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第二章 シオンの掛け違い

拒絶された供養

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 部屋の中は思っていたよりも綺麗だった。清掃業者が入った形跡があったが、家財一式は壁際に寄せられていただけで、まだ撤去まではされていなかった――かに見えた。

 右近がそこからローテーブルを持って来ようとしたとき、並んだ家具に積もった埃に、縄のような跡があるのを見つけてしまった。片付けのために寄せたのではなく、縄を張るための重りとして使われたのだ。つまり、捜査のための現状維持ということ。

 首を吊ること自体は、ドアノブとネクタイがあれば出来ると聞いたことがある。体を宙ぶらりんにしなくても、座っていたり、寝転がった体勢でも十分なのだそうだ。春に似合わずコンセント近くにあったヒーターは、腐敗を早めるためのものかと思うと、郡東風たちの死への固い意志を感じて背筋が震えた。

 英にお伺いを立てると、彼女はどこかに電話をかけて許可を取ってくれた。もう既に鉢植えが損壊しているしね、という苦笑に、正気に戻った郡東風の方がびくっと跳ねる。英も存外皮肉屋の気があるらしい。

 床の染みを隠すようにテーブルを置き、五人で囲むように座る。電気は既に止められているため、車から、夜間絵画用の小型投光器を降ろしてきている。
 上からライトで照らされたことでちょっとした取調室のようになった部屋の中、口火を切ったのは、郡東風だった。


「申し訳ありませんでした……つい、カッとなってしまって」


 彼がちらちらとこちらを見てくるので、右近は、自分はもう気にしていないと笑いかけてみた。しかし、彼のおっかなびっくりとした様子に変化はない。


「あたしも。他の警察の人とか、業者の人たちは、あたしたちが見えてなかったみたいで。触れなかったし、大丈夫かなと思ってほっといてました……」


 郡東風に続いて、白井も頭を下げる。
 それに、合歓は手のひらで顔を上げるよう促した。


「双方無事で済んだんだ、水に流そうじゃないか」

「ありがとう……姫彼岸ちゃんは変わらないね」

「茉莉花こそ。写真を見た時には誰か判らなかったけれど、喋ってみればそのままだ」


 合歓と白井はくすくすと笑い合った。学生時代にもそういう風に笑っていたのだろう。白井の明るい声色は、傍で聞いている右近の心にもすっと入り込んでくるような清々しさがある。


「ところで……姫彼岸ちゃんは、どうしてここに? 画家になるんだと思っていたけど、警察で働いているの?」


 それにしてはスーツを着ていないようだと、白井は合歓の服をまじまじと眺める。


「いいや、警察は英さんだけだよ。私は宣言通り、画家になったよ。『遺顔絵師』という生業に身をやつしている真っ只中さ」

「いがおえし……?」

「そ。遺影の似顔絵師と書いて、遺顔絵師。君たちの――正確には、郡東風くんの遺影を描きに来たんだよ」


 合歓がそう言うと、二人は気まずそうな顔をして俯いた。


「やっぱり、か」


 合歓は驚くでもなく、ふうと息をついて眉間を揉む。


「何か事情があるんだろうなとは思っていたよ。あの頃の郡東風くんは、羨ましいくらいに絵に熱中していたからね。茉莉花も、目標に向かって頑張る人が好みだと言っていたっけ。だから、二人が付き合っていたと聞いたときは納得したよ。そして同時に、理解できなかった」


 目頭が熱くなってしまうのを逃がすように、時折呼吸を挟みながら、ぽつりぽつりと言葉が重ねられる。


「ねえ、どうして。どうして死を選んでしまったんだい?」


 堪え切れず、感情が結露した雫が、つう、と頬を伝って落ちる。


「茉莉花、君は人気の嬢だったらしいじゃないか。すごいことだよ。郡東風君のペンネームも検索した。腕を上げたね。知ってるかい? 今じゃネットでは『【悲報】令和の天才・eastwind先生の訃報』って記事がいくつも出てるんだよ。愛されているじゃないか……愛されて、いたじゃないか……」


