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第一章 壊せないカンゾウ

春の便り

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 右近はヤカンが沸騰を報せる音を合図に、ホットサンドメーカーに食パンと具材を放り込んだ。タイマーをセットし、コンロの火を止めてから、リビング兼応接室を通り抜ける。

 奥の部屋のドアに一応のノックをしたが、これに返事が返ってきたことはない。


「合歓さん、開けますよ」


 それでも一応の礼儀は尽くして、ノブを回した。

 部屋の中は分厚いカーテンのおかげで真っ暗だ。電気のコードを引くためには、乱雑に積まれた書籍たちと、司書が番をするように散らばるぬいぐるみたちの間を縫って部屋の中央まで行かなければならない。右近は少し考えた後で、壁沿いに進んでカーテンを捲ることを択んだ。

 カーテンの端を手繰り寄せるように開くと、部屋の中に光が差し込む。


「朝ですよ、合歓さん。起きてくださーい」


 足の踏み場もない中、書籍を爪先で押し退けながら進み、反対側のカーテンを開ける。それによって部屋の主の顔に日光が直撃し、ふみうと間抜けなうめき声が上がる。


「……あと五分」

「さっきも聞きました」

「『さっき』とはいつだい右近くん。何時何分何秒、地球が何回回った時?」

「小学生ですか」


 右近は嘆息をしてベッドへ向かった。布団の中に潜り込もうとするクマさんパジャマから、すんでのところで布団を引っぺがすと、押さえられていた髪の毛が爆発した。まるで合歓が二人に増えたかのように膨らんだそれは、一体どういう仕組みか、針金のように固くなっている。


「起きないと、サンドイッチにパクチーを挟みます」

「……わかったよ、起きる、起きるから。それだけはやめてくれぇ」


 合歓は情けない声を上げて、寝返りの反動を使って体を起こした。「ふぁあふ」と欠伸をしてから、小さな背中を丸めて目を擦る様は、さながら毛づくろいをするハリネズミだ。

 右近は一足先に戻り、ヤカンのお湯を湯桶に流し込んだ。掃除用のゴム手袋をつけてタオルを浸し、それでも貫通してくる熱さにお手玉をしながらどうにか絞る。

 合歓が寝ぼけ眼を擦りながら寝室から出てきた。爆発ヘアのせいでクマさんのフードが被り切れず、彼女の小動物のような体躯も相まって、綿がはみ出たぬいぐるみのようだ。そんな、夜に出くわしたら悲鳴を上げてしまいそうな姿の合歓を手招き、絞ったばかりの熱々のタオルで毛先から挟んでいく。この強敵には、電子レンジ製の蒸しタオルでは歯が立たないのだ。

 水分を与えて艶を出す蘇生の儀式を襟首まで行うと、新しいタオルを拡げてターバンのように頭に巻きつける。ぴょこんとはみ出した前髪を押し込めば、朝の大仕事が完了。元気にむき出したおでこは、癖っ毛とは打って変わってつるつるの卵肌なのが憎らしい。


「はい、終わりましたよ。歯を磨いて、顔を洗ったら、化粧水ですからね」


 合歓は返事ともうめき声とも似つかない幼気な声を上げて、冬眠上がりの子熊のようにのそのそと洗面所に向かった。右近はタオルの片づけをしながら後ろ姿を見送ったところで、彼女に伝え忘れていたことを思い出した。


「そういえば、歯磨き粉が切れていたんでした」

「うわあっ!?」


 洗面所に顔を出すと、合歓が素っ頓狂な大声を上げて、トイレの方まで飛んで行った。


「そんなに驚かなくても」

「驚くさ。万が一にも右近くんが、私が歯ブラシという棒状のものを、寝起きの無防備な顔で頬張るところを見て劣情を満たす変態かもしれないじゃないか」

「まーた馬鹿なことを……小学生の次は中学生ですか。あとどれくらいで大人に戻れます?」

「私は常に大人のレディだよ。同時に永遠の少女なだけでね。歯磨き粉の替えは自分で探すから、戻っていいよ右近お母さん」


 トイレの前に仁王立ちをしたままの合歓にしっしと手を払われた右近は、大人しく引き下がった。彼女のパーソナルスペースが時折妙な挙動を取るのは、今に始まったことではない。

 天才は変人と紙一重とはよく言ったもの。ならば抵抗するだけ無駄だろう。

 こんがり焼き上がったホットサンドを対角線で切り分ける。皿に盛ってリビングへ戻ると、匂いに浮足立った「ぐじゅぐじゅぺっ」が聞こえてきた。今度は園児にまで退行したらしい。


