追放文官、幸せなキスで旅に出る

二ッ木ヨウカ

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日常の崩壊

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 目を覚ましたコーディエライト・スプリンゲンが時計を見ると、時刻はちょうど六の刻を指していた。冬の朝は日の出が遅い。まだ外は暗かったが、コーディエがこの時間に起きるのは以前宮仕えをしていたころからの習慣だ。目をこすりながら居間に行き、熾火になっているストーブに向けて前腕と同じくらいの長さの杖を振る。コーディエの指揮に合わせてストーブの蓋が開き、部屋の隅から飛んできた薪がそこに収まった。もう一度杖を振るとランプがつき、まだ暗い部屋をゆらゆらとした明かりで満たす。

 薪が燃え上がり、部屋が温まるまでの間に身支度を済ませる。井戸から汲んだばかりの水はほのかに温かく、どこかもやがかかったようだった頭を爽やかに目覚めさせてくれる点が丁度いい。鏡を見ながらくすんだ金色の髭をあたり、同色の肩口まで伸びた髪の毛をけずる。ネグリジェから黒いローブに着替えれば、どこにでもいそうな――というにはやや菫色の目が鋭すぎるだろうか――な魔法使いの出来上がりだ。

 すっかり快適な温度になった部屋に戻り、蓋を開けたスープ缶をストーブの上に乗せる。今日は豆とトマトのスープだ。温まってきたところで、隣で炙ったパンと一緒に机に運び、朝食にする。食べ終わるころには、窓の外、雪の積もった木々の間から朝陽に縁取られた稜線が見え隠れしていた。
 いつも通りの朝だった。静かで、コーディエの心を乱すものは何もない。
 のんびりと食後のコーヒーを楽しんでから、コーディエは机の上を片付けた。書斎もあるが、冬の間は光熱費の節約のためにも居間で仕事をすることにしている。昨日しおりを挟んで置いておいた古書を注意深く開き、隣に厚手の紙を並べる。それから辞書も。
 その横にある羽根ペンを見た時だけ、わずかにコーディエの心がざわめいた。

 コーディエライトは写本師だ。といってもただ本から本へ言葉を書き写すわけではない。それなら転写魔法で事足りる。古くなりすぎて読解困難な本に何と書かれていたかを探し当てたり、あるいは長い歴史の中でバラバラになってしまった文章を繋ぎ合わせて元の本を復元したり、そういった作業も仕事の内だ。

(ううん……一晩経てば何か閃くかと思ったけど、そうでもないな)

 端がボロボロになり、汚れや焼けの染みついた紙の表面をそっと指でなぞる。古ブロンデス語で書かれた書籍だが、文脈的にどうにもおかしい単語が一個あるのだ。恐らくこの本に書き写した写本師が間違えたのだろうが、では元の言葉が何だったのかとなるとさっぱり分からない。
 先で似た文章が出てこないとも限らない。ひとまず置いておいて続きに取り掛かってしまうのも手だが、このまま進むのもすっきりしない。でも納期が。考えていると、玄関のベルが鳴った。

(あっ、もうそんな時間か)

 書き溜めた手紙を持ったコーディエが出ると、雪化粧をした森の中、家の前には一頭の馬に引かれたソリが停まっていた。コーディエの家は山の中腹にあり、頂上近くにあるクラコット村と麓のギーザ村のちょうど中間に位置している。二つの村を繋ぐ週に一度の定期便は、コーディエの家にも荷物や手紙を届けてくれるのだ。

「こんにちは、リラさん。はい、今週の分」
「ありがとうございます」

 料金を支払って御者から木箱を受け取り、「リラ・ツェアブレヒト」宛の手紙とコーディエが書いた手紙を交換する。郵袋に手紙を入れる御者の後ろには、荷物以外に珍しく客が乗っていた。
 このあたりでは余り見かけない、小麦色の肌をした青年だ。歳の頃はコーディエと同じ、三十前後といったところだろうか。鮮やかな青緑色のマントにくるまっていて、それでも寒いのか大きな体を縮こまらせている。後ろで一つにくくった褐色の髪には雪の欠片がくっついていて、それが夏を思わせる肌や服の色となんともチグハグだった。一人だけ違う季節から迷い込んできてしまったように見える。

「それじゃ、また来週」
「……あっ、はい、よろしくお願いします」

 男を見ていたせいで、少し返事が遅れた。麓へと走り去る馬ソリを見送ってから部屋に戻ると、再びしんとした静けさがコーディエを包みこんだ。
 基本的に依頼人とは手紙でしかやり取りしないし、ここを訪れるのは先程の定期便のみだ。これでしばらくまた誰にも会わずに済む、と考えながらコーディエが封筒を開けていると、軽く足元が揺れたような気がした。

「……ん?」

 ガラゴロガラ、と岩同士が打ち合うような音が響いてくる。雪崩だ。とはいえすぐ近くではなさそうだし、仮にそうだとしてもこの家には防壁魔法をかけているのでどうということもない。
 やれやれ、と便箋を取り出したコーディエの手が止まった。先ほど見送ったソリを思い出したのだ。

(まさか……な)

 そんなことはないだろう、と思うが嫌な胸騒ぎがする。玄関に向かったコーディエは立てかけてあった箒に跨り、空に飛び上がった。
 上空から見ると、雪崩のあった地点はすぐに見つかった。そこだけ皮膚を剥いたようにずるりと地肌が露出し、雪と木がはるか下の方まで滑り落ちている。
 道の先に目をやるが、馬ソリの姿はない。代わりに妙な走り方の馬が斜面を転がり落ちるように駆けていくのを見た気がして、冬だというのにコーディエの全身に嫌な汗が吹き出した。見間違いであれ。雪崩の跡に降り立ったコーディエの祈りは、雪の中から飛び出している細長い木切れに打ち砕かれた。

 墓標のように天を指すそれは、壊れたソリの一部に見えた。心臓が壊れんばかりに暴れ始める。

「嘘だろ!」

 叫んだコーディエはその根本にかけより、掘り返し始めた。きっと近くにいるはずだ。手ではダメだとすぐに気がついて、袖に手を突っ込んで杖を取り出す。風の魔法で一気に付近の雪を吹き飛ばすと、御者の黒い制服が雪の間から出てきた。

「だ、大丈……」

 御者を掘り起こしたコーディエは、そこから先の言葉を口にできなかった。大丈夫なはずがない。頭の半分がなくなっている。落ちる途中で石か何かにぶつかったのだろう。

(私の家に彼が寄らなければ……いや、あの時何か世間話の一つでも私がしていれば……)

 何かが少し違えば、こんな結果にはならなかったのだろうか。ぺたりと雪上に座り込んだコーディエが呆然と御者を眺めていると、掘り返した雪の中に青っぽいものが見えた。

 はっと気づいた。あのソリには客も乗っていたのではなかったか。

 同じ要領で雪を吹き飛ばすと、下からもう一人男が出てきた。青緑色のマントに黒っぽい髪、荷台に乗っていた客に違いない。しがみつくように剣を抱えている。

「おい……おいっ!」

 大丈夫か、とはもう聞けなかった。掘り出した男の顔を叩くと、うう、と小さく呻き声がする。
 立ちあがり、雪の中に放りっぱなしにしていた箒を掴んだコーディエは、御者と男を数秒見比べた。

「すまない……待っててくれ、必ず迎えに戻るから」

 客の男を箒の上に引っ張り上げ、箒に魔力を込める。宙に浮かんだコーディエは、周囲の景色が見えないほどの速さで空を飛んだ。
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