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16 朝に選ぶのは、優しい味
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以前は昼ごろまでだらだらと布団の中にいたが、ベルカントが家に来てからの柚季は、夜明けとともに起きる彼に合わせ早起きをするようにしていた。
その日も、玄関の開く音で目が覚めた。
顔を洗い、軽く着替えた上にはんてんを羽織って庭に出る。いつものように一人で鍛錬に励むベルカントの姿があった。
剣の型を練習しているのか、きらきらと白刃が朝日を反射して輝いている。影絵のような様子を見守りつつ息を吐くと、白い息が空に昇っていく。その向こうには、まだ残っていた星が瞬いているのが見えた。
その瞬間、「ああ、今日だ」と柚季の中に天啓のような思考が降ってきた。
ランシェにせっつかれてから一月ほど。ずっとぐるぐるとまとまっていなかった考えがストンとあるべき部分に落ち着いた気がした。
部屋の中に戻り、竈に火を熾す。その上に掛けた鍋に湯を沸かし、ランシェが「今まで試した中で一番家の味に近かった」と教えてくれたレシピ通りに刻んだ人参とタマネギを入れる。火が通ったら水とヒラタ豆を加え、その横で小麦粉をこねる。
豆がスープの中ですっかり煮崩れ、無発酵の薄いパンが焼けた頃、ようやく外が明るくなってくる。最後にパン用のディップを余りものの白身魚で作ったところで、ベルカントが外から戻ってきた。
「おはようございます、ベルさん」
「おはようござ……今日もいい匂いですね」
鼻先を上げたベルカントの微笑みに、氷に触れたときのようなひやりとした痛みを柚季は感じた。
囲炉裏の側にちゃぶ台を運び、朝食を運ぶ。
あらかた食べ終わったところで、柚季は切り出した。
「ランシェさんと、結婚することにしました」
ぴたりとベルカントの手が止まった。
「だから今度、女王に紹介しようと思います」
女王はランシェと柚季が会っているのを知っている。ベルカントから報告も行っているだろうし。
そろそろいい頃合いだろうと思ったのだ。
「……なん、で」
聞こえてきたベルカントの声は、震えていた。声だけではない。パンを持った手も、今にも取り落としそうなほどに震えている。
それを見ながら、柚季は残ったスープの最後の一口を飲み干した。
ふわりと甘くて、優しい味。
ドキドキするほどスパイシーだったり、キュンとするほど酸っぱかったり、とろけるほどに甘いわけではない。
地味かもしれないが、ほっとして落ち着く味だ。
ランシェは足りないと言っていた。けれどそれがどこなのか柚季には分からないし、多分一生見つけられないだろう。
けれど、一緒に新しい「好きな味」を探していくことくらいはできる。
それは、きっと悪くないはずだ。
「ランシェは……あの人は……あの人の親は」
言いかけて、手に持っていたパンのかけらをベルカントは口に放り込んだ。しかしそれを持て余した顔になり、紅茶で無理やり飲み込んだようだった。
「……あの人より、私の方が柚季様を愛しています」
「知ってます」
ベルカントの顔が泣きそうになるのを見ても、思っていたほど柚季の心は波立たなかった。
意識して、ゆっくりと冷静な声音を保つ。
「ランシェさんは……嫌われてはいないでしょうけど、僕に恋愛的な好意を向けているわけではないでしょうね」
「じゃあなんで……っ」
「でも、僕のことを必要としてくれました」
ランシェが欲しいのは多分、失った貴族としての地位や、上流階級への繋がり、後ろ盾――そのあたりだろう。本人に直接確かめられるわけでもないから推測だが。
「それは、柚季様が必要なのとは違います」
「そうだね。でも、僕のことを大切にしてくれているのは同じだ」
少なくともランシェは柚季の弱っているところにつけ込んで肉体関係を結んだり、結婚を強要してきたりはしていない。それで十分だろう。
ベルカントの手が握り込まれるのが見えた。関節が白くなるほど強く握られた手が少し浮き、またちゃぶ台の上に戻る。
「い、一緒なわけないじゃないですか……! な、なんでそういう……」
「ねえ、ベル」
ベルカントの名前を呼ぶと、涙の盛り上がった目が柚季の方を向いた。
雨に濡れた葡萄のような色は、こんなときでも――こんなときだから――とても綺麗だ。
「好きだよ」
柚季は、はっきりとその言葉を伝えた。
「愛してるから、あなたの迷惑にだけはなりたくない」
職を失い、借金を背負ってまで一緒にいるほどの価値なんて、自分にはないのだから。
変な男に誑かされて、人生を棒に振ってしまった哀れな落伍者。
そんな後ろ指をさされてまで、共にいてほしいなんて言えるわけがない。
「……っ」
