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第五章 Memorado pri Verda(メモラード・プリ・ヴェルダ)
Memorado pri Verda.2
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*****
「──我らは感謝します。この一年、神と精霊が我らの身に命を授け給うたことを。我らは感謝します。新たなる一年を、神と精霊の威光の許で迎えられることを。また、この足が死も、苦しみも、離別の悲しみもない永久の国に近付けることを感謝します。…聖なるかな。」
「聖なるかな。」
朗々とした声で祈祷書を読み上げる司祭ゲオルギウスに続き、敬虔な聖霊教徒の唱える厳かな祈りの言葉が村の小さな聖堂の中を満たした。生まれた日に関わらず、一年の最後を締め括る安息の日の聖奉礼を終えれば、聖霊教徒はひとつの歳を重ねるというしきたりがある。神と精霊の威光を宿した小さなパンの欠片を村人に授けて礼拝を終え、最後の一人が聖堂を後にするまで、ゲオルギウスは祭壇の前にじっと佇んでその後ろ姿を見詰めていた。
宿敵の姿を追い続け、一人の武装神父としてこの辺境の村グレンツドルフに転任してから、実に一年の時が過ぎようとしていた。二十三歳のゲオルギウスは数え年で二十四歳になり、十七年前の夜の惨劇は十八年の昔に書き換えられる。
元々孤児であるゲオルギウスは、実際に自分が生まれた月と日を知らない。行き倒れの両親が教会に託した赤子の例に漏れず、新年の最初の日を産まれた日だと規則的に定められている身にとって、歳を重ねるという実感は況してなかなか湧かないものだった。たった二十四年でさえそう思えるのに、千年以上もこの歳取りの日を迎えている男は、一体どのような想いで過ぎ行く日を見詰めているのだろう。
邂逅を果たしたあの夜から執念で追い詰め、相対し、その思惑や過ぎた日の話の断片を聞けば聞くほど、ルゴシュという存在が背負っている歴史が浮き彫りになってくる。己の記憶の中ではただの残虐な吸血真祖に過ぎなかったラ・ルゴシュ辺境伯は、顔を合わせれば実に色々な表情を見せてくれた。
時として居丈高で尊大、時としてゲオルギウスが呆れるほど大胆な振る舞いをし、また時として賢者のように正鵠を射た理知ある言葉を述べる彼は、人知を超えた強大な力を持つ不死鬼が、他の人間と同じく一個の生きた人格を持つ存在であることをゲオルギウスに知らしめてくれる。そして、知れば知るほど、この心の中に焼き付いている憎悪という名のルゴシュへの想いは、複雑に変化していくばかりだった。
『神よ、神。偉大なる御身は、聖なる御身は、我が足を何処へと向かわせ給うのか。』
聖堂の重い扉を閉め、コツ、コツ、と高い足音を響かせて祭壇の前に向かうゲオルギウスは、主祭壇の上に掲げられた木彫りの聖霊十字を前にして、両膝を折って深々と黙祷を捧げる。如何に神と精霊の敵である吸血真祖と触れ合おうが、禁忌とされる男との情交に手を染めようが、己はどうあっても聖霊教徒以外にはなり得ない。この罪の重さを計り、魂を正義の天秤に掛けられる者は、死後の世界で神の名の許に最終審判を行うという精霊をおいて他にいない。あの日、告解を受け止めたミディアン神父が司祭としてゲオルギウスに赦しを与えられなかったように、ゲオルギウスが司祭としてミディアンとユージィンの罪を赦すことができなかったように、この心の中に巣食うものは、所詮人間の意思ではどうにもならないほど重く捩れた真実と感情だ。
