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他の隊長はまとも……じゃなかった

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「そういえば、隊長会議ってなんですか?」
 道中、春は気になったことを尋ねてみる。
「その名の通り、定火消の隊長格が集まってする会議ですね。まぁ、名前だけの飲み会ですけど。ほら、隊長って普段はお酒を飲めないから」
 いつ鬼が出現するか分からないために、基本的に隊長格は禁酒している者が多い。だが、あまりに禁欲的にすると精神的に持たない者がいるため、月に一度会議と称した飲み会をおこなっているらしい。
「俺は酒が嫌いだから飲みませんけど」
「そうなんですか」
「あれって、酸っぱいですよね」
 その酒は腐っていたのだろう、と春は思った。
「それに青龍隊の隊長だって、お酒は弱いんですよ」
 懐かしい名前が出てきたせいではないが、春は足を止めた。
 鴉は、そんな春に気が付いて首をかしげる。
「どうしたんですか?」
「いや……知り合いが」
 一瞬だけすれ違ったのは、青龍隊で共に学んだ仲間であった。
 私服であったから、彼らも今日は非番なのだろう。声をかけられなかったのは鴉を案内するという役割があったことと、今の自分がかつての仲間に誇れるものではないと思ったからだった。憧れは隣を歩いているのに、春自身は鴉に一歩も近づけていない。むしろ、どんどん遠ざかっているような気がする。今の自分を、過去の知り合いに見られたくなかった。
 春が怪我をしてから、三回の鬼の出現があった。
 一つは春が怪我をしたときに出現した、消える鬼であった。前回と同じように、鬼は鴉が現れたと同時に消えた。そんな不可思議な鬼は、定火消たちの間で消え鬼という名称がつけられた。そのほか二つはごく普通の鬼で、鴉が現場に一番に駆けつけて大活躍した。
 春は怪我をしていたから、現場には行けなかった。
 それでも鴉は鬼を倒し、他の誰も寄せ付けない。
 間違いなく、春は不要な存在だった。鴉は春を必要としていないし、誰も春が現場にいないことに気が付かなかった。優秀で、常に注目を集めていた春にとっては、それは挫折であった。頭では自分が力のない新人であると分かっているのだが、実感するのはまた違ったものだ。
 それに、思ってしまうのだ。
 かつて同じことを学んだ友人たちが、自分のことを悪く言っているのではないかと。
 ――春なんて大したことなかった。
 そんな風に言われているような気がしてしまうのだ。
「声かければいいのに」
 遠くに行ってしまった春の知り合いを見送った鴉は、残念そうに呟く。
「今はなんていうか……」
 自信がないから辛い、と言う前に鴉は春の眼前に躍りでた。
 真っ黒の髪が風になびき、白い顔が少しばかり寂しげに微笑む。
 いつもの大げさなぐらいに子供っぽい仕草が、今ここにはなかった。
「新人は、一年で半分に減ります。次に会おうと思ったら、次なんてなくなっている」
 鴉は、一番若い定火消の隊長である。
 単独行動を得意とする彼は、おそらくは火消のなかでは仲間を失う経験が少ない方だろう。それでも、鴉は寂しげに語る。
「後悔……しないようにしてくださいね。四十万だって、同じことを言います。彼の同年代は、もうほとんどいません」
 四十代の四十万は、定火消としては珍しいほど年嵩である。火消は死亡率が高いために、致し方ないことではある。
「鴉隊にいるからこそ、昔の縁は大切にしてください」
 ふざけたような女の装いが、徐々に江戸の町に溶けていく。
 春は、一瞬だけそれを見送ろうとしてしまった。
 次の瞬間に「だめだ」と思った。
 たとえ自分の実力で追いつけなくとも、並べなくとも、相手が遠くに行こうと、自分が鴉にあこがれ続ける限りは手を伸ばさなくてはならないと思った。
