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Summer Camp

第62話

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 七回表の攻撃が始まる。初回に得点して以降はチャンスを作るも玄武大学先発の塩崎を打ち崩せずにいた。ランナーが溜まればギアを上げて威力とキレを増す特徴がある塩崎は一切の油断を見せずピンチでも淡々と抑えていた。

「りかこさんお疲れ様でした。相手バッターどうですか?」

 ベンチの奥に腰を下ろしたりかこにタオルを手渡す。

「どうもってあんた最終回投げるらしいわね」

「はい」

「じゃあ投球練習は念入りに、先発と違って踏み込む足場が荒らされているからしっかり自分の足場を作って感覚を掴みなさいよ」

 りかこは久留実の左腕を引っ張って横に座らせる。戦闘バッターは八番セカンドで出場している希で、三塁線に絶妙なセーフティーバントを決めた。

「あんこがピッチャーにコンバート出来たのは希が成長したからだと思う。まぁ当然よね私が育てたんだから」

 希が出塁すると、ソフィーが自分のことのように喜んで、同級生である琴音や眞子も拍手して声援を送っていた。

「希は学部も違うし三年生になったら教育学部のカリキュラムで実習が増えるから練習に参加できなくなるの、だから彼女にとって秋季が選手として満足にプレーできる最後の年になる」

 考え深そうな顔をするりかこは一塁線上でサインを確認する希を眺めて言った。

「あんた一人じゃない、みんな自分の居場所を探して足掻いてる。だから過剰にプレッシャーに感じることもないし、気負うこともない」

「はい」

「あんたそもそも不器用なんだから真咲さんのミット目掛けて投げ込めばいいのよ」

「はい」

 それだけ言うとりかこはキャッチボールに行けと促す。真咲は菜穂との打ち合わせを終えて外に出ようとしていた。

「勝ってきなさいよ」

 りかこの言葉を背中に受けて久留実は真咲の元へ向かった。打線も後続が続かずツーアウト。このまま同点で最終回のマウンドにあがることになりそうだ。 

 翔子がレフトフライに打ち取られると菜穂はバッテリーの交代を審判に告げて久留実の名前がグラウンドにコールされる。

 マウンドに上がる。強く吹きだした風に煽られながら砂塵が舞い上がった。遠くの空から雲が流れそれが時折グラウンドに陰を作ったが、八月の暑さから逃れることはできない。そもそも気分が高揚しているのだから今から突然のゲリラ豪雨に襲われても体が冷めることはない。

「先生どうしてあたしを指名してくれなかったんですか?」

 菜穂の横に移動したあんこが小柄な体を寄せて不満そうに語りかける。四回終了時からブルペンで準備していたあんこは自分の出番を待ち構えていたが、久留実の名前がコールされてから敵、味方の興味が久留実に移り気になる。最終回の攻防の主役は自分の進退をかけてマウンドに上がった久留実に移ってしまったことに納得がいかないのだ。

「点を取られたらサヨナラ負けだよ」

「そうですね、でも咲坂さんは絶対抑えます」

「絶対なんて野球にないもん」

「安城さんの言う通り、野球に絶対はないわ」

 あんこは右肩をこれ見よがしにぐるぐると回し菜穂を睨みつける。

「先生はこの試合に負けてもいいと思ってるの?」

「まさか」鼻を鳴らし軽く微笑む。

「勝負事に負けていいなんてことはないです、ただ私が見据えているのは目先の一勝よりももっと先のこと」

 菜穂は遠くを見つめながら思慮深く言った。まるでそこに何かがあるような物言いにあんこは首を傾げる。

「分かりましたよ、でもいつでも行ける準備はしとくんでなんかあったらブルペン呼んでください」

 あんこはぎりぎりと手を握りしめた。ベンチの裏に常備してあったミネラルウォーターを手にとり、ブルペンに向かいながら半分ほど飲み干す。残りの半分を頭にぶっかけて火照った体と思考を冷やした。

「何をイラついてんだろ、あたし」

 髪から水が垂れブルペンのマウンドに黒い小さなシミを大量に作った。

 
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