これほどまでに苦い懊悩を抱えることになるとは、このグレンツドルフの地に赴いた一年前には考えてもいなかった。今、運命は、ゲオルギウスの前に一年という節目を見せようとしているというのに、この足の進む方角は依然として解らないままだ。
ただ、ルゴシュという翠色をした闇が、ゲオルギウスと共にある。誘引という目に見えない力でこの心を絡め取り、侵食してくる翠の闇。
神前で大きく十字を切ると、深々と嘆息しながら腰を上げた。
間もなく、この一年で最後の穢れの新月が訪れる。この新月を乗り切れば、新たな歳を迎える聖霊教会の儀礼が喜びと共に執り行われる筈だった。ほんの一年ほど前までは、森を徘徊する屍人や下位の吸血鬼の脅威に曝されていた村には、今や一人の若い武装司祭の手で揺るぎない平穏がもたらされ、人々は最早、闇の眷属の脅威に怯える夜を過ごさなくても済むようになっている。不寝番すら不要になった聖課の夜は、ある意味、ゲオルギウスにとっては裏切りの夜でもあった。敬虔な聖霊教徒の村人たちを欺いて、何百年もこの森に君臨してきた辺境伯ラ・ルゴシュと逢引を交わす夜。
この在り方がいつまで続くか知る術はないとしても、自分の下した決断が間違いだとは思いたくない。それは、アウエンブルフの悩める神の兄弟、ミディアン神父が教えてくれた考え方だった。もし、この行いが神と精霊に裁かれるのであれば、奈落の底にでも墜ちる覚悟で前だけを向き、武装司祭として、差し伸べられたルゴシュの手を掴み取ること。
今のゲオルギウスは、迷いを抱きながらも、自身の両脚でしっかりと大地を踏みしめて佇み、毅然と生きられるようになっていた。
*****
歳の最後の新月の晩は、殊更に寒気の強い夜だった。
星空を覆い隠す重い雲は、間もなくこの地に初雪を降らせるだろうと思われる。海から遠く、乾いたグレンツドルフの平野に雪が積もることはそう多くないと聞いたが、分厚い冬の外套の前を幾ら押さえて首筋を埋めても、染み込んでくる寒さだけは防ぎようがなかった。
こんな寒い晩も、人間ではないルゴシュにとってはさして不快ではないと言っていたのを思い出す。一方、松明を手に森を進むゲオルギウスは、暖炉の前が恋しくなるほどの寒さにすっかり閉口していた。もう間もなく、二人が落ち合う暗黙の場所となった廃教会が見えてくる頃合いだ。歩き慣れた森の獣道には、邪悪な闇の眷属の気配すらない。村の程近くを闊歩する下級のそれらを一年掛けて全て葬った今、森の余程奥深くに踏み込まなければ、新たな屍人や吸血鬼、食人鬼の類に出くわすことはないだろう。
間もなく、獣道は古い石畳となり、古き神の子の家の黒い影が見えてきた。そして、扉の剥落した聖堂の前には、闇に耀う銀色の髪をした黒衣の姿が佇んでいる。
彼は、松明を翳し、燃える炎の向こうで真っ白に息を曇らせる若い神父の顔を、その翠の睛で暫し物も言わずに見上げていた。そして、無言のうちに胸元を指差し、その白い肌に致命的な火傷を与えうる聖別された銀で作られた念珠を、武装神服の中に仕舞い込むように求めてくる。
「──これでいいのか。」
外套の前を開き、氷のように冷えた聖霊十字の念珠を神服の詰襟の下に落とすだけでも相当に憂鬱だった。率直に、こんな寒い日に衣服を解いて交わるように求められても、全く興が乗らない。
どう見ても気乗りしない神父の浮かない顔を見上げ、ルゴシュはひとつ頷いて、何故か牙を覗かせてニコリと微笑する。その表情の意味が解らず、怪訝に眉を寄せるゲオルギウス。
「うん、それでいい。…後は任せておくように。」