「隊長!」
 春が呼ぶ。
 江戸の町を歩く人々の背中が、少しだけ割れたように見えた。
 その先には、薄紅色の着物をまとった鴉が立ち止まっている。
「呼びましたか?」
 鴉は、春を待っていた。
 それが、この上ない優しさに思えた。
「いいえ。なんでもありません」
 未熟でいることを許してくれるような雰囲気に、春は手を伸ばす。
 鴉の着物の袖を掴むだけで、この世すべての悪意から逃れられるような気がした。鴉の圧倒的な力で守られているような気がした。
 鴉と共にいると、時より家族といたころを思い出す。柔らかいなにかで守られているような感覚――。他の部隊に所属している者たちも、こんな安心感を感じているのだろうか。
「なにするんだよ!!」
 女性の大声が聞こえた。
 鴉は人込みを掻き分けて、声がした方向へと走っていく。
「隊長!待ってください、隊長!!一人で行ったら、たぶん戻ってこれなくなりますよ。方向音痴なんだから」
 春は、鴉を追いかける。
 人込みのなかで走る時でさえ、鴉は素早い。
 一緒に歩いていられたのは、鴉に手加減されていたからなのだと思い知る。春がいなければ、鴉はもっと早く自由に飛び回ることができるのである。
「隊長……」
 やっとのことで春が鴉に追いついたとき、鴉は一組の男女の前に立っていた。そして、非常に困った顔をしていた。
「白虎……ええっと、女の人には優しくした方がいいですよ」
 鴉の目の前にいる男女――というか、男は女の腕をむんずと掴んでいた。女が持っているのは男物の財布で、どうやら男はスリを捕まえたらしい。
 随分と小柄な男で、スリを働いた女の方が身長が高いほどであたった。舶来物の高級な眼鏡をかけていることから、きっと幕府に繋がりがある良い身分の男なのだろう。
「犯罪者にまで優しくしてする道理は――……鴉、おまえは人にやさしく以前にちゃんとした格好をしてください!!」
 鴉の恰好を見て毒気を抜かれたらしい男は、女の腕を離す。その前に財布を取り戻しておくことも忘れておらず、女は「覚えておきなよ!」と叫びながら逃げ去った。
「それで、その脳みそが腐ったような恰好はどういうわけなんですか」
 辛辣な男の言葉に、春は鴉の表情を盗み見る。
 鴉は、男の言葉など気にしているふうではない。もっとも、気にしていたら女装して町を歩くこともないだろうが。
「兄上のご注文でした」
「朱雀の考えを、おまえが間違えて解釈したことだけは強く伝わってきました」
 聞いただけ無駄だった、とばかりに男はため息をつく。
「白虎隊の隊長の……」
 ようやく春は、女よりも小柄な男が誰なのか気が付いた。
 白虎隊隊長、白虎である。
 年齢は朱雀より上の三十代前半だが、隊長格のなかでは一番隊長歴が浅い人物だ。花火を取り扱う店の次男で、あまりにも視力と素行が悪かったために勘当されたという噂である。
「白虎はどうしたんですか?まだ、隊長会議まで時間がありますよ」
「俺は、玄武と先に話がしたかんたです。隊長会議なんて、すぐに飲み会になってまともに話せないのが常じゃないですか」
 そして、待ち合わせの最中に財布をすられたのだという。
 定火消の隊長としては情けないことこの上ないが、白虎の場合は仕方がないという気がしてきた。なにせ、彼は――とても小さい。
「白虎は小さいですから、カモだと思われたんでしょうね」
 言いにくいことを、鴉はずばりと言った。
「それは真実だと思うが……女装している馬鹿に言われると腹が立つ」
 突然、白虎の体が宙に浮いた。
 春も鴉も、その光景に驚く。子供のように小柄な白虎であったが、着ている物から白虎を本物の子供だと勘違いすることはない。それでも、白虎は軽々と持ち上げられた。
 白虎の体を持ち上げたのは、彼の後ろにいた大男であった。春と比べても巨人のように大きく、白虎との身長差は頭二つ以上もあった。
