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樹を部屋まで送り届けた淳哉は、キッチンの下から小さなやかんを取り出した。水を入れて火にかける。
「コーヒーでいいか?」
「あ、うん」
答えると、淳哉は棚にあったインスタントコーヒーの蓋を開けた。小さなペットボトルのコーヒーをしょっちゅう買う樹に憤慨した淳哉が、勝手に置いていったものだ。
「ほら」
手渡されたコーヒーは、すっかりぬるくなった、樹にとってはちょうどいい温かさになっている。ひとしきり泣いた後の体にたっぷりと砂糖が入った温かさが体中に広がっていくのを感じ、樹は自室のベッドに寄りかかった体を伸ばした。ぐず、と鼻をすすり、最後の雫を淳哉のハンカチで拭う。だが絞れそうなほどに濡れたハンカチはただしょっぱい水を樹の顔に塗り広げただけに終わった。
「……これ、洗って返すね」
「別にいいけど」
そんなゴミは捨ててしまえ、とでも言いたげな調子の淳哉が、自分の分のコーヒーを持って樹の隣に座った。気にしないで、と伝えればいいだけなのにそういう態度をとるから怖いとか冷たいとか勘違いされるんだ、と樹はおかしくなった。
「それにしても、いきなりハンカチ出てきてびっくりしたよ」
「普通は持ってるもんだ」
「こういう時のために?」
「まあ、そうだな」
コーヒーを啜る淳哉のメガネが白く曇る。眼鏡がまた透明になるまでその横顔を見てから、樹は自分の横にある淳哉の左手に触れた。樹に比べて大きく骨ばっていて、武骨な印象の手。
そっと指先を撫で、それから手を重ねる。
ぽかぽかとした淳哉の体温に、これでよかったのだ、と心が落ち着いていく。
(ああ、そうか……そういうことか)
ぽっかりと心に穴が開いたような、自分の一部がもぎ取られてしまったような気がしたが、それが却って清々しい。
「今日は……よく流されずに頑張ったな。怖かったろ」
うん、と頷いて空になったコップを横に置き、淳哉の肩に頭を乗せる。同じくコップを置いた淳哉の手が、樹の頭に軽くのせられた。
「ジュンが『よく考えろ』って言ってくれたからだよ」
「そんなこと言ったかな」
「うん、言ってた……ずっと、言ってくれてたよ」
言われたことを鵜呑みにするのではなく自分で考えて決めろ、違和感があったらそれを無視するな、と。ずっと昔からそう伝えてくれていた。
「最初から、なんとなくおかしい気はしてたんだよね。今にして思うと、虫の知らせって奴かな」
「そうかもな」
今までの樹は、変だと思うことがあっても「おかしいのは自分の方だろう」と思い込んでそのままにしていた。今回それに向き合えたのは、自分でもようやく、この感覚は間違っていないのではないかと思えたからだった。
「……僕のこと、ジュンが今までどれだけ大事にしてくれたかも……よく分かった」
すぐ横にある淳哉の顔を見上げる。錆色の瞳の中に、泣いてボロボロになった顔の樹が映っていた。
胸が苦しいのに、それがどうしようもなく心地よくて、体が高揚感に包まれていく。隣にいることが、触れ合っていることが嬉しい。須野原には感じたことのない気持ちだった。
「ジュン、ありがとう」
目を閉じて、すぐ近くにある淳哉の顔に唇を寄せる。淳哉にこの感情を伝えたい一心からの行動だった。
「……落ち着け、イツキ」
だが、樹の唇に触れたのは想像よりも固く、冷たい感触だった。硬質な声に目を開くと、樹の唇を淳哉の指先が押さえていた。
「……?」
淳哉の指を見てから、また顔に視線を戻す。なぜか、淳哉は苦しそうな、泣き出しそうな表情をしていた。喉から手が出るほど欲しいものが目の前にあるのに、自分にはそれを手に入れる資格がないのだ、というような。
「今は……ちょっと、興奮してるんだろ。少し頭冷やせよ」
