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第10話『無料ズレ祓い体験がバズった日から、街は壊れはじめた(前編)』
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Aパート:街に蔓延る"ズレ祓い体験"
昼下がりの桝川には、焼き魚の香ばしい匂いと常連客たちの笑い声が心地よく漂っていた。
だがその穏やかな空気に、不意に小さな棘が混じる。
「……気色悪っ」
スマホをいじっていた葛城モモカの、そのダルそうな一言が店内の空気を凍らせた。
厨房からたかしが顔を出す。
「なんや、モモカ。また変な動画でも見とるんか」
画面には薄暗い部屋で撮られた映像が流れている。
中央に座る「祓い師」を名乗る男。
その前で床に横たわる女性。男の手が札を貼りつけるたび、女の表情がゆっくりと変わっていく。
まるで何かが内側から滲み出すように、目元と口元が蕩けていく。
見る見るうちに、ゾッとするほど幸せそうな顔に変わり、妙な艶と歪みが混じっているのがモモカの目にははっきりと映った。
「アホや、こんなん。"見せ札"やろ。感応狙いや」
モモカの足元で、使い魔のカラクサが鼻をひくつかせ、低く唸る。その声には明らかな嫌悪感が滲んでいた。
「配信でこういうもん垂れ流すとか、ホンマ悪趣味やな。これ、ズレやろ」
その時、モモカのスマホに着信が入る。
画面に表示されたのは市川繭子の名前だった。
「モモカ。市内のズレ兆候、今週だけで30件を超えました」
電話越しの市川の声は冷静だったが、確かな緊迫感を孕んでいる。
「祓い屋の活動を騙った者がいる。無料体験と称して、妙な動画を流していると報告を受けています」
「なるほどな。やっぱりな」
モモカはスマホ画面の男に視線を向けた。
「ズレは感応や。視たモンが引き金になるってことか。最悪やな」
その時、隣に座っていた月刊オカルト雑誌「アトランティス」の記者である鷹津麗が、そっと自身のスマホを伏せた。
彼女の顔には、どこか落ち着かない様子が見て取れる。
モモカがギロッと鷹津に目を向ける。
「……なあ、まさかお前、その動画、見たんちゃうやろな?」
鷹津の肩がギクリと震えた。スマホを伏せた指が、テーブルを無意識にトントンと叩いている。
「あっ、いや、その……たまたまSNSのタイムラインで流れてきただけで……ちょっと気になっただけやん……」
その言い訳の声は、普段の調子とは違って、どこか喉の奥に引っかかるような湿り気を帯びていた。
モモカは深いため息をついた。視た時点で始まっている——そんなズレが、今、この街に広がっている。
Bパート:ズレの感染拡大
言埜市の通りを歩く若い女性たち。
その多くが、ふと立ち止まり、無意識に肩や腕、太ももを撫でていた。
まるで誰かの手に触れられているかのように——ゆっくりと、肌の温度をなぞるように。
彼女たちの表情は恍惚とした笑顔を浮かべ、その瞳の奥にはどこか夢見心地な光が宿っている。
口元から微かな溜め息が漏れ、周囲の空気も、まるで香水を撒き散らしたかのように、ねっとりと甘い匂いを帯び始めていた。
「うっわ、街中がこんなんか……マジで最悪やな」
葛城モモカは顔をしかめた。
そのそばを通り過ぎたOLが、自分の胸元をゆっくりと撫でながら甘く笑う。
モモカは鼻をしかめ、わざと大きく一歩離れた。
その頃、街の反対側でツバサは、自身が発見したズレの現場にいた。
寂れた路地裏、スマホを片手に立ち尽くす数人の女性。
彼女たちもまた、虚ろな笑顔で自分たちの体を撫で続けている。
ツバサはライブ配信中のスマホを軽く下に向け、路地裏の様子を映した。
画面の隅には「視聴中:数十人」の表示が点滅し、コメント欄には「なにこれやば」「この子ら大丈夫?」といった書き込みが流れていく。
