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第四章 Dio Perdito(ディ・オ・ペルディト)
Dio Perdito.13
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ミディアンの腿に頭を乗せたまま、ユージィンは眠るように瞼を閉ざしていた。真祖の操る音の影響を受けて沈んだことこそが、彼が純粋な人間ではないという証左なのだという。そして、長年の親友であるミディアンがそれを知らない筈はない。ユージィンの鳶色の瞳は、真昼の日照に弱かった。その上、帽子や上着がなければ高い日差しには耐えられないと語っていた。それも全て、彼が混血鬼であると聞けば一本の線で繋がる話だ。
未だに意識を取り戻さない親友の、頬骨の高い精悍な顔立ちを不安げに見下ろしながら、ミディアンは覚悟を固めたようにひとつ頷いた。
「──えぇ。あなたの秘密だけ聞き出して、こちらの罪について打ち明けない訳にはいきません。それは公平ではないから。…私の告解を、聞き遂げてくださいますか。」
「無論です。──では、父なる神と精霊に代わり、司祭ゲオルギウスが汝の懺悔を聞き遂げます。その大いなる慈愛の許で、全ての罪を告白なさい。…聖なるかな。」
「…回心を求める神と精霊の声に従い、神と精霊の子たるミディアンが心を開き、自らの罪を告白します──。」
長い睫毛を持つ眸を伏せ、ゲオルギウスと同じ臙脂の神服に身を包んだ神父は、時々懐古のように遠くを見つめる仕草と共に、重い唇をゆっくりと動かし始めた。
「…私とユージィンも、境遇はあなたと同じ。十二年病の流行で親兄弟と死に別れた孤児でした。同じ時期に、同じ教会孤児院に迎え入れられたのがユージィンです。私が五歳、彼が四歳の時でしょうか…。それ以来、片時も離れることなく一緒にいました。もう、三十年になります。──魂の半身、弐身一霊。そのくらい息の合う親友で、生まれは違っても、もう家族も同然です。」
「──三十年…?」
ミディアンの言葉に違和感を覚え、ゲオルギウスは眉間を軽く狭めながら彼の言葉を反復する。鼓動を確かめるようにユージィンの胸の上に置かれたミディアンの右手が、年の頃は二十代の半ばであるように見える聖堂番の黒衣の胸元を無意識のうちにぎゅっと握り締めて、小刻みに震えていた。
「…解っています。そう見えないことは。──ユージィンは、死に別れた彼の母から、臨終の床で『絶対に人には打ち明けてはいけない』と言い聞かされて、自分が何者であるのかを知っていました。そんな重大な秘密を、僕だけに分かち合ってくれた親友の心を、どうして軽んじられるでしょう。このことが人に知れ渡れば、最悪、異端として火刑に処されてもおかしくはない。」
ミディアンの語気が僅かに乱れ、凛々しい眉が歪む。ゲオルギウスの前で声を震わせながら吐き出される彼の本心には、それも恐らくは誰にも推し量れない苦悩と、怒りと、悲哀とが入り混じっていた。
「──だけど、ユージィンが一体何の罪を犯したというんですか?僕の親友はロザリオに触れることもできる。聖歌を歌うことも、神に祈ることも。彼は、何の問題もなく僕の聖堂番を務めている。それは間違いなく神と精霊の子であり、聖霊教徒の行いです。なのに…。…なのに…っ──!」
「時の流れが違うのか。…まあ、仕方のないことだ。真祖に近いモノほど、寿命は長い。聖具を恐れず、聖堂番になれるほど血が薄くても、片親の形質を受け継ぐことは、往々にしてあるだろう。」
淡々としたルゴシュの言葉は、ミディアンの告解を妨げはしない。千年以上の悠久の時を生き、人間の世の中を見つめ続けてきた小柄な男は、握り締めた拳を震わせながら言葉に詰まる人間の神父の苦悩の様を、程遠いところで優雅に寝そべったままでじっと見遣っている。