零れそうになった涙を手の甲で押さえ、口を開きかけ――結局何も言えずに立ち上がったベルカントの背中を、黙って柚季は見送った。
そしてちゃぶ台の上を片付け、便箋を広げる。
その日も、玄関の開く音で目が覚めた。
顔を洗い、軽く着替えた上にはんてんを羽織って庭に出る。いつものように一人で鍛錬に励むベルカントの姿があった。
剣の型を練習しているのか、きらきらと白刃が朝日を反射して輝いている。影絵のような様子を見守りつつ息を吐くと、白い息が空に昇っていく。その向こうには、まだ残っていた星が瞬いているのが見えた。
その瞬間、「ああ、今日だ」と柚季の中に天啓のような思考が降ってきた。
ランシェにせっつかれてから一月ほど。ずっとぐるぐるとまとまっていなかった考えがストンとあるべき部分に落ち着いた気がした。
部屋の中に戻り、竈に火を熾す。その上に掛けた鍋に湯を沸かし、ランシェが「今まで試した中で一番家の味に近かった」と教えてくれたレシピ通りに刻んだ人参とタマネギを入れる。火が通ったら水とヒラタ豆を加え、その横で小麦粉をこねる。
豆がスープの中ですっかり煮崩れ、無発酵の薄いパンが焼けた頃、ようやく外が明るくなってくる。最後にパン用のディップを余りものの白身魚で作ったところで、ベルカントが外から戻ってきた。
「おはようございます、ベルさん」
「おはようござ……今日もいい匂いですね」
鼻先を上げたベルカントの微笑みに、氷に触れたときのようなひやりとした痛みを柚季は感じた。
囲炉裏の側にちゃぶ台を運び、朝食を運ぶ。
あらかた食べ終わったところで、柚季は切り出した。
「ランシェさんと、結婚することにしました」
ぴたりとベルカントの手が止まった。
「だから今度、女王に紹介しようと思います」
女王はランシェと柚季が会っているのを知っている。ベルカントから報告も行っているだろうし。
そろそろいい頃合いだろうと思ったのだ。
「……なん、で」
聞こえてきたベルカントの声は、震えていた。声だけではない。パンを持った手も、今にも取り落としそうなほどに震えている。
それを見ながら、柚季は残ったスープの最後の一口を飲み干した。
ふわりと甘くて、優しい味。
ドキドキするほどスパイシーだったり、キュンとするほど酸っぱかったり、とろけるほどに甘いわけではない。
地味かもしれないが、ほっとして落ち着く味だ。
ランシェは足りないと言っていた。けれどそれがどこなのか柚季には分からないし、多分一生見つけられないだろう。
けれど、一緒に新しい「好きな味」を探していくことくらいはできる。
それは、きっと悪くないはずだ。
「ランシェは……あの人は……あの人の親は」
言いかけて、手に持っていたパンのかけらをベルカントは口に放り込んだ。しかしそれを持て余した顔になり、紅茶で無理やり飲み込んだようだった。
「……あの人より、私の方が柚季様を愛しています」
「知ってます」
ベルカントの顔が泣きそうになるのを見ても、思っていたほど柚季の心は波立たなかった。
意識して、ゆっくりと冷静な声音を保つ。
「ランシェさんは……嫌われてはいないでしょうけど、僕に恋愛的な好意を向けているわけではないでしょうね」
「じゃあなんで……っ」
「でも、僕のことを必要としてくれました」
ランシェが欲しいのは多分、失った貴族としての地位や、上流階級への繋がり、後ろ盾――そのあたりだろう。本人に直接確かめられるわけでもないから推測だが。
「それは、柚季様が必要なのとは違います」
「そうだね。でも、僕のことを大切にしてくれているのは同じだ」
少なくともランシェは柚季の弱っているところにつけ込んで肉体関係を結んだり、結婚を強要してきたりはしていない。それで十分だろう。
ベルカントの手が握り込まれるのが見えた。関節が白くなるほど強く握られた手が少し浮き、またちゃぶ台の上に戻る。
「い、一緒なわけないじゃないですか……! な、なんでそういう……」
「ねえ、ベル」
ベルカントの名前を呼ぶと、涙の盛り上がった目が柚季の方を向いた。
雨に濡れた葡萄のような色は、こんなときでも――こんなときだから――とても綺麗だ。
「好きだよ」
柚季は、はっきりとその言葉を伝えた。
「愛してるから、あなたの迷惑にだけはなりたくない」
職を失い、借金を背負ってまで一緒にいるほどの価値なんて、自分にはないのだから。
変な男に誑かされて、人生を棒に振ってしまった哀れな落伍者。
そんな後ろ指をさされてまで、共にいてほしいなんて言えるわけがない。
「……っ」
零れそうになった涙を手の甲で押さえ、口を開きかけ――結局何も言えずに立ち上がったベルカントの背中を、黙って柚季は見送った。
そしてちゃぶ台の上を片付け、便箋を広げる。
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