「これ、マジでヤバいっすよ……」
ツバサの声は震えている。ズレの侵蝕は視覚だけではない。
聴覚や触覚といった五感にまで及んでいるのだ。
「変な風が吹くんよ。耳元で、ずっと囁かれとるような……。なんか、『もっと気持ちよくしてあげる』って、聞こえる気ぃするんすよ」
その頃、市川繭子は公安のシステムを操作する拠点の一つで、ズレの解析データと睨めっこしていた。
彼女の冷静な顔にも、わずかな焦りが浮かんでいる。
「市内のズレの蔓延状況は、予想を上回るスピードで進行しています。視覚からの感染が初期段階。だが、視覚より聴覚や触覚への侵蝕が強い。五感への侵蝕……典型的な"古式"。時間の猶予はないわ」
市川の脳裏には、過去の事件のデータがフラッシュバックしていた。
この種のズレは、過去にも報告例がある。
「感染源の特定が急務です」
その言葉が通信室に響く。
一方、桝川のカウンターでは、鷹津麗がどこか落ち着かない様子でスマホをいじっていた。
ふと、彼女が無意識に自分の肩のあたりを、ゆっくりとさする仕草をする。
まるで、そこに何か触れられているかのように。
その仕草を、葛城モモカはガッツリ見ていた。彼女の顔がさらに険しくなる。
「お前、もう侵蝕始まってるやろ。あーもう最悪や」
モモカの冷たい視線に、鷹津はギクリと肩を震わせた。
「ちゃうちゃうちゃう!たまたまちょっと感じただけやって!勘違いやって!」
鷹津の声は、普段の軽口とは違い、どこか焦りを滲ませていた。
彼女の頬にはいつの間にか、ほんのりと艶が差している。
街に広がる"なにか"は、すでに彼女の肌の内側に、じんわりと染み始めていた。
Cパート:鷹津、侵蝕の兆候
桝川での食事を終えた鷹津麗は、一人で夜道を歩いていた。
いつもなら賑やかな商店街の裏路地も、この時間にはシャッターが降り、街灯の光がまばらに道を照らすばかり。
普段なら何も感じない帰り道——だが、その夜に限って、空気が妙に冷たかった。
肌を撫でる風は微弱だが、妙に湿っていて、どこか皮膚に粘りつく感じがする。
風の気配などないのに、髪がふわりと浮き上がる。
背筋に、ぞわりと冷たい感覚が這い上がる。
まるで指先が、背中から首筋をなぞっているかのようだった。
一瞬、空気が止まった気がした。
次の瞬間、耳元で——甘く、ねっとりとした声が囁いた。
その声は、どこか古めかしく、それでいて誘うような魔性的な響きを持っている。
「……もっと気持ちよくしてあげる」
思わず動揺して後ろを振り返るが、誰もいない。
だが、肌を這うような感覚は続く。
まるで幽霊が憑いたかのように、その場に縫い付けられそうになるが、鷹津は無理やり足を動かした。
足早に歩き出すが、その感覚はさらに強まるばかり。
心臓がドクン、ドクンと嫌な音を立て、全身の血が逆流するような不快感が込み上げる。
ポケットの中で、札が微かに熱を帯びる。
その反応に、鷹津の顔色がわずかに変わった。
こんな身近なところで、ズレが発生している証拠だ。
普段なら冷静に状況を分析するはずが、背中に這う感覚と、耳元の囁きが、思考を鈍らせていく。
ふと足元を見ると、道の端に奇妙な「札」が落ちている。
それは、一般的な祓い札とは似て非なるものだった。
使い古され、煤けたようなその紙片には、墨で描かれたような「門」の印が、じんわりと滲むように浮かび上がっている。
その印を見た瞬間、鷹津の脳裏に、昼間見た「祓い師」を名乗る男の動画がフラッシュバックした。
あの札が、これと同じものだったのか。
「それが"快楽ズレ"や。……見た瞬間、お前の身体に、もう入り込んどる」
背後から、低い、聞き慣れた声が聞こえた。
驚いて振り返ると、そこに使い魔のカラクサが立っていた。
普段は小型の姿だが、その体からは、微かに黒い瘴気が揺らめいている。
まるで、周囲のズレの気配を吸い上げているかのようだ。