「化粧水がまだですよ」

「歯を磨きながら左手で塗った。もうお腹がぺこぺこだ」


 合歓は鹿せんべいを狙うような足取りでソファーに飛び込み、満面の笑顔で手を合わせてからサンドをつかみ上げた。一口頬張った後で、怪訝に瞬きしてから、いーっと顔を顰める。


「古来より人間は、狩りによって得た肉を食らって生きて来た。時代によってはアワやヒエを主食にせざるを得なかった。けれど時代は潰えず、栄えた」

「やっと大人になったかと思えば、なんですか急に」

「野菜を食すことの不必要性を説いているんだよ。パクチーを入れないって言ったじゃないか」

「入れてませんよ。あの時にはもうタイマーセットは済んでましたし」

「じゃあこれは?」


 合歓はサンドイッチの断面から、青い太めの茎のひとつを引っ張り出した。


「菜の花です。春ですから。歯ごたえと爽やかな風味が良いでしょう?」

「菜の花ぁ? アスパラガスの成りかけとの違いがわからない」

「嘘ばっかり。絵を描くために憶えて、マニアックな野菜も知ってるくせに」

「味は記憶してない。菜食主義という思想があるならば、肉食主義という思想も許されていいとは思わないか」

「ワガママばかり言ってないで、好き嫌いせず食べてください」


 一応の口直し用に煎れたコーヒーを差し出すと、合歓がぶつくさと唇を尖らせながらカップに口を付ける。しかし、何だかんだ言いながらも、ちゃんと完食はするのが彼女である。今日も時間をたっぷりかけた朝食が済んだ。

 右近が洗いものをしていると、玄関の方からノックの音がした。こちらの洗剤塗れの手の代わりに、合歓がコーヒー片手に「開いてますよ」と声をかける。出迎えてはくれないらしい。

 慌てて手を拭き、右近がリビングを抜けようとするより、ノブが回される方が早かった。

 入って来たのは春色コーデの若い女性。瀟洒なスタイルは長いコートでさらに引き立ち、たっぷりのアクセサリさえうるさくない。頭の後ろで一度しぼってからふわりと広げた栗色の髪は、ドレスのフレアのようだ。


「相変わらず殺風景なリビングですこと。画家のアトリエとは思えませんわね」

「いいじゃないかアイリス。美人すぎる画家のアトリエがシンプルなのもギャップさ」


 合歓が肩を竦めて返す。来訪者は兎耳とみみアイリス。フランスと日本のクォーターで、合歓を担当する絵画協会の学芸員をしている。


「いらっしゃいませ、アイリスさん」


 右近が急ぎ足で洗い物を済ませて戻ると、アイリスはこちらを見るなり険しい顔をした。


「げ、あなたもいましたの」

「住み込みなんだからいるに決まってるじゃないか。そうだ右近くん、昨日の残りのケーキがあっただろう。持ってきてくれ。あと彼女に紅茶も」

わたくしは紅茶だけで結構ですからね」

「おや、いいのかい。甘い物が好きだったと以前話していただろう」

「出所の問題です。貴女の仕事のことは理解しておりますし、死者の吐息というのも別段気にしてはおりませんけれど。少なくとも、衛生的に難のある場所で開封済みのケーキでしょう? まして、彼の顔を見ながらなんて食べられませんわ」


 つんと声色にトゲを加えて、アイリスは合歓の斜め向かいに腰かける。


「すごい嫌いようだ。いや逆かな? 少なくとも右近くんが煎れる紅茶は拒否していないのだし、食事をしている顔を見られたくないとか」

「どこからそんな発想が出てきましたの……」

「だって、生クリームって言うだろう」


 したり顔の合歓に、先の洗面所での会話を知らないアイリスは難しい顔をしている。


「気にしなくていいですよ。また合歓さんの屁理屈が始まっただけですから――お砂糖は?」

「自分で入れますからお気遣いなく。ありがとう、いただくわ」


 アイリスはティーカップを傾け、香りを楽しんでからそっと唇を付ける。


「住み込みといっても、たまには家に帰りたくなりませんの?」

「どうでしょう。記憶が戻りませんし、なんとも。長南さんに捜索願の情報を聞いてはいるんですが、今のところなしのつぶてです」


 右近には記憶がなかった。あるのは、今の自室のベッドで目を覚ましたところからだ。合歓の話では、アトリエの前で倒れていたところを拾ったらしい。
 以来、こうして天才画家・姫彼岸合歓のアシスタントとして住み込みの仕事をしている。

 不意に鳴ったタイマーの音で、右近は感傷に沈みかけていた意識を浮上させた。


「ふぅー、ヘッドスパ終了の時間だ」


 合歓がターバン状態のタオルを外し、ほどけた髪の毛を子犬のようにぶるぶると振った。右近はとっさにアイリスがティーカップを遠ざけたのに苦笑しながら、戸棚から櫛を取り出した。