「…僕が神学校に入ろうと決意したのも、全ては彼の為です。身体は小さくとも、後方支援なら戦える。それに、吸血鬼や食人鬼について最も進んだ研究の知識を持つのは、武装司祭の化学科や薬学科ですから。僕が、推薦を得て大きな街の神学校に入ると言い出した時、ユージィンはすぐに僕の我儘に付き合ってくれました。…彼は、人並外れた体力を持っていますからね。同じ街で番兵としての訓練を受けて、いつかは共に聖都の守護として働こうと笑い合っていた。──けれど、それは叶わぬ夢だった。」
いつしか、気付いてしまった。
ミディアンとユージィンとを分け隔てる、あまりにも不条理で理不尽な『時の流れ』が存在することを。
心の内を語り続ける彼自身にも歯止めの効かない激情を血反吐のように吐き、祭壇の後ろに今なお掲げられた大きな木の聖霊十字を仰ぎ見て、嗚咽に近く震える声で続ける。
「…人目の多い街には、すぐに居られなくなります。気付かれたら一巻の終わりだ。僕とユージィンの本当の歳を知っている人がいる生まれ故郷からも、うんと遠いところへ。…だから、僕が辺境に誘った。強引に。──二十五歳の時、僕とユージィンは、共に放浪する武装司祭と聖堂番になりました。ひとつところに五年以上は居ない、と決めて。」
苦悩に歪むミディアンの眦から、二筋の濡れた雫が堪え切れずにほろりと溢れるのが見えた。
「…あぁ、神よ!一体──、一体、貴方の御前でユージィンが何の罪を犯したというのでしょうか…!生まれは彼の責任じゃない、ただ、他人と時の流れが違うというだけで、穢れた神敵と見做され続ける──。身体を流れる血が何であれ、ユージィンは、間違いなく同じ聖霊教徒だ…!なのに、なぜ、こんなに残酷な仕打ちをなさるのか──。そして、僕は、ただ僕と共にある親友を守り続けたいだけなんだ…!」
押し殺した声で吐き出される煩悶。ミディアンの双眸からは、抑えていた激情の箍が外れるままに、涙が次から次へとほろほろと溢れて止まることを知らなかった。頬を伝い、一滴、また一滴と落ちる純粋な透き通った涙は、彼の膝に頭を乗せて正体を失くしているユージィンの髪や頬を僅かに濡らす。
「誓って、ユージィンは人に害を為す存在じゃない。──僕の、幼い頃からのたった一人の親友。その正体を隠し通し、一緒に居たいと願うのは罪深い行いですか?…そもそも、ユージィンは罪人なんかじゃない…!ただ吸血鬼の血を引いているというだけで、それが罪だなんて、僕は断じて認めない──!」
声を震わせて乱れ惑うミディアンの双眸は、涙に濡れながらも強い激情の炎を宿していた。闇の眷属は神の敵、祝福されぬ者、存在そのものが否定されるべき闇の化身。そして、武装司祭とは、異教徒や人ならぬモノと相対し、これを打ち払うために存在する。
眉間をきつく寄せ、理不尽で遣る瀬無い怒りに眦を吊り上げるミディアン神父の発言は、明らかに、正当な聖霊教会の教えを真っ向から否定する、全き異端のそれである。他の司祭や司教に聞き咎められることがあれば、審問され、聖職を解かれるであろうことはまず間違いがない。それどころか、罪なき人々を欺き、神敵である混血鬼を庇った罪でユージィンと共に火刑に処される可能性さえある。
仮にも司祭の身が秘めていてはいけない筈の背徳を抱えたまま、吸血鬼の血を引く、唯一無二の親友であるユージィンを、彼は実に三十年もの間、庇い続けることを選んだ。
そこにどれほど途方もない、大きな決意と苦悩があったのかは、他人であるゲオルギウスには推し測る術がない。懊悩の海の深さと広さは、それを抱える個人にしか分かり得ぬもの。ミディアンがゲオルギウスの告解を聴き遂げて赦すことができなかったように、ゲオルギウスもまた、ミディアンの想いを断罪したり、罪を赦すことはできなかった。