「感応は連鎖する。抗う間もなく、な」
カラクサの言葉に、鷹津の顔が絶望的な表情を浮かべた。
その視線は、虚ろに宙を彷徨っている。
「……ウソやろ……ただの動画やのに……」
彼女の顔には、昼間うっすらと浮かんでいた奇妙な艶が、さらに濃く、そして鮮やかに差していた。
目の奥には、どこか夢見心地な光が宿る。
瞳孔が、わずかに開いていた。
街灯の光がその瞳に映り込み、ゆらゆらと滲む。
その視界に広がる景色は、もう見慣れた夜道ではない。
甘く、湿った幻影のように、世界が静かに溶けはじめていた。
Dパート:影と気配
「……ウソやろ……ただの動画やのに……」
脚がふらつく。
けれど、それを止められない。
鷹津麗の目には、街の灯りがにじんで見えていた。
その視界は、快楽の甘い靄に包まれ、街の輪郭がゆっくりと蕩けていく。
脳の奥を、甘く溶かすような囁き声が、いまだ鳴りやまない。
その声は、耳の奥から直接脳髄に響くように、鷹津の思考を支配しようとする。
抗おうとするたび、甘い香りが一層強まり、頭の芯まで痺れていくような感覚が押し寄せた。
信号が赤に変わり、鷹津は交差点の真ん中で立ち止まった。
周囲の喧騒が、まるで遠くの出来事のように聞こえる。
車のエンジン音も、人々の話し声も、全てが遠く、歪んで響く。
彼女の意識は、ズレの甘い誘惑と、かすかに残る理性の間で、激しく揺れ動いていた。
心臓がドクン、ドクンと嫌な音を立て、全身の血が逆流するような不快感が込み上げる。
それでも、背筋を這う甘い感覚は、彼女を捕らえて離さない。
静寂の中、"誰かの気配"が確かにある。
それは、甘い囁き声とは異なる、ひんやりとした、鋭い視線だった。
背後から突き刺さるような感覚に、鷹津はぞっとする。
反射的に視線を向けた交差点の向こう、街灯の薄い光の下を、黒い影が横切った。
その動きは、まるで現実の法則から外れたかのように、不自然に滑らかだった。
その影が消えた電柱の陰に、ほんの一瞬、「足だけ」が、残っていたように見えた。
すらりと長く、不気味なほど静かに。
それは、ただの錯覚ではなかった。
足元のアスファルトに、影が消えたはずの場所に、微かに焦げたような匂いが漂っている。
それは、どこか既視感を覚える、
あの神社跡で嗅いだような、墨の焦げ付いた嫌な臭いに酷似していた。
その匂いは、甘い香りと混じり合い、鷹津の鼻腔を刺激し、嫌悪感を煽った。
鷹津は、その光景に息をのんだ。
体が、本能的に危険を察知する。
快楽の甘さに浸りきっていた意識が、その一瞬だけ、ゾッとするような恐怖によって引き戻された。
脳内の甘い靄が、恐怖に震える現実の輪郭を露わにする。
目の奥に宿る夢見心地な光が、ゆっくりと消え失せ、瞳孔がわずかに収縮する。
「……あかん、アレ……絶対やばいやつや」
喉が勝手に声を漏らした。
それは、鷹津麗が本当に危険を察知した時にしか出さない、心の底からの叫びだった。
次の瞬間、理性が戻るより早く、鷹津の身体は駆け出していた。
足がもつれそうになるが、それでも必死に夜の闇へと吸い込まれるように、ひたすら走る。
アスファルトを蹴るたびに、体から甘い香りが立ち上る。
それは、快楽のズレが、確実に彼女の身体を蝕み始めている証拠だった。
背後からは、相変わらず甘い囁き声が追いかけてくるが、今やそれ以上に、あの黒い影の存在が、鷹津の心を深く震わせていた。
その頃、鷹津を追ってきていたカラクサは、彼女が走り去った交差点の電柱の陰に、ぴたりと立ち止まった。
彼の鼻が、周囲の空気をひくつく。空気に混じる、微かな甘い匂いと、焦げ付いたような不快な臭い。
「……出たな。この匂い……忘れようにも、忘れられへん」
カラクサが独りごちた。彼の瞳の奥に、遠い過去の記憶がよぎる。
あれは「門」の残り香。
かつて封じたはずの、忌まわしき痕跡。
