神の暇つぶし

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神の暇つぶし

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 井戸のようなところを覗き込んでいる二つの人影。二人の見ている井戸の中には、車が事故にあう光景が映し出されていた。
 一つは人の形をした漆黒に、もう一つは煌々とした人の形。まったく逆の存在でありながら、それがお互いの存在を強調しているように見えた。
 
 ――あの二人にしよう。ちょうどいい。

 光のほうがそういうと闇のほうも顔を上げてうなづいた。
 
 ――そうだな。現時点の地球上では一番面白そうだ。

 そう言う闇の、顔の辺りが笑うようにゆれた。

 ついさっきまでひどく恐ろしい出来事の真っ只なかにいたような気がしたが、夢を見たときのように思い出せそうで思い出せない。止まっていた時間がゆっくり動き始めたようだった。

 急に意識がはっきりしてきた。どうやら椅子に座ってぼんやりしていたようだ。

 人が数人ほど眼の前を通り過ぎていく。みなどこかしら怪我や病気をもっているようだ。どうやらここは病院らしい。
 
 ――知ってる病院だ。近所の総合病院。とたんに、薬のにおいがしだした。このにおいを嗅ぐと病気でもないのに、そうなったような気がするから不思議だ。

 そんなことより、なんで俺はこんなところにいるんだ。確かさっきまで俺は……、いったいなにをしてたんだ。
とりあえず外にでようと出入り口に向かって歩いていくと、ちょうど外から慌てた様子で二人が入ってくる。よく見ると祥子の両親だった。

「お二人ともそんな急いで、何かあったんですか?」

 軽く会釈してから、通り過ぎようとする二人に声をかけた。けれど、よっぽど急いでいるのか俺の横を素通りしていく。受付の前で祥子の名前を叫んでいた。なにかすごく大事なことを思い出しそうになったが、それよりも祥子のことが気になった。

「ちょっとまってくださいね。その患者さんは……いま集中治療室のほうに。この館の二階、二〇二号室です」
 
 受付がそう言うやいなや祥子の両親は走り出した。もちろん俺もついて行く。祥子にいったい何が。ここにいるってことは……。

 ――もうこちらに連れてきてもいいのではないか?

 ――いや、まだだ。もう少し。

 もどかしそうに揺れる闇に、光は言った。

 病室に入る二人について俺も入った。祥子はカーテンに囲われたベッドの上にいた。呼吸器をつけた祥子の頬と額に、擦り傷や痣があるのが見えた。いったい何が起きたんだ。

 近づけば近づくほど、祥子が本当に生きているのか不思議に思えた。が、確かに生きている。触れれば少しだが、温かみがあるのだ。

 心電図などの機器の動作音などが妙に耳障りに聞こえた。まるで何かの秒読みのように。まるでそれ以外の音は、この部屋では生きていけないかのような。それがまた、不快感を増しているようだった。
いったいどうしてこんなことに、さっきまであんなに元気だったのに。
 
 さっきまで? いま俺はさっきまで祥子が元気だったのを知っている? なぜ祥子はこんなことになっているんだ。おかしい。どうしても思い出せない部分がある。

 医者がやってきて、何か真剣な表情で一言二言、話していた。それを聞いていた祥子の両親は、お互いに慰めあうように、そうしなければ立っていられないかのように支えあう。

「もう一度、先生、いまなんて言った?」

 俺には医者がなんと言ったのか聞こえない。もう一度はっきり言って欲しいのに、医者は俺の声が聞こえてないのか、沈痛な面持ちで家族のほうを見ていた。

 ……なんだよ、言ってくれ。

 突然、見ているものが歪みだした。俺がめまいを起こしているのではなく、本当に歪んでいる。すぐに、湯あたりしたときのように立っていられなくなると、床に落ちていく感覚があった。

 眼を開けると、何も見えなかった。眼が見えなくなってしまっていた。しかも身体感覚がなく、いま自分がどんな状況なのかわからなかった。音すらなく、そのせいで耳がたまらなく痛い。なにも見えず、感じないことがこれほど恐ろしいとは思いもしなかった。まるで死というものを実感しているようだ。

 ――ようやく遊びを始められるな。お前のような存在がここに来るのは珍しいことだ。ありがたく思え。
なんだ? とつぜん近くで声がした。いや、頭の中で、だ。声の主には俺が見えているようだ。

 ――いきなり喋るから驚いているぞ。

 声とともに小さな光が現れたと思うと、その光が爆発するかのように膨れ上がった。普通なら失明してもおかしくないほどの、すべて消しさってしまいそうな光だった。眼を閉じても一向に光の強さが変わらないほど。光はすべてを照らし満足したのか、ひとところに集まり人型となった。いつの間にかその横には、どんな光も飲み込んでしまうのではないか、そう思えるような人型をした闇があった。