たった一人の十七年と、二人きりの三十年。そのどちらが重いのか、ゲオルギウスに判ずることはできない。解るのは、ミディアンもまた、ゲオルギウスの抱えるそれとはまったく別種の棘草の帷子を纏い、残酷な運命の中で、当て所ない道のりを何処へともなく祈りと共に流浪しているということである。
聖霊教徒の司祭として民を導く立場にありながら、同じ口で聖霊教会の教えを呪い、その不条理に怒るミディアン。その眼鏡越しの強い絶望の色に撃たれ、ゲオルギウスは睫毛を伏せて深々歎息する。
「…神よ、大いなる神。御身は、我が身を何処へ向かわせ給う。鋭き棘草で編んだ帷子を纏い、使命の大剣を背負って日照りを歩く、この身を何処へと向かわせ給う──。」
胸に手を当てて唱えるのは、あの夜から幾度繰り返し唱えたか解らない、祈祷書の晩祷の中の一節だった。ミディアンがゲオルギウスの運命に祈りを捧げたように、ゲオルギウスも、神が定め給うたミディアンの道行きに幸いあれかしと祈り続けることしかできない。背徳という名の『罪』をしかと聞き終え、大きく十字を切って、改めてミディアンの泣き濡れた眼差しと相対する。
「──俺にもまた、あなたの罪を赦すことはできません。そして、神に代わってあなたの問いに答えることも。神と精霊の子であるミディアン、そしてユージィン。だから、あなた方の秘密を、俺は忘れることにします。聞かなかったことにはしない、ただ、忘れるのです。…神の祝福あれ。」
「──ありがとう、ゲオルギウス。…聖なるかな。」
膝の上に乗せたユージィンの黒髪をそっと撫でながら、ミディアンは晴れやかに微笑した。穏やかな、凪いだ海のような茶色い瞳は、人知れず抱えていた重荷を打ち明けた後の爽快と、どうにもならない絶望の双方を孕んでゲオルギウスの濃青をじっと見詰めていた。
「これで、罪の告解は終わりました。──お互いに。…神と精霊がこの足を何処に導こうとも、私は…私たちは、聖霊教会の敬虔な使徒として…。」
「いいや、待て。」
ミディアンの言葉を唐突に斬ったのは、祭壇の上の銀髪の男だった。
人間同士の罪のやり取りを、面白くもなさそうにただ聞いていたルゴシュが、鷹揚に身を起こして石造りの主祭壇の上から軽やかに飛び降りてくる。闇に輝く翠色の瞳を煌めかせ、長い外套の裾を優雅に捌きながら、彼は硬い靴音を立ててゆっくりと近づいてきた。
「何のつもりだ、ルゴシュ。」
ゲオルギウスの鋭い問い掛けの声にも、ルゴシュは一向に動じない。壮齢の姿をした不死者の足は、ゲオルギウスを通り越し、ミディアンとユージィンの前でぴたりと止まった。
「──罪の告解は終わった、と言ったな。ミディアン神父。…そしてオマエは、先程ゲオルギウスにこう言った。『あなたの秘密だけ聞き出して、こちらが話さないのは公平ではない』と。…オマエ、まだ打ち明けていないことがあるだろ。」
「何ですって──?」
硬い表情でキリリと口許を引き結ぶミディアンは、胸元に揺れる聖霊十字の念珠を、無意識のようにぎゅっと握り締めていた。腰に手を宛がい、口角に薄ら嗤いを浮かべながら、やや低いところにあるミディアンの表情を見下ろすルゴシュの眼差しには、確信的な何かを掴んでいる者の堂々たる威圧の色が宿っている。
「聖霊教徒にとっての大きな『罪』とは何なのか、この私にも解ることがある。──然るに、オマエはまだ話していない。もうひとつの『罪』を。…ゲオルギウス神父は、腹を括って全て吐いたとも。あの夜にここで私に何をしたかも、全て。その上で、それでは不公平にも程があるというものだ。…そう思わないかね?」
「──何の、ことでしょう。」
