塩と水とその器

望凪

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第二章

手っ取り早い方法で(五)

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 流石に笑って流すだけじゃアレなので、もう少し話をぼかすことにした。

「まあ、その。ボクって初心者だからさ。皆の脚を引っ張ってて、それをちょっと申し訳なく思ってるわけで。だから褒めてくれるのは素直に嬉しいんだけど、手放しには……さ」

 ぶっちゃけ嘘である。遠慮なんて全くするつもりはないし、負い目もない。
 ただまあ、佐々倉さんに指摘されて、全く微塵も気にしなかったワケではない。
 九割は嘘だけど、一割くらいは本音の話だった。
 たつみちゃんはふーん、と関心があるのか無いのかよくわからない返事をする。
 けれど。

「なら、速くならなきゃねー」

 短くも、確かな声色でそういった。
 その至極もっともな発言に、思わずボクの口の端は上がってしまった。

「たつみちゃんはすげー子ですわ」
「んー?なにさなにさ」
「うんにゃ、独り言ですよー」

 わしゃわしゃと友人の柔らかい髪の毛を両手で弄ぶ。
 こらこら~と言いつつも撫でられるままにされているのは、まるで猫のようで和んだ。

「よし、じゃあもーちょい頑張りますかねー」

 ちょっとした景気づけにぐいっとスポドリを喉に流し込むと、勢いよくベンチから立ち上がる。

「うん、行っといで~」

 ゆるーい雰囲気で送り出してくれるたつみちゃん。

「行ってくるっ」

 サムズアップで返答して、羽織っていたジャージをベンチへ放り投げる。
 そして翔と隣のコースにぴょんっと飛びこむ形で入水した。
 そして、タイミングよく翔が潜水でこっちに帰ってきた。

「ぷはっ…………ハッ、ハッ……ハァ」

 水面に出るなり忙しく息をする翔。
 呼吸を整えるより前に自分のドリンクに手を伸ばして、喉を鳴らしながら口の中へと流し込む。
 そしてやっと、こちらへと顔を向けた。ああ、居たのかと言うような顔で。
 翔は何も言わず、じっと細めた目でボクを見つめる。

「なにさ」
「……いや。さっさとやろう」

 翔がプールから上がる。
 よくわからないけど、今日もやってくれるんならそれでいいや。

「まずは、フォームの確認から」

 文字通り上から命令する翔。
 はーい、と適当に返事をして、ゆっくりと泳ぎ始めた。

 翔との特訓の流れは簡潔に説明できる。
 フォーム……つまり泳ぎの動作を整える所から始めて、あとはスピードを上げるための練習をする。
 佐々倉さんと勝負する種目は50m自由形。公式種目では最も短く、スピードのみが物を言う……らしい。

 この特訓で身につけるべきことは、正しいフォームの習得と、そのフォームを維持したままクロールのスピードを上げるということになる。
 どちらも一朝一夕で身につくことではないのだそう。ていうか、水泳における技術の習得というのは、殆どがそういうのばかりらしい。
 翔曰く、“スタートとかターンとか、技術が大半を占めるやつはひとまずいい。付け焼き刃にすらならない。お前は素人もいいとこで、しかもこの短期間なら、ひたすら泳ぎだけに重点を絞る。教えてやるから黙ってそれに従え。あと付き合わせるからには死ぬ気でやれ”とのこと。

 渋々という感じではあるが、ちゃんと教えてくれてはいる。おかげで数日でも着実に速くなっていっているし。
 ただ。口にはせずとも文句がないわけではない。
 フォームの確認を終えて、スピードを上げるための練習へと続く。といっても50mを六回、長い間隔を空けながら一本ずつ全力で泳ぐだけなのだが。