その言の葉の意味を問い質す間もなく、ルゴシュが素早く動いた。何があろうとも、身体を重ねた時にどんなに屈辱的な抱き方をしようとも、決してこの身に危害を加えてくることはなかった不死者の動きは、油断しきって武器を手にしてもいなかったゲオルギウスにとっては思いも拠らないことだった。小柄な体躯が瞬く間に懐に飛び込み、伸びてきた腕が、信じられないほどの力で首筋に絡みつき、頸動脈を一思いに強く圧迫してくる。
「──ぐ…ッ…!」
それは、ゲオルギウスの全き油断が招いた結果だ。何の言葉を発する間もなく、意識が急速に闇の底に落ちていくのを感じる。指先から離れた松明を蹴り飛ばすルゴシュの靴先だけが、崩れ落ちる間際に目にした最後の光景だった。
「──ねぇ、そろそろ起きなよ、ギィ…。」
「…ん…ッ──。」
唇をピリリと灼く、強い気付けの酒精の香りがする。沈んでいた意識が急激に気絶の縁から引き上げられ、不快な刺激に眉を寄せるゲオルギウスは、自分が何処か温かく、柔らかい場所の上に仰向けに寝かされているのだということを真っ先に察知した。緩やかに瞬きをしながらゆっくりと瞼を持ち上げれば、程近い所に、葡萄の強い蒸留酒の小瓶を手にしたルゴシュの顔がある。ここが何処であるのかを考える前に、ルゴシュが目にも止まらぬ速さで自身の首を締め上げ、気絶させたのだという事実にまず行き当たった。盛大に顔を顰めて怒りを露にする若い神父の唇に、数滴の強い酒を注いで起こしたのであろう壮齢の不死鬼は、事も無げにひょいと肩を竦めて、寄せていた顔をゆっくりと離す。
「だってキミ、掴まえたまま空を飛ばれるの、キライだったろ。だから、あらかじめ寝かせておいただけだよ…。」
「ルゴシュ──、お前、なぁ…。」
身体の底から湧き上がってくる苛立ちと呆れ、そして仮にも宿敵の前で無様を晒した自分自身の失態への落胆で小刻みに肩先が震えた。そして、自分が寝かされている場所があの冷たく暗い廃教会の中ではなく、暖炉にくべられた薪の匂いがするどこか別の部屋であることを漸く悟る。
靴と外套、そして武器帯具は、恐らくはルゴシュの手で脱がされていた。柔らかな敷布の上からそろりと上半身を起こしてみれば、自分が寝かされていたのは、古風だが瀟洒で広い寝台の上である。窓という窓が塗り込められた地下室のような部屋に、暖炉の炎だけが赤々と燃えている。ルゴシュの纏う、誘引の甘ったるい香気の欠片が僅かに鼻先を擽った。
暫くの間、黙って燃える炎を見詰め、気持ちを整理しようとしていたゲオルギウスの傍らに腰を降ろし、年嵩の男は悪戯な笑みを浮かべている。
「──キミに、辺境伯たる私の寝室に侍る光栄を給わそうじゃないか。辺境の砦…不死伯の根城たる居城へようこそ。ヒトの子のキミよ。」
「お前の砦──だって…?」
なるほど、昼なお暗そうな、外の様子も窺うことができない古い石造りの居室は、城塞の中の一部屋だと言われれば納得の行く造りだった。その時初めて、辺境の森の奥深く、異教徒と領土を接する場所にあるという不死伯の居城に攫って来られたのだということに気付く。
怒りより、苛立ちより、今は驚きが勝って、目を瞠ることしかできない。想像さえしたことのなかったルゴシュの寝室は思った以上に小綺麗で、寝台の広さは、二人で寝たとしても充分に余るものだった。見回す限り、他に調度品というものはほとんど見当たらない殺風景で広い部屋の中に、彼はもう数百年も棲み続けているのだという。
「──この部屋の暖炉に火を入れたのも、随分と久しぶりだ。灯りすら、私には必要がないからね。文字通り、寝るためだけの部屋。…だが、寒い外より幾分か心地がいいだろう?私にとっても、ヒトの聖域よりかは余程居心地がいい。」
「…それが、わざわざ俺を失神させてまでここに運んできた理由か。」
キシリ、と寝台を軋ませてゲオルギウスの傍らに腹這いになりながら、皺の寄った眦を細めて、ルゴシュは心の底から楽しげな面持ちで若者の渋面をじっと覗き込んでいた。