ルゴシュを見上げるミディアンの視線が僅かに揺らいだのは、人ならざる強大な敵意と対峙しているからだろうか。少なくともゲオルギウスには、ルゴシュが暴こうとしている『罪』の重さは見当もつかない。告解の内容だけでも存分に断罪される理由のあるミディアンが、この上何を秘め隠しているというのだろうか。
未だに意識を取り戻さない親友の、頬骨の高い精悍な顔立ちを不安げに見下ろしながら、ミディアンは覚悟を固めたようにひとつ頷いた。
「──えぇ。あなたの秘密だけ聞き出して、こちらの罪について打ち明けない訳にはいきません。それは公平ではないから。…私の告解を、聞き遂げてくださいますか。」
「無論です。──では、父なる神と精霊に代わり、司祭ゲオルギウスが汝の懺悔を聞き遂げます。その大いなる慈愛の許で、全ての罪を告白なさい。…聖なるかな。」
「…回心を求める神と精霊の声に従い、神と精霊の子たるミディアンが心を開き、自らの罪を告白します──。」
長い睫毛を持つ眸を伏せ、ゲオルギウスと同じ臙脂の神服に身を包んだ神父は、時々懐古のように遠くを見つめる仕草と共に、重い唇をゆっくりと動かし始めた。
「…私とユージィンも、境遇はあなたと同じ。十二年病の流行で親兄弟と死に別れた孤児でした。同じ時期に、同じ教会孤児院に迎え入れられたのがユージィンです。私が五歳、彼が四歳の時でしょうか…。それ以来、片時も離れることなく一緒にいました。もう、三十年になります。──魂の半身、弐身一霊。そのくらい息の合う親友で、生まれは違っても、もう家族も同然です。」
「──三十年…?」
ミディアンの言葉に違和感を覚え、ゲオルギウスは眉間を軽く狭めながら彼の言葉を反復する。鼓動を確かめるようにユージィンの胸の上に置かれたミディアンの右手が、年の頃は二十代の半ばであるように見える聖堂番の黒衣の胸元を無意識のうちにぎゅっと握り締めて、小刻みに震えていた。
「…解っています。そう見えないことは。──ユージィンは、死に別れた彼の母から、臨終の床で『絶対に人には打ち明けてはいけない』と言い聞かされて、自分が何者であるのかを知っていました。そんな重大な秘密を、僕だけに分かち合ってくれた親友の心を、どうして軽んじられるでしょう。このことが人に知れ渡れば、最悪、異端として火刑に処されてもおかしくはない。」
ミディアンの語気が僅かに乱れ、凛々しい眉が歪む。ゲオルギウスの前で声を震わせながら吐き出される彼の本心には、それも恐らくは誰にも推し量れない苦悩と、怒りと、悲哀とが入り混じっていた。
「──だけど、ユージィンが一体何の罪を犯したというんですか?僕の親友はロザリオに触れることもできる。聖歌を歌うことも、神に祈ることも。彼は、何の問題もなく僕の聖堂番を務めている。それは間違いなく神と精霊の子であり、聖霊教徒の行いです。なのに…。…なのに…っ──!」
「時の流れが違うのか。…まあ、仕方のないことだ。真祖に近いモノほど、寿命は長い。聖具を恐れず、聖堂番になれるほど血が薄くても、片親の形質を受け継ぐことは、往々にしてあるだろう。」
淡々としたルゴシュの言葉は、ミディアンの告解を妨げはしない。千年以上の悠久の時を生き、人間の世の中を見つめ続けてきた小柄な男は、握り締めた拳を震わせながら言葉に詰まる人間の神父の苦悩の様を、程遠いところで優雅に寝そべったままでじっと見遣っている。
「…僕が神学校に入ろうと決意したのも、全ては彼の為です。身体は小さくとも、後方支援なら戦える。それに、吸血鬼や食人鬼について最も進んだ研究の知識を持つのは、武装司祭の化学科や薬学科ですから。僕が、推薦を得て大きな街の神学校に入ると言い出した時、ユージィンはすぐに僕の我儘に付き合ってくれました。…彼は、人並外れた体力を持っていますからね。同じ街で番兵としての訓練を受けて、いつかは共に聖都の守護として働こうと笑い合っていた。──けれど、それは叶わぬ夢だった。」
