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第一章
ムカつくヤツ(一)
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第一印象は、ぶっきらぼうだが冷血ではないという所だった。ボクの新しい居候先の家主、塩原翔のことだ。
なんだかんだ言いつつも、見ず知らずの根無し草なボクを部屋に置いてくれたんだから。
……って、昨日の夜までは思っていた。
「なんで目玉焼きに醤油かけてんだ!」
「いいじゃん!てか醤油以外あり得ないでしょ!」
「お前の好みは知らない!私の分まで勝手にかけんなって言ってんだ!」
昼食の一幕。塩原翔ことしょーちゃんと交わした契約を果たすために、意気揚々とハムエッグを作ったわけだが。勝手に醤油をかけてお出ししたら、胸ぐらを掴まれた。
「チッ、迷惑女め」
は?今舌打ちした?仮にもご飯作ったってのに?
「コレいらん。お前が食え」
皿ごと突き返される。そしてすぐに、財布を持って自分の分の朝食を買いに出ていった。
もう閉じられてしまった扉に向かって、べーっと舌を出してみる。けど虚しくなってすぐに辞めた。
それからもずっと、同じような調子だった。
昼食はもちろん、掃除も洗濯も、ことあるごとに衝突を繰り返した。ならばもう、塩原翔との間に亀裂が生まれたのは明確だった。
中でも決定的だったのは。昼下がり、掛け時計の長針と短針が直角を描いた頃だった。
ベッドの上で熱心にタブレット端末を見つめるしおちゃんが居た。タイガーアイのような瞳が、一つの濁りもなく澄んでいる。ボクに対する振る舞いと比べて、あまりに不釣り合いな美しさだった。
メガネのレンズ越しに見ているものが一体なんなのか、無性に気になった。
「なに見てんの?」
「……………」
ピクリとも動かない。
「ねえってば」
肩を軽く叩いても、全くレスポンスがない。彫像のように同じ体勢から動かない冷血娘は、だんまりを決め込んでいる。
そーですか無視ですか。ならこっちにも考えがある。
「そらっ」
タブレットをむしり取ると、流石にこっちを向いてくれた。それはもう鋭い眼光でしたことよ。
「返せ」
「返事くらいしなよ」
「お前にそんなことする義理あるの?」
「は?」
「あ?」
取り上げたタブレットの画面を見てみると、パッと見九割が水色だった。なんだこれ、と目を凝らしてみると、どうもプールを上から映しているみたいだった。
「おいこら」
奪われたものを取り戻そうと腕を伸ばしてくる塩原翔。それを適当にあしらいながら一時停止されていた動画を再生する。
長方形のプールに七つか八つくらいの水しぶきが上がっている。それは右から左へと滑らかに移動している。要するに泳いでいる。
たまーにテレビで見かけて、一瞬でチャンネルを切り替える、そんなトップレベルの水泳だった。
こんなものを熱心に見てたのか。一体なにがおもしろいんだろ。
「いい加減にしろっ」
奪ったタブレットをむんずと掴まれて持っていかれた。再びしょーちゃんはタブレットに視線を戻す。くるっと半回転して、丸めたトレーニングマットを枕代わりにして寝転がった。二度と関わるなと暗に言うように。
なんでか腹の底の辺りが熱くなった。イライラして、底に溜まった溶岩が煮えたぎっているかのようだった。