逃げるように立ちあがる。そのままどこかに行ってしまうのではないかと不安になった樹が後を追うと、洗面所の奥、風呂場へと入っていく。
「……ジュン?」
手早く、彼にしては雑に風呂掃除を終えた淳哉は温水のカランを捻った。どどどと小さな滝のような音を立ててお湯が溜まっていく。
「ほら、風呂洗ったからたまったら入りな」
淳哉は樹の肩を小さく叩くとその横をすり抜けて室内に戻り、コートを羽織った。
「……じゃ、俺、もう帰るから」
「え、ちょっと待ってよ! ジュン!」
突然の暇乞いに驚いて樹は叫んだ。
「今日はもう遅いし、泊まっていったらいいじゃん! 雪だって降って来てるんだし、無理して帰ることないって」
まさか今晩、淳哉が帰ってしまうなんて想像してもいなかった。樹の家に来たとき淳哉は泊まることが多かったし、過保護気味な淳哉のことだ、「心配だから一緒に寝る」くらい言ってくると思い込んでいたのだ。
「今日は、ジュンにいてほしいんだけど……ダメなの?」
「……ごめんな」
なんで。どうして。聞きたい気持ちはあったが、どこか痛いところでもあるかのように顔を歪める淳哉に、それ以上樹は聞けなかった。
「じゃ、じゃあせめてほら、駅まで送らせてよ! ね! で、電車止まってたりしたら戻ってこよう?」
「ちらちらとしか降ってないし、心配することないって。それよりほら、そんなことしてるとせっかくためた風呂が冷めちゃうだろ」
淳哉は口角を上げたが、笑顔を作れているとはいいがたい。それ以上淳哉を引き留める方策が思いつかなくて立ち尽くす樹に、革靴を履いた淳哉は軽く手を挙げた。
「じゃ。イツキ、また学校で」
「う、うん……またね」
アパートの階段を降りる音が遠ざかっていくと、樹はベランダに出た。灰のような雪が微かにちらつく中、黒いコートを着た人影が道を歩いていくのを見下ろす。
やましいことでもあるかのように歩く淳哉が闇に溶けて見えなくなるまで、樹はじっとその背中を見送った。
「コーヒーでいいか?」
「あ、うん」
答えると、淳哉は棚にあったインスタントコーヒーの蓋を開けた。小さなペットボトルのコーヒーをしょっちゅう買う樹に憤慨した淳哉が、勝手に置いていったものだ。
「ほら」
手渡されたコーヒーは、すっかりぬるくなった、樹にとってはちょうどいい温かさになっている。ひとしきり泣いた後の体にたっぷりと砂糖が入った温かさが体中に広がっていくのを感じ、樹は自室のベッドに寄りかかった体を伸ばした。ぐず、と鼻をすすり、最後の雫を淳哉のハンカチで拭う。だが絞れそうなほどに濡れたハンカチはただしょっぱい水を樹の顔に塗り広げただけに終わった。
「……これ、洗って返すね」
「別にいいけど」
そんなゴミは捨ててしまえ、とでも言いたげな調子の淳哉が、自分の分のコーヒーを持って樹の隣に座った。気にしないで、と伝えればいいだけなのにそういう態度をとるから怖いとか冷たいとか勘違いされるんだ、と樹はおかしくなった。
「それにしても、いきなりハンカチ出てきてびっくりしたよ」
「普通は持ってるもんだ」
「こういう時のために?」
「まあ、そうだな」
コーヒーを啜る淳哉のメガネが白く曇る。眼鏡がまた透明になるまでその横顔を見てから、樹は自分の横にある淳哉の左手に触れた。樹に比べて大きく骨ばっていて、武骨な印象の手。
そっと指先を撫で、それから手を重ねる。
ぽかぽかとした淳哉の体温に、これでよかったのだ、と心が落ち着いていく。
(ああ、そうか……そういうことか)
ぽっかりと心に穴が開いたような、自分の一部がもぎ取られてしまったような気がしたが、それが却って清々しい。
「今日は……よく流されずに頑張ったな。怖かったろ」
うん、と頷いて空になったコップを横に置き、淳哉の肩に頭を乗せる。同じくコップを置いた淳哉の手が、樹の頭に軽くのせられた。