いつしか、気付いてしまった。
ミディアンとユージィンとを分け隔てる、あまりにも不条理で理不尽な『時の流れ』が存在することを。
心の内を語り続ける彼自身にも歯止めの効かない激情を血反吐のように吐き、祭壇の後ろに今なお掲げられた大きな木の聖霊十字を仰ぎ見て、嗚咽に近く震える声で続ける。
「…人目の多い街には、すぐに居られなくなります。気付かれたら一巻の終わりだ。僕とユージィンの本当の歳を知っている人がいる生まれ故郷からも、うんと遠いところへ。…だから、僕が辺境に誘った。強引に。──二十五歳の時、僕とユージィンは、共に放浪する武装司祭と聖堂番になりました。ひとつところに五年以上は居ない、と決めて。」
苦悩に歪むミディアンの眦から、二筋の濡れた雫が堪え切れずにほろりと溢れるのが見えた。
「…あぁ、神よ!一体──、一体、貴方の御前でユージィンが何の罪を犯したというのでしょうか…!生まれは彼の責任じゃない、ただ、他人と時の流れが違うというだけで、穢れた神敵と見做され続ける──。身体を流れる血が何であれ、ユージィンは、間違いなく同じ聖霊教徒だ…!なのに、なぜ、こんなに残酷な仕打ちをなさるのか──。そして、僕は、ただ僕と共にある親友を守り続けたいだけなんだ…!」
押し殺した声で吐き出される煩悶。ミディアンの双眸からは、抑えていた激情の箍が外れるままに、涙が次から次へとほろほろと溢れて止まることを知らなかった。頬を伝い、一滴、また一滴と落ちる純粋な透き通った涙は、彼の膝に頭を乗せて正体を失くしているユージィンの髪や頬を僅かに濡らす。
「誓って、ユージィンは人に害を為す存在じゃない。──僕の、幼い頃からのたった一人の親友。その正体を隠し通し、一緒に居たいと願うのは罪深い行いですか?…そもそも、ユージィンは罪人なんかじゃない…!ただ吸血鬼の血を引いているというだけで、それが罪だなんて、僕は断じて認めない──!」
声を震わせて乱れ惑うミディアンの双眸は、涙に濡れながらも強い激情の炎を宿していた。闇の眷属は神の敵、祝福されぬ者、存在そのものが否定されるべき闇の化身。そして、武装司祭とは、異教徒や人ならぬモノと相対し、これを打ち払うために存在する。
眉間をきつく寄せ、理不尽で遣る瀬無い怒りに眦を吊り上げるミディアン神父の発言は、明らかに、正当な聖霊教会の教えを真っ向から否定する、全き異端のそれである。他の司祭や司教に聞き咎められることがあれば、審問され、聖職を解かれるであろうことはまず間違いがない。それどころか、罪なき人々を欺き、神敵である混血鬼を庇った罪でユージィンと共に火刑に処される可能性さえある。
仮にも司祭の身が秘めていてはいけない筈の背徳を抱えたまま、吸血鬼の血を引く、唯一無二の親友であるユージィンを、彼は実に三十年もの間、庇い続けることを選んだ。
そこにどれほど途方もない、大きな決意と苦悩があったのかは、他人であるゲオルギウスには推し測る術がない。懊悩の海の深さと広さは、それを抱える個人にしか分かり得ぬもの。ミディアンがゲオルギウスの告解を聴き遂げて赦すことができなかったように、ゲオルギウスもまた、ミディアンの想いを断罪したり、罪を赦すことはできなかった。
たった一人の十七年と、二人きりの三十年。そのどちらが重いのか、ゲオルギウスに判ずることはできない。解るのは、ミディアンもまた、ゲオルギウスの抱えるそれとはまったく別種の棘草の帷子を纏い、残酷な運命の中で、当て所ない道のりを何処へともなく祈りと共に流浪しているということである。