なんでこんなことで苛立ってるんだ、ボク。
……いや、なんでとか考えるまでもない。ただ、認め難いだけだ。
「……」
羨ましい。
それが何であれ、夢中になれる何かがあることが。
みんな、何だかんだ言いつつも、自分の好きなことがある。趣味とか、嗜好とか、そういうものが。
或いは、人を好きになる。友だちとか、憧れの人とか。中学生や高校生にもなれば、当たり前のようにみんな恋をする。
なんでそういう風に思えるんだろう。どうやって見つけたんだろう。いくら考えたって分からない。
ボクには、何もない。
「こんなの、なにがいいの?ちゃぷちゃぷ泳いでさ」
つい、口にしていた。別にそんなのどうだっていいのに。
図らずもバカにしたような発言に、しおちゃんは反応した。
ゆっくりと立ち上がると、ボクを睨みつける。首元に刃物を突きつけられているみたいな錯覚がした。
「なんだって?」
素よりも低く重厚な声に、思わず気圧された。
「だ、だから。こんなのに夢中になるなんて理解できないって……言ってんの」
「…………ッ!」
また乱暴に胸ぐらを掴まれた。鬼みたいな形相をして、けれど何も文句を言わない。歯を食いしばって、必死に怒りを制しようとしているみたいだった。
どうも虎の尾を踏んでしまったみたい。けど、それはボクの方だって同じだった。
「こんなの単なる同じ動作を繰り返してるだけじゃん!一体なにが楽しいんだか……!」
自分でもなんでこんなに腹が立つのかわからなかった。いつもだったら横目に流して終わるはずなのに。
だけどもう理性なんてとうに吹き飛んでいた。
「…………」
「水泳好きみたいだけどさ!別に将来なんかの役に立つわけでもないのに。なんにも意味ないじゃん!」
自分でそう言って、ハッと我に返る。
将来の役に立つ――――上辺だけをなぞったその言葉、ボクは嫌いなはずなのに。どうしてボクはそんなことを口にしたのか。
「…………」
「……なんとか言ってよ」
てっきり言い返されると思っていたのに、黙りこくったままだ。自分だけがヒートアップしていて、調子を乱されてしまう。別にここまで言うつもりはなかったけど、全くの嘘というわけでもないから、引くに引けない。
掴んでいた手を解くと、塩原翔は静かに閉じていた唇を開いた。
「歯、食いしばれよ」
「は?」
いきなり何を言い出すかと思えば。
そう思った時には、バチンッと強烈な音がしていた。それから左頬に大きな音に見合う痛みが。
要するに、思いっきり平手打ちされたのだ。
「ったぁ……いきなり何すんの!」
「うるさい、文句あるなら出て行け」
「なっ…………」
言うだけ言うと、再び塩原翔は寝転がってタブレットに視線を戻した。
今度こそ何事も取り合わないと言わんばかりの拒絶の意思が、向けられた背中から溢れていた。
なんだかんだ言いつつも、見ず知らずの根無し草なボクを部屋に置いてくれたんだから。
……って、昨日の夜までは思っていた。
「なんで目玉焼きに醤油かけてんだ!」
「いいじゃん!てか醤油以外あり得ないでしょ!」
「お前の好みは知らない!私の分まで勝手にかけんなって言ってんだ!」
昼食の一幕。塩原翔ことしょーちゃんと交わした契約を果たすために、意気揚々とハムエッグを作ったわけだが。勝手に醤油をかけてお出ししたら、胸ぐらを掴まれた。
「チッ、迷惑女め」
は?今舌打ちした?仮にもご飯作ったってのに?
