき、襟が乱れて僅かにはだけた胸板に頬をすり寄せてくる少女の感触にそのまま硬直する。
そのダーンに抱きついた少女は、しばらく彼の胸板の感触を楽しんだ後、おもむろに上目遣いで潤んだ瞳を向けた。
その瞳の下、彼女も浴衣の襟元が僅かにはだけていて、白い谷間が露わになっている。
「やっぱり身体、温まってない……。――――ねえ、あたしに気を利かせて早く帰ってきたんでしょ?」
悪戯っぽい仕草でしゃべり、指先を彼の胸元に這わせる。
少女の言うとおり、ダーンは部屋で留守番しているステフをあまり待たせてはと思い、早めに湯から上がってきた。
「いや……その、汗さえ流せればと思ってさ……」
応じるダーンの声が明らかに上擦ってしまう。
「ウソ……。ダーンはあたしのコトばっか考えてくれるもの……あたしもだよ。ねえ、折角だから、もう一回入りに行かない? ……露天温泉。今度は、一緒にゆっくりと…………ね?」
少女は頬を赤らめつつ、もう一度ダーンの胸元に頬を埋めて両腕を彼の背中に回し軽く抱きしめる。
その瞬間、少女の様子にダーンは激しい違和感を覚えた。
ステフがこんな風に誘ってくることはない――――という理性的な判断よりも、もっと直感的な違和感だった。
少女が自分の素肌に触れているのに、いつも感じる独特の親近感がなかったのだ。
それに、今彼女から微かに立ち上る香りは、涼やかなシトラスのものだ。
浴場へ向かう前、目を覚ました際にベッドの上で香っていたのは、いつもの甘酸っぱいものだったのに。
「君は……誰だ?」
ダーンは低い声で問いかけながら、彼女の肩をそっと押してその身を離そうとする。
「あら……」
少女は軽い驚嘆と共に口元を優しく緩めた。
「私とお姉様のお見分けができるなんて、ちょっと驚きですわ。……それでいて突き放すようなことまではなさらないなんて、本当にお優しい殿方でいらっしゃいますね。それとも、何もかもを御存知なのかしら?」
少し間の抜けた感じの話し方をしながら少女はダーンから離れる。
そのまま目を閉じて、口の中で聞き慣れない言語の短い言葉を紡ぐ。
すると、銀をまぶした蒼い髪が一気に艶やかな漆黒へと変化した。
さらに瞼を開けば琥珀色の瞳も僅かに色調を変え、榛色となる。
黒い髪の少女は、襟元を直すと丁寧な動きでお辞儀をする。
「初めまして……ダーン様。試すようなご無礼をお許し下さい。私は……」
「カレリア!」
名乗ろうとした黒髪の少女の背後、部屋から廊下に出てきたステフが素っ頓狂な声でその名を叫んだ。
「はい……カレリア・ルーク・マクベインです。お姉様の双子の妹になりますの」
カレリアは悪戯っぽい笑顔のまま、もう一度ダーンに向かって会釈をするのだった。
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