「おい!もう入水した瞬間から手が落ちてる!しかも40秒ってなんだよ。やる気ないなら帰るぞ!」

 二本目、泳ぎ切るなり翔コーチのお怒りが飛んでくる。
 タイムは40秒ジャスト。一本目が37秒だったから、3秒も落ちてるのか。

「はっ……はぁ…………はぁ」

 ああもう。怒鳴るにしても、もうちょい休み休みにして欲しい。
 こっちだって死物狂いでがんばってるってーの。
 そう口にしようとしても、出てくるのは足りない酸素を補給しようとするための荒い息ばかり。
 50m、スタートからゴールへのタッチまで、全力で泳ぎ切る練習。手を抜くのは言うまでもなくダメ。

「何回も言ってるけど、常にフォームは意識して。指先から爪先まで、一秒たりとも気を緩めるな。その緩い脳を今だけは引き締めとけ」

 腕と脚を全霊で動かしながら、翔に教えてもらったことも念頭に置く。これらを同時にこなさなければならないのが、この練習の辛いところだ。
 一本あたり四分という長い時間が設けられている理由。そして、始めにゆったりと泳ぎながらフォームの確認をしたのは何故か。
 その答えがそれである。

「はいはい……」

 乱れた息が少しずつ整ってきて、どうにか返事をする。
 むかっ腹は立つけど、翔に従うしかない。実際それが効果的なんだろうし、ボクも実感しているのだから。
 それに。今はどれだけ遅かったとしても、翔に舐められたくない。侮られたくない。
 だからボクは、一分たりとも気を抜いたりしない。

「ふーっ………」

 大きく息を吐き出す。
 三本目のスタートまで残り一分。呼吸はある程度落ち着いた。身体はクタクタだけど、アドレナリンが出てるせいか疲労感に悩まされることはない。
 次に意識すること。それは翔に言われた通り、水をかく際に手を上の方でキープすることだ。ボクは疲れてくると手や膝が沈み、泳ぎが雑になる傾向にあるらしい。特訓初日に翔が言ってくれたのだ。
 イメージは手から脚まで一直線に。そうすることで出来る限り水の抵抗を減らす。
 泳ぎが拙いのは百も承知だ。だから頭に留めておくことは一つに絞る。一つずつ、着実にこなして、身につけていく。

「三本目っ!」

 翔の声がした。
 そしてその音が鼓膜に届くより先に、ボクの身体は動いていた。ザブンと潜り、すぐさま壁を蹴った。
 全ては水の中。聞こえる音は鈍く、広がる視界はただのプールの床だけ。肌から放出される熱を容赦なく奪うが如く、まとわりつく水は冷たい。
 馴染むことのない水の感覚は、まるでボクを値踏みしているように感じられた。
 必死に腕を動かす。脚を動かす。一つのことだけを頭に留め、それを最大限身体に反映させようと努める。
 無我夢中だった。

「ぶはっ」

 気づけば五十メートルを泳ぎ切っていた。
 ほんの一分前まで呼吸を整えて落ち着けていたのに、今はまた肩で息をしている。冷静に考えると、なんか自分で自分をバカみたいだと思った。
 それでも今は、悪くないと思える自分もまたいるんだから変な話だ。

「37秒。……始めからやれよ」

 なんだ。泳ぎ終わるたびに毎度聞かされなきゃいけないんですか。あなたのお小言を。

「だぁー、もー……。少しは褒めるなり……ないの」

 息も切れ切れに抗議してみる。

「お前のどこに褒める要素があるんだ」

 言いよるわ。そりゃあ確かに迷惑かけてるかもしれないけどさ。

「……絶対いつか見返してやるから」
「やれるもんならやってみなよ。そんな体たらくじゃ一生無理だけど」
「うぎぎぎ………」

 どうあがいても、ボクたちの会話は喧嘩腰になってしまう。
 上から見下す先達を前にして、メラメラと胸の辺りで炎が燃え上がる。こういうの、闘争心に火がつくっていうのかな。
 呼吸を落ち着けようと、大きく深呼吸をする。
 吐いた息は、自動車の排気のように熱を帯びていた。

 ……絶対に辿り着いてみせる。今は遠く及ばなくても、いつの日か必ず、ボクの前に跪かせてやる!
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