「コレいらん。お前が食え」
皿ごと突き返される。そしてすぐに、財布を持って自分の分の朝食を買いに出ていった。
もう閉じられてしまった扉に向かって、べーっと舌を出してみる。けど虚しくなってすぐに辞めた。
それからもずっと、同じような調子だった。
昼食はもちろん、掃除も洗濯も、ことあるごとに衝突を繰り返した。ならばもう、塩原翔との間に亀裂が生まれたのは明確だった。
中でも決定的だったのは。昼下がり、掛け時計の長針と短針が直角を描いた頃だった。
ベッドの上で熱心にタブレット端末を見つめるしおちゃんが居た。タイガーアイのような瞳が、一つの濁りもなく澄んでいる。ボクに対する振る舞いと比べて、あまりに不釣り合いな美しさだった。
メガネのレンズ越しに見ているものが一体なんなのか、無性に気になった。
「なに見てんの?」
「……………」
ピクリとも動かない。
「ねえってば」
肩を軽く叩いても、全くレスポンスがない。彫像のように同じ体勢から動かない冷血娘は、だんまりを決め込んでいる。
そーですか無視ですか。ならこっちにも考えがある。
「そらっ」
タブレットをむしり取ると、流石にこっちを向いてくれた。それはもう鋭い眼光でしたことよ。
「返せ」
「返事くらいしなよ」
「お前にそんなことする義理あるの?」
「は?」
「あ?」
取り上げたタブレットの画面を見てみると、パッと見九割が水色だった。なんだこれ、と目を凝らしてみると、どうもプールを上から映しているみたいだった。
「おいこら」
奪われたものを取り戻そうと腕を伸ばしてくる塩原翔。それを適当にあしらいながら一時停止されていた動画を再生する。
長方形のプールに七つか八つくらいの水しぶきが上がっている。それは右から左へと滑らかに移動している。要するに泳いでいる。
たまーにテレビで見かけて、一瞬でチャンネルを切り替える、そんなトップレベルの水泳だった。
こんなものを熱心に見てたのか。一体なにがおもしろいんだろ。
「いい加減にしろっ」
奪ったタブレットをむんずと掴まれて持っていかれた。再びしょーちゃんはタブレットに視線を戻す。くるっと半回転して、丸めたトレーニングマットを枕代わりにして寝転がった。二度と関わるなと暗に言うように。
なんでか腹の底の辺りが熱くなった。イライラして、底に溜まった溶岩が煮えたぎっているかのようだった。
なんでこんなことで苛立ってるんだ、ボク。
……いや、なんでとか考えるまでもない。ただ、認め難いだけだ。
「……」
羨ましい。
それが何であれ、夢中になれる何かがあることが。
みんな、何だかんだ言いつつも、自分の好きなことがある。趣味とか、嗜好とか、そういうものが。
或いは、人を好きになる。友だちとか、憧れの人とか。中学生や高校生にもなれば、当たり前のようにみんな恋をする。
なんでそういう風に思えるんだろう。どうやって見つけたんだろう。いくら考えたって分からない。
ボクには、何もない。
「こんなの、なにがいいの?ちゃぷちゃぷ泳いでさ」
つい、口にしていた。別にそんなのどうだっていいのに。
図らずもバカにしたような発言に、しおちゃんは反応した。
ゆっくりと立ち上がると、ボクを睨みつける。首元に刃物を突きつけられているみたいな錯覚がした。
「なんだって?」
素よりも低く重厚な声に、思わず気圧された。
「だ、だから。こんなのに夢中になるなんて理解できないって……言ってんの」
「…………ッ!」
また乱暴に胸ぐらを掴まれた。鬼みたいな形相をして、けれど何も文句を言わない。歯を食いしばって、必死に怒りを制しようとしているみたいだった。
どうも虎の尾を踏んでしまったみたい。けど、それはボクの方だって同じだった。
「こんなの単なる同じ動作を繰り返してるだけじゃん!一体なにが楽しいんだか……!」
自分でもなんでこんなに腹が立つのかわからなかった。いつもだったら横目に流して終わるはずなのに。
だけどもう理性なんてとうに吹き飛んでいた。
「…………」
「水泳好きみたいだけどさ!別に将来なんかの役に立つわけでもないのに。なんにも意味ないじゃん!」
自分でそう言って、ハッと我に返る。
将来の役に立つ――――上辺だけをなぞったその言葉、ボクは嫌いなはずなのに。どうしてボクはそんなことを口にしたのか。
「…………」
「……なんとか言ってよ」
てっきり言い返されると思っていたのに、黙りこくったままだ。自分だけがヒートアップしていて、調子を乱されてしまう。別にここまで言うつもりはなかったけど、全くの嘘というわけでもないから、引くに引けない。
掴んでいた手を解くと、塩原翔は静かに閉じていた唇を開いた。
「歯、食いしばれよ」
「は?」
いきなり何を言い出すかと思えば。
そう思った時には、バチンッと強烈な音がしていた。それから左頬に大きな音に見合う痛みが。
要するに、思いっきり平手打ちされたのだ。
「ったぁ……いきなり何すんの!」
「うるさい、文句あるなら出て行け」
「なっ…………」
言うだけ言うと、再び塩原翔は寝転がってタブレットに視線を戻した。
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