そしてそれは、言埜市で、また——。
遠くで、祭りの太鼓のような、鈍い音が響き続けていた。
昼下がりの桝川には、焼き魚の香ばしい匂いと常連客たちの笑い声が心地よく漂っていた。
だがその穏やかな空気に、不意に小さな棘が混じる。
「……気色悪っ」
スマホをいじっていた葛城モモカの、そのダルそうな一言が店内の空気を凍らせた。
厨房からたかしが顔を出す。
「なんや、モモカ。また変な動画でも見とるんか」
画面には薄暗い部屋で撮られた映像が流れている。
中央に座る「祓い師」を名乗る男。
その前で床に横たわる女性。男の手が札を貼りつけるたび、女の表情がゆっくりと変わっていく。
まるで何かが内側から滲み出すように、目元と口元が蕩けていく。
見る見るうちに、ゾッとするほど幸せそうな顔に変わり、妙な艶と歪みが混じっているのがモモカの目にははっきりと映った。
「アホや、こんなん。"見せ札"やろ。感応狙いや」
モモカの足元で、使い魔のカラクサが鼻をひくつかせ、低く唸る。その声には明らかな嫌悪感が滲んでいた。
「配信でこういうもん垂れ流すとか、ホンマ悪趣味やな。これ、ズレやろ」
その時、モモカのスマホに着信が入る。
画面に表示されたのは市川繭子の名前だった。
「モモカ。市内のズレ兆候、今週だけで30件を超えました」
電話越しの市川の声は冷静だったが、確かな緊迫感を孕んでいる。
「祓い屋の活動を騙った者がいる。無料体験と称して、妙な動画を流していると報告を受けています」
「なるほどな。やっぱりな」
モモカはスマホ画面の男に視線を向けた。
「ズレは感応や。視たモンが引き金になるってことか。最悪やな」
その時、隣に座っていた月刊オカルト雑誌「アトランティス」の記者である鷹津麗が、そっと自身のスマホを伏せた。
彼女の顔には、どこか落ち着かない様子が見て取れる。
モモカがギロッと鷹津に目を向ける。
「……なあ、まさかお前、その動画、見たんちゃうやろな?」
鷹津の肩がギクリと震えた。スマホを伏せた指が、テーブルを無意識にトントンと叩いている。
「あっ、いや、その……たまたまSNSのタイムラインで流れてきただけで……ちょっと気になっただけやん……」
その言い訳の声は、普段の調子とは違って、どこか喉の奥に引っかかるような湿り気を帯びていた。
モモカは深いため息をついた。視た時点で始まっている——そんなズレが、今、この街に広がっている。
Bパート:ズレの感染拡大
言埜市の通りを歩く若い女性たち。
その多くが、ふと立ち止まり、無意識に肩や腕、太ももを撫でていた。
まるで誰かの手に触れられているかのように——ゆっくりと、肌の温度をなぞるように。
彼女たちの表情は恍惚とした笑顔を浮かべ、その瞳の奥にはどこか夢見心地な光が宿っている。
口元から微かな溜め息が漏れ、周囲の空気も、まるで香水を撒き散らしたかのように、ねっとりと甘い匂いを帯び始めていた。
「うっわ、街中がこんなんか……マジで最悪やな」
葛城モモカは顔をしかめた。
そのそばを通り過ぎたOLが、自分の胸元をゆっくりと撫でながら甘く笑う。
モモカは鼻をしかめ、わざと大きく一歩離れた。
その頃、街の反対側でツバサは、自身が発見したズレの現場にいた。
寂れた路地裏、スマホを片手に立ち尽くす数人の女性。
彼女たちもまた、虚ろな笑顔で自分たちの体を撫で続けている。
ツバサはライブ配信中のスマホを軽く下に向け、路地裏の様子を映した。
画面の隅には「視聴中:数十人」の表示が点滅し、コメント欄には「なにこれやば」「この子ら大丈夫?」といった書き込みが流れていく。
「これ、マジでヤバいっすよ……」
ツバサの声は震えている。ズレの侵蝕は視覚だけではない。
聴覚や触覚といった五感にまで及んでいるのだ。
「変な風が吹くんよ。耳元で、ずっと囁かれとるような……。なんか、『もっと気持ちよくしてあげる』って、聞こえる気ぃするんすよ」