聖霊教徒の司祭として民を導く立場にありながら、同じ口で聖霊教会の教えを呪い、その不条理に怒るミディアン。その眼鏡越しの強い絶望の色に撃たれ、ゲオルギウスは睫毛を伏せて深々歎息する。
「…神よ、大いなる神。御身は、我が身を何処へ向かわせ給う。鋭き棘草で編んだ帷子を纏い、使命の大剣を背負って日照りを歩く、この身を何処へと向かわせ給う──。」
胸に手を当てて唱えるのは、あの夜から幾度繰り返し唱えたか解らない、祈祷書の晩祷の中の一節だった。ミディアンがゲオルギウスの運命に祈りを捧げたように、ゲオルギウスも、神が定め給うたミディアンの道行きに幸いあれかしと祈り続けることしかできない。背徳という名の『罪』をしかと聞き終え、大きく十字を切って、改めてミディアンの泣き濡れた眼差しと相対する。
「──俺にもまた、あなたの罪を赦すことはできません。そして、神に代わってあなたの問いに答えることも。神と精霊の子であるミディアン、そしてユージィン。だから、あなた方の秘密を、俺は忘れることにします。聞かなかったことにはしない、ただ、忘れるのです。…神の祝福あれ。」
「──ありがとう、ゲオルギウス。…聖なるかな。」
膝の上に乗せたユージィンの黒髪をそっと撫でながら、ミディアンは晴れやかに微笑した。穏やかな、凪いだ海のような茶色い瞳は、人知れず抱えていた重荷を打ち明けた後の爽快と、どうにもならない絶望の双方を孕んでゲオルギウスの濃青をじっと見詰めていた。
「これで、罪の告解は終わりました。──お互いに。…神と精霊がこの足を何処に導こうとも、私は…私たちは、聖霊教会の敬虔な使徒として…。」
「いいや、待て。」
ミディアンの言葉を唐突に斬ったのは、祭壇の上の銀髪の男だった。
人間同士の罪のやり取りを、面白くもなさそうにただ聞いていたルゴシュが、鷹揚に身を起こして石造りの主祭壇の上から軽やかに飛び降りてくる。闇に輝く翠色の瞳を煌めかせ、長い外套の裾を優雅に捌きながら、彼は硬い靴音を立ててゆっくりと近づいてきた。
「何のつもりだ、ルゴシュ。」
ゲオルギウスの鋭い問い掛けの声にも、ルゴシュは一向に動じない。壮齢の姿をした不死者の足は、ゲオルギウスを通り越し、ミディアンとユージィンの前でぴたりと止まった。
「──罪の告解は終わった、と言ったな。ミディアン神父。…そしてオマエは、先程ゲオルギウスにこう言った。『あなたの秘密だけ聞き出して、こちらが話さないのは公平ではない』と。…オマエ、まだ打ち明けていないことがあるだろ。」
「何ですって──?」
硬い表情でキリリと口許を引き結ぶミディアンは、胸元に揺れる聖霊十字の念珠を、無意識のようにぎゅっと握り締めていた。腰に手を宛がい、口角に薄ら嗤いを浮かべながら、やや低いところにあるミディアンの表情を見下ろすルゴシュの眼差しには、確信的な何かを掴んでいる者の堂々たる威圧の色が宿っている。
「聖霊教徒にとっての大きな『罪』とは何なのか、この私にも解ることがある。──然るに、オマエはまだ話していない。もうひとつの『罪』を。…ゲオルギウス神父は、腹を括って全て吐いたとも。あの夜にここで私に何をしたかも、全て。その上で、それでは不公平にも程があるというものだ。…そう思わないかね?」
「──何の、ことでしょう。」
ルゴシュを見上げるミディアンの視線が僅かに揺らいだのは、人ならざる強大な敵意と対峙しているからだろうか。少なくともゲオルギウスには、ルゴシュが暴こうとしている『罪』の重さは見当もつかない。告解の内容だけでも存分に断罪される理由のあるミディアンが、この上何を秘め隠しているというのだろうか。
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