「白虎!」
 鴉が、飛び上がる。
 おそらくは、白虎が大男に襲われると思ったのだろう。
「隊長、駄目です!!」
 春は、鴉を止めようとした。
 だが、それは鴉が飛び上がった後だった。もう、鴉は落下することしかできない。そこでようやく、鴉は自分の間違いに気が付いた。
「あっ……あああああっ!!」
 後悔で叫んだところで、鴉が止まれるわけもない。
 案の定というよりは当初の狙い通り、鴉は白虎も巻き込みつつ彼をいきなり持ち上げた相手を蹴った。蹴られた相手は白虎を抱き上げつつも後ろに倒れ、鴉は白虎の上に馬乗りになるように着地した。精一杯踏みつけないように注意した結果、そうなったらしい。
「まったく、若者は元気があっていいな」
 鴉と白虎の下敷きになってしまった男は「よっこらしょ」と掛け声をかけてから、鴉や白虎をどかした。
「ごめんなさい……玄武」
 鴉はしょんぼりとしていたが、春としては頭を抱えた。
 鴉に押しつぶされても豪快に笑う男は、玄武。
 五十代であり、定火消のなかでは最高齢である。しかし、一番長く隊長を務めあげている男でもあった。そのため、隊長格のなかでは発言権が一番高いのではないかと目されている。
「いいってことよ。大方、白虎を守ろうとしたんだろう」
 大柄な玄武は、鴉の頭をぽんぽんと撫でた。
 鴉は小柄なほうではないが、かなり大柄な玄武と並び立つと子供のように見える。事実、隊長格のなかで最年少の鴉などは玄武にとっては子供のようなものなのかもしれない。
「それにしても、どうして玄武までいるんでしょうか?」
 鴉は、首をかしげる。
「気がついてください。俺が呼んだんです」
 白虎の言葉に、鴉は「なんで?」とさらに尋ねる。
 その無邪気な様子に苛立ちを感じたらしい白虎は、ぎゅっと鴉の頬をつねった。いつの間にか敬語も取れて、白虎と鴉は気安い雰囲気となっている。過剰な愛情表現と過剰な拒否がないぶん、白虎のほうが鴉の兄らしく見えた。
「おまえは、消え鬼について何にも考えていない馬鹿者なんだろうねー」
 定火消になる前の白虎は、荒くれ者の棟梁をやっていたらしい。春は噂でしか聞いたことがないが、白虎は高価な眼鏡につられて定火消になったのだと言う。冗談みたいな噂だが、鴉が腕を自分で切り捨てたという噂もあるから定火消にまつわる噂など充てにならないものなのかもしれない。
「現れたり消えたりする鬼なんて、追いかけ続けければいつかは倒せるんじゃ……」
 馬鹿者、と白虎はさらに鴉の頬を強くつねる。
「もしも、あの消え鬼が人間に戻っていたらどうする」
 白虎のささやきに、春は目を丸くする。
 人は激情によって鬼火を燃やす。
 鬼火が燃えれば、鬼となる。
 鬼は人に戻れず、害なすものとして火消は鬼を倒す。
 だが、もしも鬼が人に戻るのならば――春たちの行為は殺人に他ならない。春は、己の手を見る。未だに春に直接的な鬼の討伐体験はないが、それでも自分の手が汚れて見えた。
 ならば鴉はどうなのだろうか、と春は思う。
 誰よりも多くの鬼を屠ってきた鴉ならば。
「ええっと……それは何か問題なのでしょうか?」
 本当に分からないのだ、という顔を鴉はしていた。
「……鬼が人に戻る可能性があるならば、俺たちがしていたことが殺人になる可能性があるということだ」
 白虎の説明も、鴉は理解していないようであった。
 不安げに玄武の表情を伺う。
 だが、玄武には白虎の話を詳しく説明する気はないらしい。
 白虎は、ため息をついた。
「もし、消え鬼が人間に戻ることができる鬼だと仮定しよう。鬼になる可能性が高いというだけで人を殺せるかという話に……」
「殺せますよ」
 話が終わらないうちに、鴉は答えた。
 白虎は鴉の答えに、言葉を失う。そして、助けを求めるように玄武を見た。時間差ではあったが、二人から助けを求められた玄武は静かに腕を組んで何かを考えていたようであった。