 光が現れたことでここがなにもないところだと解った。無というものがあるとすれば、このことなのかもしれない。自分の存在すら飲み込まれてしまうような気がした。

 宇宙空間のような所で、自分は浮いているのか、どの方向かに落ちているのか――いや、その両方といったほうが正しい気がした。

 そしてこの二つの光と闇は生き物なのだろうか?
 ――ふむ、この男、意外に冷静だな。我々にたいして生き物というのは失礼だが。

 闇が少し膨れ上がりながら言った。

 ――突然連れてこられたのだから仕方ないだろう。それよりもどう言ったものか。
光が闇の広がりを抑えながら言った。

 「お、お前ら、いったいなんなんだ?」
――そんなことはどうでもよい。それよりもわれわれの遊びに参加してもらう。
光のほうが言った。

「遊び?」

 ――そう、参加と言うより選ぶだけでよい。我々の言う方を選べば、お前の恋人を助けてやろうではないか。
闇が言った。

「ほんとうか? やるに決まってる! 祥子が助かるならなんだってやってやるっ。なんだ? どうすればいいんだ?」

 ――そうあせるな。お前はただいつも通りしていればよいだけの話だ。おのれの立場すらわきまえぬ存在よ。
言い終えると同時に、闇が大きく膨れあがった。

 ――まあ抑えろ。この生き物はこういうものだ。どちらかといえば不躾なのは我々のほうなのだ。
「おい。どうすればいいんだ?」

 光のほうが闇になにか言っていたようだったが、俺には聞こえなかった。

 ――何もしなくてよい。お前はただ選ぶだけなのだ。お前の後ろにある赤と白の扉を選べばいい。

 振り返ると、俺の後ろに扉が二つあった。白い扉は光を発していて、その向こうは病室のようだ。赤い扉は、気味が悪いほどの、血のような色をしていて、扉の向こうがどうなっているかはわからない。

 ――選べ。もし我々の言うことが信じられないのなら、白の扉。信じるのなら、赤の扉へ。
考える必要などない。俺は赤の扉へ入った。


 ――さて、あの男はどうするかな?

 闇は気分の高揚を抑えられないかのように膨れ上がり、光に言った。

 ――我々にも想像できないから楽しいのではないか。

 ――ふははははっ、確かにそうだ。

 身体に重さがもどった、と感じたかと思ったら、急に痛みを感じた。眼を開けたが焦点が合わず、目を細める。俺を覗き込む祥子の両親の顔があった。良く見ると俺の両親もいた。

「お父さんにお母さん、なんでここに?」
四人とも俺がそういうと嬉しそうに顔をゆがめた。

「あぁっよかったっ! 一時はどうなるかと。先生がもって後一日っていうもんだから」
なんだ、どうなったんだ。これは……そうだ、祥子は。

「……はどうなった?」

 祥子と言いたかったのに声に出せなかった。けれど親たちは俺が何を言いたかったのか察したようだ。だが、一変して暗い表情になった。そう祥子は死んでしまったんだ。

「いまどこに?」

 これだけ言うのが精一杯だった。

「……残念だが」

 俺の父親が悲しげな、息苦しいような声で言った。
「そんな……、いま何処なんですか、会わせて下さい」

 いつの間にか涙があふれていた。あまりの喪失感に、痛みもなにも感じなかった。
「無理ですよ。いま話をしていることじたい私には信じられないというのに、いま動かすなんて無理です」
いつのまに来たのか、初めからいたのだろうか、メガネをかけた偉そうな医者が言った。

「う、動ける。ほら」

 ぐっと身体に力を入れると、医者が言うのとは反対に、痛みもなく、普段となんら変わらず身体を起こすことができた。

「ちょ、ちょっと、本当に動かすひとがありますかっ。安静にしててください」

 そんなに俺はひどい状態なのか、両親たちも驚いていたが、医者の驚きようには少し驚いた。

「どこですか? 教えてください。教えてくれないなら這ってでも探します」

「むちゃ言わないでください。かなりの重症ですよ?」

 困った表情で医者が言った。けれど、俺がしつこく言い続けると、了承してくれた。数人がかりで慎重に車椅子に乗せられ、霊安室に向かった。

 生の世界からいきなり死の世界に入った気分だった。ここは死んだ人間が入る世界だが、入った人間をも死なせてしまうところだと思った。

 白いシーツを被せた簡易ベッドが引き出されてきた。なぜだか見るのが怖かった。死んだ恋人を見てしまったら……それを認める自分が怖かった。

 頭の覆いがゆっくりとはぎとられていき、蒼白の顔が眼に入った。
「ひっ」

 見ているものが信じられなかった。恐ろしさで頭がいっぱいになった。そこにあるのは蒼白の顔をした、俺だった。その瞬間一気に記憶が戻った。嬉しそうに笑う祥子を車に乗せて、遊園地にいく途中……。

「事故にあったんだ」

 自分でも身体がこわばりながら小刻みに震えているのがわかった。腕が、足が、背中が、車椅子に押し付けられているような。声も出なかった。

 急いで周りを見渡した。祥子の両親や俺の両親がおかしな目で俺を見ていた。俺は自分の姿が見れるものを探した。ないと思ったときには身体が動いていた。足にするどい痛みがはしった。左腕にも痛みが走り、腕が折れている
のだとわかった。立てる。足は折れていない。トイレを探して走った。と、とたんに身体がカクンと右に傾き、自分の足が折れているのだとわかる。けれど、何故だか痛みは感じなかった。かまわず歩いた。
あそこにいるのが俺なら、いったい俺はなんなんだ?

「祥子っ」

 祥子の母親が出て行く俺に叫んだ。俺に向かって! だが確かめずにはいられなかった。自分の顔を。トイレに駆け込み、鏡と向き合った。そこには俺を証明するものが何一つなかった。唯一、それが自分だと証明していたのが、驚いた表情だった。涙が流れていた。

 鏡に映った顔は、俺が愛した祥子の顔そのものだった。

 ――ふははははっ、何度みてもあの人間の表情はやめられんな。これで人間すべてが蟻地獄のなかの蟻だと知ったら、どんな顔をするのだろうな。

 井戸のようなところを覗き込みながら闇が笑っている。

 ――そうだな。あがく姿は美しくもあるが同時に滑稽でもある。
 
 井戸のなかに映っている女が狂ったように走り、窓から外へ、頭から落ちていくのが見えた。

 ――自殺をしたか。人間というのは、我々にとっては嬉しい誤算だったな。
 
 ――失敗したと思っていたが、まったく、観ていて飽きないな。恐竜は滅ぼして正解だったな。
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