「──我らは感謝します。この一年、神と精霊が我らの身に命を授け給うたことを。我らは感謝します。新たなる一年を、神と精霊の威光の許で迎えられることを。また、この足が死も、苦しみも、離別の悲しみもない永久の国に近付けることを感謝します。…聖なるかな。」
「聖なるかな。」
朗々とした声で祈祷書を読み上げる司祭ゲオルギウスに続き、敬虔な聖霊教徒の唱える厳かな祈りの言葉が村の小さな聖堂の中を満たした。生まれた日に関わらず、一年の最後を締め括る安息の日の聖奉礼を終えれば、聖霊教徒はひとつの歳を重ねるというしきたりがある。神と精霊の威光を宿した小さなパンの欠片を村人に授けて礼拝を終え、最後の一人が聖堂を後にするまで、ゲオルギウスは祭壇の前にじっと佇んでその後ろ姿を見詰めていた。
宿敵の姿を追い続け、一人の武装神父としてこの辺境の村グレンツドルフに転任してから、実に一年の時が過ぎようとしていた。二十三歳のゲオルギウスは数え年で二十四歳になり、十七年前の夜の惨劇は十八年の昔に書き換えられる。
元々孤児であるゲオルギウスは、実際に自分が生まれた月と日を知らない。行き倒れの両親が教会に託した赤子の例に漏れず、新年の最初の日を産まれた日だと規則的に定められている身にとって、歳を重ねるという実感は況してなかなか湧かないものだった。たった二十四年でさえそう思えるのに、千年以上もこの歳取りの日を迎えている男は、一体どのような想いで過ぎ行く日を見詰めているのだろう。
邂逅を果たしたあの夜から執念で追い詰め、相対し、その思惑や過ぎた日の話の断片を聞けば聞くほど、ルゴシュという存在が背負っている歴史が浮き彫りになってくる。己の記憶の中ではただの残虐な吸血真祖に過ぎなかったラ・ルゴシュ辺境伯は、顔を合わせれば実に色々な表情を見せてくれた。
時として居丈高で尊大、時としてゲオルギウスが呆れるほど大胆な振る舞いをし、また時として賢者のように正鵠を射た理知ある言葉を述べる彼は、人知を超えた強大な力を持つ不死鬼が、他の人間と同じく一個の生きた人格を持つ存在であることをゲオルギウスに知らしめてくれる。そして、知れば知るほど、この心の中に焼き付いている憎悪という名のルゴシュへの想いは、複雑に変化していくばかりだった。
『神よ、神。偉大なる御身は、聖なる御身は、我が足を何処へと向かわせ給うのか。』
聖堂の重い扉を閉め、コツ、コツ、と高い足音を響かせて祭壇の前に向かうゲオルギウスは、主祭壇の上に掲げられた木彫りの聖霊十字を前にして、両膝を折って深々と黙祷を捧げる。如何に神と精霊の敵である吸血真祖と触れ合おうが、禁忌とされる男との情交に手を染めようが、己はどうあっても聖霊教徒以外にはなり得ない。この罪の重さを計り、魂を正義の天秤に掛けられる者は、死後の世界で神の名の許に最終審判を行うという精霊をおいて他にいない。あの日、告解を受け止めたミディアン神父が司祭としてゲオルギウスに赦しを与えられなかったように、ゲオルギウスが司祭としてミディアンとユージィンの罪を赦すことができなかったように、この心の中に巣食うものは、所詮人間の意思ではどうにもならないほど重く捩れた真実と感情だ。
これほどまでに苦い懊悩を抱えることになるとは、このグレンツドルフの地に赴いた一年前には考えてもいなかった。今、運命は、ゲオルギウスの前に一年という節目を見せようとしているというのに、この足の進む方角は依然として解らないままだ。
ただ、ルゴシュという翠色をした闇が、ゲオルギウスと共にある。誘引という目に見えない力でこの心を絡め取り、侵食してくる翠の闇。