「人ですよ。鬼より戦いやすい相手です。そりゃまぁ、人間相手の道場剣術は俺の苦手分野ではあったりしますけど」
 鴉の言葉に、ようやく玄武が反応を示す。
「それでは、鬼になりうるからという理由で江戸の人々を切れるのか?」
「はい。今までと何が変わるのでしょうか?」
 鴉の考えは、ある意味では正しい。
 人とあまりに違う姿をしているが、鬼は結局のところは人である。火消のしていることなど、単なる人殺しなのである。
 そういう意味では、鴉はこの場にいる誰よりも定火消の仕事を理解していた。だが、それでも春は「違う」と叫びたかった。春の命は、鴉に救われたものである。たしかに定火消は鬼を殺しているのかもしれないが、それ以上に春のような人間を救ってもいるのだ。
 だからこそ「違う」と叫びたかった。
「……わかった。鴉、おまえは消え鬼の件を最優先にしろ。もしも、他の鬼が出てきてもお前は消え鬼を追うんだ」
 玄武は、鴉にそう言った。
 その言葉に驚いたのは、白虎である。
「あんたまで、脳みそ筋肉なんですかー」
 自分よりも年上の玄武に、白虎は突っかかる。
 だが、若者の言葉に年長者は鷹揚であった。
「白虎の言いたいこともわかるさ。たしかに、消え鬼が人間に戻っているのならば……定火消の根幹を揺るがしかねない。俺たちは鬼が人に戻れず、江戸に仇なすからこそ殺している。だがな、実際問題――今は消え鬼を殺さなければならないだろう」
 玄武の言葉に、白虎は悔しそうに黙った。
 春も、玄武の言葉は間違っていないと思う。現段階では消え鬼が人に戻っているというのは可能性の一つの話であり、たとえ人に戻っていたとしても定火消である自分たちは殺さなくてはならないのだ。
 鴉は、殺せると言った。
 定火消のなかで最速の鴉が、殺せると言った。
 それは、定火消たちが仕事を全うできるという意味合いに聞こえた。
「たしかに、そうかもしれない。だが……鬼が人に戻ると言うなら、俺たちの仕事内容も変わるかもしれない。はぁ、今日はその相談をしようと思ったのに」
 白虎のため息に、玄武は豪快に笑う。
「そんなの現場の俺たちが悩む問題じゃないだろう!」
「あんたは、少しは悩め!!」
 何のためにいるんだ最高齢!!と白虎は檄を飛ばす。
 玄武は「あはははは」と笑うだけで何もしない。
「それにしても、よく考えれば怖いかもしれないですね。消え鬼から人間に戻った奴が……江戸に潜んでいるかもしれないだなんて」
 春は、ぼそりと呟いた。
 玄武の笑い声が止まり、白虎は目を点にした。
「いや……あんたは誰だ?」
 恐る恐るといったふうに、白虎が春を指差す。
 玄武までもが、困ったような顔をしていた。
 二人の表情を見て、春はようやく自分が玄武と白虎に認識されていなかったことを知った。二人が隊長であるから春は一方的に顔を知っていたが、春は二人と喋ったこともない。初対面である。しかも、春は玄武と白虎と会ってから一言も喋っていなかった。鴉も春の方を見ていなかったので、偶然側にいる一般人としか思われていなかったのだろう。
 もういっそ一般人のふりをして逃げようかな、と春は思ってしまった。
 玄武と白虎が、春を見る目は剣呑である。二人からしてみれば、今までの話は隊長格だけで済ませたかったのであろう。
「あっ、そういえば紹介がまだでしたね。鴉隊の新人の春です」
 鴉は、意気揚々と春を紹介した。
 白虎の視線に、一瞬だが殺気が混ざった。その殺気を感じたとき、春はぞくりとした。一番隊長歴が浅いとはいえ、白虎も定火消の隊を一つ任されている身である。
 春とは、今まで培ってきた経験が違う。
 それでも、負けるものかと春は自分を鼓舞する。
 嫌、なのだ。
 鴉の隣にいるときに、誰かに負けるのが嫌なのだ。
 鴉の隣にいるときに、鴉に情けない恰好を見せて、失望されたりしたくない。その一心で、春は白虎の殺気に耐えた。