 完全復活を果たした美しい金の髪は、するっと櫛を受け入れてくれる。
 くすぐったそうに目尻を下げながら、合歓が口を開いた。


「で、こんな朝早くから、何の用だい?」

「合歓さんが菜の花に苦戦している間に、とっくに十時を回ってますよ」

「おや失敬。で、何の用だい?」


 合歓が改めて訊ねると、アイリスは手鞄から一通の封筒を取り出し、テーブルに置いた。


「絵が売れましたわ」

「思いがけない春の便りがあったものだね。一体どの絵が売れたって言うんだ」

「『エリンギ』よ」


 告げられた題に、合歓は目を丸くした。『エリンギ』と名付けられた絵は、食物繊維豊富なキノコのことではない。エリンギの花言葉が宇宙であるということを知った合歓が、面白半分に宇宙をイメージして描いた――と思われる一作である。


「よりにもよって創作絵の方とは。奇特な人もいたものだね。ぜひ買い手に会ってみたい」

「無理ですわよ。勝手に顧客情報を明かせないもの」

「じゃあ、先方に確認してみてくれ」

「彼女から伏せてくれと言われていますのよ」


 言ってから、アイリスははっと自分の失言に口を噤んだ。


「女性ですか。もしかすると、合歓さんのような変人だったりして」

「いいや。純真無垢で、感受性豊かな少女かもしれない。ああでも資金力がないか……」


 右近たちがめいめいに囃し立てると、恐縮したアイリスの肩がおずおずと居住まいを直した。


「別に告げ口もしなければ、詮索もしないから安心してくれ。ケーキでも食べるかい?」

「そうですわね……何かで栓をしていた方がいいかも知れません」


 すっかり弱気な上目遣いに、右近は頷いて冷蔵庫から半月型のケーキを用意した。


「口を滑らせたついでに聞きますけれど。絵をもっと描く気はありませんの?」

「昨夜も描いたよ」

「そういう意味ではありませんわよ、もう!」


 アイリスは頬を膨らませた。どうやら調子は戻って来たらしい。右近は少し大きめに切った方の皿を、彼女の前に置いた。


「私の絵の描き方に愛情がないと言ったのは、君のところのボヘミアンじゃないか」


 合歓は真っ先にいちごを頬張ると、ケーキを切り崩しながら言った。


「ブライデン。彼には協会から厳重注意をしましたわ。それだけうちは、貴女を重く見ているの。考え直してくださらないかしら」

「やだ。別に私怨があるわけじゃないんだよ。ブユウデンは言うなれば、ムンクを『狂人』と批判した医学生たちと同じさ。著書で『筆に感情を載せれば駄作を生む』と述べながら、私の絵を『感情がないから無価値』と称したのは、まさに大衆の評価そのものじゃないか」


 合歓は立てた二本指をくいくいと曲げながら、へたくそな声真似をしてみせる。言葉を失っているアイリスをよそに、ケーキを一口、コーヒーを一口と舌鼓を打ってから、続けた。


「私のやっていることが、界隈で噂になっているのも知ってるよ。私が表舞台に絵を出した時の評価を当ててみせようか? 『遺顔絵師をしているからだ』だ。成功したか失敗したかで意味は真逆になるけれどね」

「感情は移ろうものよ。今日は批判しても、明日は好きになっているかもしれない。逆も然りですけれど、芸術とは――それを見る心とは、そういうものでしょう」

「その心とやらのせいで五十鈴蘭さんは亡くなったんだよ、アイリス」


 合歓の声のトーンが下がったことに、アイリスは睫毛を伏せた。静寂が支配した部屋の中でカップの熱が揺れ、表を走る車の音が遠くに聞こえる。


「意地悪を言ってしまったね、すまない。ともかく、私を誘う枠があるなら、ごまんといる画家志望の中から有望株を取り立ててあげてくれ」

「いいえ。彼らにも目を配りつつ、貴女も手に入れるつもりですわ」

「へえ、熱烈だ」

「こう見えて一途ですのよ、私」


 アイリスはケーキを中程から取り分けると、一口で頬張った。手のひらで口元を隠しながら丁寧に咀嚼して、何回かに別けて細い首に流す。


「そして、今まで惚れた相手を逃がしたことがありませんの」


 立ち上がったアイリスは、ご馳走様とまた来ますを告げてから、優麗な足取りで部屋を――


「そのケーキ、食べていいよ。喜べ、美女との間接キスだ」


 合歓の冷やかしに開きかけたドアを閉めて戻って来ると、顔を赤く染めて座り直し、フォークを取った。
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