神前で大きく十字を切ると、深々と嘆息しながら腰を上げた。
間もなく、この一年で最後の穢れの新月が訪れる。この新月を乗り切れば、新たな歳を迎える聖霊教会の儀礼が喜びと共に執り行われる筈だった。ほんの一年ほど前までは、森を徘徊する屍人や下位の吸血鬼の脅威に曝されていた村には、今や一人の若い武装司祭の手で揺るぎない平穏がもたらされ、人々は最早、闇の眷属の脅威に怯える夜を過ごさなくても済むようになっている。不寝番すら不要になった聖課の夜は、ある意味、ゲオルギウスにとっては裏切りの夜でもあった。敬虔な聖霊教徒の村人たちを欺いて、何百年もこの森に君臨してきた辺境伯ラ・ルゴシュと逢引を交わす夜。
この在り方がいつまで続くか知る術はないとしても、自分の下した決断が間違いだとは思いたくない。それは、アウエンブルフの悩める神の兄弟、ミディアン神父が教えてくれた考え方だった。もし、この行いが神と精霊に裁かれるのであれば、奈落の底にでも墜ちる覚悟で前だけを向き、武装司祭として、差し伸べられたルゴシュの手を掴み取ること。
今のゲオルギウスは、迷いを抱きながらも、自身の両脚でしっかりと大地を踏みしめて佇み、毅然と生きられるようになっていた。
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歳の最後の新月の晩は、殊更に寒気の強い夜だった。
星空を覆い隠す重い雲は、間もなくこの地に初雪を降らせるだろうと思われる。海から遠く、乾いたグレンツドルフの平野に雪が積もることはそう多くないと聞いたが、分厚い冬の外套の前を幾ら押さえて首筋を埋めても、染み込んでくる寒さだけは防ぎようがなかった。
こんな寒い晩も、人間ではないルゴシュにとってはさして不快ではないと言っていたのを思い出す。一方、松明を手に森を進むゲオルギウスは、暖炉の前が恋しくなるほどの寒さにすっかり閉口していた。もう間もなく、二人が落ち合う暗黙の場所となった廃教会が見えてくる頃合いだ。歩き慣れた森の獣道には、邪悪な闇の眷属の気配すらない。村の程近くを闊歩する下級のそれらを一年掛けて全て葬った今、森の余程奥深くに踏み込まなければ、新たな屍人や吸血鬼、食人鬼の類に出くわすことはないだろう。
間もなく、獣道は古い石畳となり、古き神の子の家の黒い影が見えてきた。そして、扉の剥落した聖堂の前には、闇に耀う銀色の髪をした黒衣の姿が佇んでいる。
彼は、松明を翳し、燃える炎の向こうで真っ白に息を曇らせる若い神父の顔を、その翠の睛で暫し物も言わずに見上げていた。そして、無言のうちに胸元を指差し、その白い肌に致命的な火傷を与えうる聖別された銀で作られた念珠を、武装神服の中に仕舞い込むように求めてくる。
「──これでいいのか。」
外套の前を開き、氷のように冷えた聖霊十字の念珠を神服の詰襟の下に落とすだけでも相当に憂鬱だった。率直に、こんな寒い日に衣服を解いて交わるように求められても、全く興が乗らない。
どう見ても気乗りしない神父の浮かない顔を見上げ、ルゴシュはひとつ頷いて、何故か牙を覗かせてニコリと微笑する。その表情の意味が解らず、怪訝に眉を寄せるゲオルギウス。
「うん、それでいい。…後は任せておくように。」
その言の葉の意味を問い質す間もなく、ルゴシュが素早く動いた。何があろうとも、身体を重ねた時にどんなに屈辱的な抱き方をしようとも、決してこの身に危害を加えてくることはなかった不死者の動きは、油断しきって武器を手にしてもいなかったゲオルギウスにとっては思いも拠らないことだった。小柄な体躯が瞬く間に懐に飛び込み、伸びてきた腕が、信じられないほどの力で首筋に絡みつき、頸動脈を一思いに強く圧迫してくる。