「……鴉。この新人がいることを私たちに知らせなかったのは、見どころがあるとでも思ったからですかー?」
 白虎が、鴉に尋ねる。
 鴉は首を振った、横に。
「今日は一緒にいることを忘れていました」
 清々しい一言に、白虎の堪忍袋の緒が切れた。「この脳みそ筋肉代表!」と怒鳴りながら、鴉に向かって正拳を突き出す。鴉は、それをひょいと避けた。
「おまえたち、もういいだろ。聞いてしまったことは仕方がないから、春はこのことは口外するな」
 玄武が、白虎と鴉を止める。
 そして、春にも釘を刺した。
 白虎や鴉と違い、玄武を目の前にすると圧力を感じた。どっしりとした無言の威圧感に、春の未熟な皮膚はピリピリと痛んだような気がした。白虎の時とは違う迫力に、春はうっかり負けそうになった。だが、隣にいる鴉は玄武の迫力なんてものに気が付かないのか平然としている。白虎でさえ、玄武の迫力には少しおののいているというのに。
「それと鴉、いつものようにはあまり動くな。着付けが緩んでるぞ」
 玄武は最後に、鴉の恰好を見てそう注意をする。
 白虎の攻撃を避けたばかりの鴉は、乱れた着物を何とか正そうとする。だが、片手だからなのかますます乱れていくのであった。仕方がないとばかりに、春は鴉の袖を引く。
「隊長。どこかで場所を借りましょう。着付けをしなおします」
 春は玄武と白虎に頭を下げて、その場を去る。
 白虎も玄武も、特に春たちを止めなかった。これ以上込み入った話をするにしても、春の存在は邪魔に違いない。それにきっと――鴉の存在だって邪魔なのだ。だからこそ、玄武は春の着物が乱れているだなんてことを言ったような気が春にはしていた。
 春は、古着屋に飛び込んだ。
 よほど裕福ではないかぎり、着物は古着ですませるのが常である。布は折るのが面倒で、それを大量に使う衣類は高価なのだ。庶民には古着ぐらいしか手に入らない。
「すみません。何か買うんで、奥を使わせてください」
 春が店の者に頼むと「買わなくていいから、早く着付けなおしたほうがいいですよ」という返答が帰ってきた。改めて見てみると、それほどまでに春の恰好は酷かった。気が狂っていると思われても仕方がない状態だ。着崩れて肩まで露出してしまうと、もう一目で鴉が男性であると分かる。
 女とは、筋肉のつき方が違うのだ。
 今の鴉は、そこまで肉体を露出させているわけではない。肩がようやく見える程度だ。けれども、その肩から下の筋肉は簡単に想像することができた。
 重い日本刀を腕一本で支え続けることができる腕の筋肉も、驚異的な背筋も、何より人間離れした跳躍を可能にする足の筋力も……鴉の肉体のすべてを露わになった肩一つで想像することができた。
 春は貸してもらった店の奥に鴉を引っ張りこむと、鴉の女物の帯を緩めようとした。もうここまで乱れてしまっているのならば、一からやり直したほうが早いと春は思ったのだ。着物の帯を緩めると、鴉の肩に辛うじて引っかかっていた着物がするりと落ちた。
「おっと」
 さすがの鴉も、着物を抑える。
 着物が体から全部落ちてしまうという危機は脱したが、鴉が失くした腕はさらされた。鴉が自分自身で切り落としたと噂される、二の腕から先の腕。
 今は春の目の前に、鴉の腕はなかった。
 本来ならばあるはずの、鴉の片腕。
 あるはずのものがない、というだけで鴉の肉体はひどく脆いようにも思われた。
「……」
 むろん、鴉は弱くはない。
 春よりもはるか高みにいる人物である。それでも鴉が片腕を失ったことにより、最盛期の力を失ったことは確かだ。噂によれば、鴉はすべての人間を助けることができる力を自分から手放した。兄一人を救うためだけに、万人を救う力を手放した。
「これ、気になりますか?」
 鴉は、腕があるはずの場所を指差す。
「……少し。隊長は、どうして腕と引き換えにしても兄を助けようとしたのですか。唯一の肉親だとは聞いているのですが……」