その頃、市川繭子は公安のシステムを操作する拠点の一つで、ズレの解析データと睨めっこしていた。
彼女の冷静な顔にも、わずかな焦りが浮かんでいる。
「市内のズレの蔓延状況は、予想を上回るスピードで進行しています。視覚からの感染が初期段階。だが、視覚より聴覚や触覚への侵蝕が強い。五感への侵蝕……典型的な"古式"。時間の猶予はないわ」
市川の脳裏には、過去の事件のデータがフラッシュバックしていた。
この種のズレは、過去にも報告例がある。
「感染源の特定が急務です」
その言葉が通信室に響く。
一方、桝川のカウンターでは、鷹津麗がどこか落ち着かない様子でスマホをいじっていた。
ふと、彼女が無意識に自分の肩のあたりを、ゆっくりとさする仕草をする。
まるで、そこに何か触れられているかのように。
その仕草を、葛城モモカはガッツリ見ていた。彼女の顔がさらに険しくなる。
「お前、もう侵蝕始まってるやろ。あーもう最悪や」
モモカの冷たい視線に、鷹津はギクリと肩を震わせた。
「ちゃうちゃうちゃう!たまたまちょっと感じただけやって!勘違いやって!」
鷹津の声は、普段の軽口とは違い、どこか焦りを滲ませていた。
彼女の頬にはいつの間にか、ほんのりと艶が差している。
街に広がる"なにか"は、すでに彼女の肌の内側に、じんわりと染み始めていた。
Cパート:鷹津、侵蝕の兆候
桝川での食事を終えた鷹津麗は、一人で夜道を歩いていた。
いつもなら賑やかな商店街の裏路地も、この時間にはシャッターが降り、街灯の光がまばらに道を照らすばかり。
普段なら何も感じない帰り道——だが、その夜に限って、空気が妙に冷たかった。
肌を撫でる風は微弱だが、妙に湿っていて、どこか皮膚に粘りつく感じがする。
風の気配などないのに、髪がふわりと浮き上がる。
背筋に、ぞわりと冷たい感覚が這い上がる。
まるで指先が、背中から首筋をなぞっているかのようだった。
一瞬、空気が止まった気がした。
次の瞬間、耳元で——甘く、ねっとりとした声が囁いた。
その声は、どこか古めかしく、それでいて誘うような魔性的な響きを持っている。
「……もっと気持ちよくしてあげる」
思わず動揺して後ろを振り返るが、誰もいない。
だが、肌を這うような感覚は続く。
まるで幽霊が憑いたかのように、その場に縫い付けられそうになるが、鷹津は無理やり足を動かした。
足早に歩き出すが、その感覚はさらに強まるばかり。
心臓がドクン、ドクンと嫌な音を立て、全身の血が逆流するような不快感が込み上げる。
ポケットの中で、札が微かに熱を帯びる。
その反応に、鷹津の顔色がわずかに変わった。
こんな身近なところで、ズレが発生している証拠だ。
普段なら冷静に状況を分析するはずが、背中に這う感覚と、耳元の囁きが、思考を鈍らせていく。
ふと足元を見ると、道の端に奇妙な「札」が落ちている。
それは、一般的な祓い札とは似て非なるものだった。
使い古され、煤けたようなその紙片には、墨で描かれたような「門」の印が、じんわりと滲むように浮かび上がっている。
その印を見た瞬間、鷹津の脳裏に、昼間見た「祓い師」を名乗る男の動画がフラッシュバックした。
あの札が、これと同じものだったのか。
「それが"快楽ズレ"や。……見た瞬間、お前の身体に、もう入り込んどる」
背後から、低い、聞き慣れた声が聞こえた。
驚いて振り返ると、そこに使い魔のカラクサが立っていた。
普段は小型の姿だが、その体からは、微かに黒い瘴気が揺らめいている。
まるで、周囲のズレの気配を吸い上げているかのようだ。
「感応は連鎖する。抗う間もなく、な」
カラクサの言葉に、鷹津の顔が絶望的な表情を浮かべた。
その視線は、虚ろに宙を彷徨っている。
「……ウソやろ……ただの動画やのに……」