「──ぐ…ッ…!」
それは、ゲオルギウスの全き油断が招いた結果だ。何の言葉を発する間もなく、意識が急速に闇の底に落ちていくのを感じる。指先から離れた松明を蹴り飛ばすルゴシュの靴先だけが、崩れ落ちる間際に目にした最後の光景だった。
「──ねぇ、そろそろ起きなよ、ギィ…。」
「…ん…ッ──。」
唇をピリリと灼く、強い気付けの酒精の香りがする。沈んでいた意識が急激に気絶の縁から引き上げられ、不快な刺激に眉を寄せるゲオルギウスは、自分が何処か温かく、柔らかい場所の上に仰向けに寝かされているのだということを真っ先に察知した。緩やかに瞬きをしながらゆっくりと瞼を持ち上げれば、程近い所に、葡萄の強い蒸留酒の小瓶を手にしたルゴシュの顔がある。ここが何処であるのかを考える前に、ルゴシュが目にも止まらぬ速さで自身の首を締め上げ、気絶させたのだという事実にまず行き当たった。盛大に顔を顰めて怒りを露にする若い神父の唇に、数滴の強い酒を注いで起こしたのであろう壮齢の不死鬼は、事も無げにひょいと肩を竦めて、寄せていた顔をゆっくりと離す。
「だってキミ、掴まえたまま空を飛ばれるの、キライだったろ。だから、あらかじめ寝かせておいただけだよ…。」
「ルゴシュ──、お前、なぁ…。」
身体の底から湧き上がってくる苛立ちと呆れ、そして仮にも宿敵の前で無様を晒した自分自身の失態への落胆で小刻みに肩先が震えた。そして、自分が寝かされている場所があの冷たく暗い廃教会の中ではなく、暖炉にくべられた薪の匂いがするどこか別の部屋であることを漸く悟る。
靴と外套、そして武器帯具は、恐らくはルゴシュの手で脱がされていた。柔らかな敷布の上からそろりと上半身を起こしてみれば、自分が寝かされていたのは、古風だが瀟洒で広い寝台の上である。窓という窓が塗り込められた地下室のような部屋に、暖炉の炎だけが赤々と燃えている。ルゴシュの纏う、誘引の甘ったるい香気の欠片が僅かに鼻先を擽った。
暫くの間、黙って燃える炎を見詰め、気持ちを整理しようとしていたゲオルギウスの傍らに腰を降ろし、年嵩の男は悪戯な笑みを浮かべている。
「──キミに、辺境伯たる私の寝室に侍る光栄を給わそうじゃないか。辺境の砦…不死伯の根城たる居城へようこそ。ヒトの子のキミよ。」
「お前の砦──だって…?」
なるほど、昼なお暗そうな、外の様子も窺うことができない古い石造りの居室は、城塞の中の一部屋だと言われれば納得の行く造りだった。その時初めて、辺境の森の奥深く、異教徒と領土を接する場所にあるという不死伯の居城に攫って来られたのだということに気付く。
怒りより、苛立ちより、今は驚きが勝って、目を瞠ることしかできない。想像さえしたことのなかったルゴシュの寝室は思った以上に小綺麗で、寝台の広さは、二人で寝たとしても充分に余るものだった。見回す限り、他に調度品というものはほとんど見当たらない殺風景で広い部屋の中に、彼はもう数百年も棲み続けているのだという。
「──この部屋の暖炉に火を入れたのも、随分と久しぶりだ。灯りすら、私には必要がないからね。文字通り、寝るためだけの部屋。…だが、寒い外より幾分か心地がいいだろう?私にとっても、ヒトの聖域よりかは余程居心地がいい。」
「…それが、わざわざ俺を失神させてまでここに運んできた理由か。」
キシリ、と寝台を軋ませてゲオルギウスの傍らに腹這いになりながら、皺の寄った眦を細めて、ルゴシュは心の底から楽しげな面持ちで若者の渋面をじっと覗き込んでいた。
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