「ジュンが『よく考えろ』って言ってくれたからだよ」
「そんなこと言ったかな」
「うん、言ってた……ずっと、言ってくれてたよ」
言われたことを鵜呑みにするのではなく自分で考えて決めろ、違和感があったらそれを無視するな、と。ずっと昔からそう伝えてくれていた。
「最初から、なんとなくおかしい気はしてたんだよね。今にして思うと、虫の知らせって奴かな」
「そうかもな」
今までの樹は、変だと思うことがあっても「おかしいのは自分の方だろう」と思い込んでそのままにしていた。今回それに向き合えたのは、自分でもようやく、この感覚は間違っていないのではないかと思えたからだった。
「……僕のこと、ジュンが今までどれだけ大事にしてくれたかも……よく分かった」
すぐ横にある淳哉の顔を見上げる。錆色の瞳の中に、泣いてボロボロになった顔の樹が映っていた。
胸が苦しいのに、それがどうしようもなく心地よくて、体が高揚感に包まれていく。隣にいることが、触れ合っていることが嬉しい。須野原には感じたことのない気持ちだった。
「ジュン、ありがとう」
目を閉じて、すぐ近くにある淳哉の顔に唇を寄せる。淳哉にこの感情を伝えたい一心からの行動だった。
「……落ち着け、イツキ」
だが、樹の唇に触れたのは想像よりも固く、冷たい感触だった。硬質な声に目を開くと、樹の唇を淳哉の指先が押さえていた。
「……?」
淳哉の指を見てから、また顔に視線を戻す。なぜか、淳哉は苦しそうな、泣き出しそうな表情をしていた。喉から手が出るほど欲しいものが目の前にあるのに、自分にはそれを手に入れる資格がないのだ、というような。
「今は……ちょっと、興奮してるんだろ。少し頭冷やせよ」
逃げるように立ちあがる。そのままどこかに行ってしまうのではないかと不安になった樹が後を追うと、洗面所の奥、風呂場へと入っていく。
「……ジュン?」
手早く、彼にしては雑に風呂掃除を終えた淳哉は温水のカランを捻った。どどどと小さな滝のような音を立ててお湯が溜まっていく。
「ほら、風呂洗ったからたまったら入りな」
淳哉は樹の肩を小さく叩くとその横をすり抜けて室内に戻り、コートを羽織った。
「……じゃ、俺、もう帰るから」
「え、ちょっと待ってよ! ジュン!」
突然の暇乞いに驚いて樹は叫んだ。
「今日はもう遅いし、泊まっていったらいいじゃん! 雪だって降って来てるんだし、無理して帰ることないって」
まさか今晩、淳哉が帰ってしまうなんて想像してもいなかった。樹の家に来たとき淳哉は泊まることが多かったし、過保護気味な淳哉のことだ、「心配だから一緒に寝る」くらい言ってくると思い込んでいたのだ。
「今日は、ジュンにいてほしいんだけど……ダメなの?」
「……ごめんな」
なんで。どうして。聞きたい気持ちはあったが、どこか痛いところでもあるかのように顔を歪める淳哉に、それ以上樹は聞けなかった。
「じゃ、じゃあせめてほら、駅まで送らせてよ! ね! で、電車止まってたりしたら戻ってこよう?」
「ちらちらとしか降ってないし、心配することないって。それよりほら、そんなことしてるとせっかくためた風呂が冷めちゃうだろ」
淳哉は口角を上げたが、笑顔を作れているとはいいがたい。それ以上淳哉を引き留める方策が思いつかなくて立ち尽くす樹に、革靴を履いた淳哉は軽く手を挙げた。
「じゃ。イツキ、また学校で」
「う、うん……またね」
アパートの階段を降りる音が遠ざかっていくと、樹はベランダに出た。灰のような雪が微かにちらつく中、黒いコートを着た人影が道を歩いていくのを見下ろす。
やましいことでもあるかのように歩く淳哉が闇に溶けて見えなくなるまで、樹はじっとその背中を見送った。
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