彼女の顔には、昼間うっすらと浮かんでいた奇妙な艶が、さらに濃く、そして鮮やかに差していた。
目の奥には、どこか夢見心地な光が宿る。
瞳孔が、わずかに開いていた。
街灯の光がその瞳に映り込み、ゆらゆらと滲む。
その視界に広がる景色は、もう見慣れた夜道ではない。
甘く、湿った幻影のように、世界が静かに溶けはじめていた。
Dパート:影と気配
「……ウソやろ……ただの動画やのに……」
脚がふらつく。
けれど、それを止められない。
鷹津麗の目には、街の灯りがにじんで見えていた。
その視界は、快楽の甘い靄に包まれ、街の輪郭がゆっくりと蕩けていく。
脳の奥を、甘く溶かすような囁き声が、いまだ鳴りやまない。
その声は、耳の奥から直接脳髄に響くように、鷹津の思考を支配しようとする。
抗おうとするたび、甘い香りが一層強まり、頭の芯まで痺れていくような感覚が押し寄せた。
信号が赤に変わり、鷹津は交差点の真ん中で立ち止まった。
周囲の喧騒が、まるで遠くの出来事のように聞こえる。
車のエンジン音も、人々の話し声も、全てが遠く、歪んで響く。
彼女の意識は、ズレの甘い誘惑と、かすかに残る理性の間で、激しく揺れ動いていた。
心臓がドクン、ドクンと嫌な音を立て、全身の血が逆流するような不快感が込み上げる。
それでも、背筋を這う甘い感覚は、彼女を捕らえて離さない。
静寂の中、"誰かの気配"が確かにある。
それは、甘い囁き声とは異なる、ひんやりとした、鋭い視線だった。
背後から突き刺さるような感覚に、鷹津はぞっとする。
反射的に視線を向けた交差点の向こう、街灯の薄い光の下を、黒い影が横切った。
その動きは、まるで現実の法則から外れたかのように、不自然に滑らかだった。
その影が消えた電柱の陰に、ほんの一瞬、「足だけ」が、残っていたように見えた。
すらりと長く、不気味なほど静かに。
それは、ただの錯覚ではなかった。
足元のアスファルトに、影が消えたはずの場所に、微かに焦げたような匂いが漂っている。
それは、どこか既視感を覚える、
あの神社跡で嗅いだような、墨の焦げ付いた嫌な臭いに酷似していた。
その匂いは、甘い香りと混じり合い、鷹津の鼻腔を刺激し、嫌悪感を煽った。
鷹津は、その光景に息をのんだ。
体が、本能的に危険を察知する。
快楽の甘さに浸りきっていた意識が、その一瞬だけ、ゾッとするような恐怖によって引き戻された。
脳内の甘い靄が、恐怖に震える現実の輪郭を露わにする。
目の奥に宿る夢見心地な光が、ゆっくりと消え失せ、瞳孔がわずかに収縮する。
「……あかん、アレ……絶対やばいやつや」
喉が勝手に声を漏らした。
それは、鷹津麗が本当に危険を察知した時にしか出さない、心の底からの叫びだった。
次の瞬間、理性が戻るより早く、鷹津の身体は駆け出していた。
足がもつれそうになるが、それでも必死に夜の闇へと吸い込まれるように、ひたすら走る。
アスファルトを蹴るたびに、体から甘い香りが立ち上る。
それは、快楽のズレが、確実に彼女の身体を蝕み始めている証拠だった。
背後からは、相変わらず甘い囁き声が追いかけてくるが、今やそれ以上に、あの黒い影の存在が、鷹津の心を深く震わせていた。
その頃、鷹津を追ってきていたカラクサは、彼女が走り去った交差点の電柱の陰に、ぴたりと立ち止まった。
彼の鼻が、周囲の空気をひくつく。空気に混じる、微かな甘い匂いと、焦げ付いたような不快な臭い。
「……出たな。この匂い……忘れようにも、忘れられへん」
カラクサが独りごちた。彼の瞳の奥に、遠い過去の記憶がよぎる。
あれは「門」の残り香。
かつて封じたはずの、忌まわしき痕跡。
そしてそれは、言埜市で、また——。
遠くで、祭りの太鼓のような、鈍い音が響き続けていた。
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