「それ以上だよ」
 春に着物を着せてもらいながら、鴉は呟く。
 失われた腕を見ないようにしながら、春は鴉に着物を着せていく。
「俺は、昔は一人で山に住んでいた。自分を人間だと思わず、山の妖怪だと思っていた。でも、兄上が俺に名前をくれたんです。俺を人間だと教えてくれたんです」
 春は、鴉の帯を結び直す。
 それを知らせるために、鴉の背をぽんと叩く。鴉は、くるりと春の方を振り向く。長い髪が奔放に揺れ動き、世界を艶やかな黒に染め上げた。
「だから、私は片腕を失ったことを後悔しません。たとえ兄以外のすべての人間を救えた力が残ったとしても、兄一人を失ったら私は今現在でも力を持っていることを後悔します」
 にっこり、と鴉は笑った。
「だから、俺は今の自分が大好きです」
 大好きなんです、と鴉は言う。
「俺は……俺だったら一人を救って、その他は救えなくなるかもしれない力なんて嫌かもしれない」
 春は、最盛期の鴉に救われた。
 あの頃の鴉でなければ、春はおそらくは救われなかった。
 春が目指すべき高みは、あの頃の鴉なのである。なにも失わず、完全無欠の存在であったころの鴉。あの頃の鴉が、鬼を倒してくれなければ春はいなかったのだ。
「もちろん、隊長の強さが鈍っているとは全然思っていないですけど……」
「正直に言ってください」
 鴉が、真剣な声色を出す。
 その声に、春は気圧される。玄武を前にした時と似た気配を感じた。だが、玄武は意図して春に圧力をかけていた。鴉は自分が春に圧力をかけていることにすら、気が付いていないようであった。
「俺は正直な話……今の隊長が少し理解できないかもしれないです」
 春は、自分の思いを正直に口にした。
 その思いは、定火消や江戸の住民の言葉にはしない思いのような気がした。
「たった一人のために腕一本を切り落とさないで――両腕の強さで江戸を守って欲しかった」
 恐る恐る春は、鴉の顔を見た。
 鴉の表情は、静かであった。怒ってもいないし、不機嫌にもなっておらず、まるで春の言葉になんて価値を見出していないようであった。
「そうか、そうなんだ。うん、そうですよね」
「隊長は両腕がそろっている時は、どんな鬼にだって止めを刺せました。けれども、今は……隊長は鬼に止めを刺せていません」
 鬼が現れれば、鴉はどんな現場にだって駆けつける。
 それでも、鴉は片腕を失ってからは鬼に直接的な止めを刺せないでいた。誰よりも鬼の近くまで飛ぶが、止めは他者に譲る。春はその様子から、一つの予測を立てていた。
「隊長はもう片腕しかない。そのせいで体重を上手く刀に乗せられない。だから、鬼には致命傷を与えられない……」
 それでも鴉が弱ったと感じられないのは、鴉の強さの本質が腕力になかったからである。鴉の強みは、誰よりも高く跳べる足にある。それでも、鴉の強さが損なわれたのは確かだった。
「たしかに、定火消としての寿命も縮まったかもしれませんね。評価も低くなったかもしれません。それでも――兄上が生きているほうがずっといい」
 鴉は、言う。
 自分の両腕がそろっている状況よりも、朱雀という人間一人が生き残っている方が良いと。
「この世の中心というのは、江戸城に負わす徳川なにがし様なのでしょうが、俺にとってのこの世の中心とは兄上なのです。徳川なにがし様がお亡くなりになられれば江戸に激震が走るように、兄上が死ねば俺の世界は壊れます。俺は世界を壊さないように、ちょっと守っただけなんですよ」
 鴉は、財布を取り出す。
「さて、なにか適当なものでも買って帰りましょう。買わなくていいとは言われましたけど、結構長居になってしまいましたし……新しい着物も欲しいですしね」
 男物の海老茶色の着物とかありませんかね、と鴉は呟いた。
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