 机の上でぎゅっと握りしめた拳が滑り落ち、ふと、右近の太腿をノックした。そこで開いた手のひらが、何かを求めるように太腿の上を彷徨い撫でてくる。

 右近がそっと手を伸ばし、彼女の手の甲に重ねると、ぱっと翻った手のひらから強く、強く握りしめられた。


「合歓さん……」


 どう言葉をかけていいか分からず、右近はただ、両手で包み込むようにして冷たい指先を温め、慰めることしかできなかった。

 見知った人の――変わり者と有名なあの姫彼岸合歓が、人を指して友達だったとはにかむ程の友の死。それは、常に私情を挟まず、対象を弔うべきか否かは中立の立場を貫こうとする彼女でさえも揺るがせていた。


「愛されていなかったからだよ」

「えっ……?」


 右近は思わず聞き返した。絞り出したようなか細い声は、郡東風と白井どちらから発されたのか不意には聞き取れなかった。

 二人の間で視線を彷徨わせていると、郡東風が俯いていた顔を上げた。彼は悔しそうに歯噛みして、込み上げるものを堪えているようだ。


「刑事さん。ここでの話は、俺たちの親にも伝わるんですか」


 それに英は一瞬、面食らったような顔をしたが、すぐに意図を掴むと、目を細くして笑った。


「安心して。話さないわ。幽霊に会って聞いた話は、正式な調書として認められないから、記録として残ることもないわ」

「本当ですか」

「ええ。霊能者が捜査に協力する、なんて話があるでしょう。あれも手掛かりを見つけてはじめて、拾得物として参考にできるの。動機を詰めたりはできないのよ」


 二人は同じように、肩の力を抜いた。ようやく緊張が解れてきたのか、郡東風は「足を崩してください」と思い出したように気遣ってくれた。


「実は、この家は、五回目の引っ越し先なんです」

「五回って……高校卒業してからってことかい?」


 驚いて前のめりになった合歓に、郡東風と白井は小刻みに頷いた。合歓は今年で二十一になる。つまり、高校を卒業してから二年とそこらだ。


「葛飾北斎並みのペースじゃないか。平時なら、絵師としてあやかったのかと茶化せもするけれど。そうじゃないんだね」

「ああ。俺たちの親が元凶なんだ」

「俺たちのって……えっ、両方なんですか?」


 右近が訊ねると、白井が俯き加減に肯定を示した。


「俺たちは、心の底から愛し合っていました。職業柄、収入が不安定になるから、はじめは俺は及び腰で……でも、茉莉花はそんな俺を支えてくれた」

「大好きなんで。収入が不安定ってくらいで切るようなら、そもそも好きになってないし。まあ、子供は……もう少し頑張ってからだね、って話はしてましたけど」


 白井が恋する乙女の顔で、照れたように舌を出した。子供についての言及に、気まずそうに謝る郡東風の肩を、何で謝るのと小突いている。どちらが上というわけではなく、じゃれるように身を寄せ合う仲睦まじさがあった。


「おーい、いちゃつくのは二人きりになってからにしてくれるかーい」


 合歓の冷やかしに、二人ははっと体を離して居住まいを正した。


「ごめん。それで、ええと……どこから話そうか。俺たちが勘当されていることは?」

「知ってるよ。ただ、理由まではよくわかっていないけれど。イラストレーターの仕事を、親に反対されたとか?」

「ああ。茉莉花の親にね。向こうは俺の仕事を嫌ってた。俺の両親は、働きに出るためにギャルになった茉莉花を嫌ってた。何も悪いことをしていないのに、疎まれて、厭われて……両家への挨拶はぶち壊しだった」

「だから、駆け落ちをしたのね」


 英が優しい声色で言う。白井はそれに、鼻を啜る。
 一方の郡東風は、感情を握りつぶすように、拳を作っていた。


「最悪なのは、あいつら、美味い汁だけは啜ろうとしていたことなんです。本当は、俺の稼ぎだけでもしばらくは食いつないでいけたんですが……それをどこで聞きつけたのか、有名になったのなら稼ぎを家に入れろ、親戚の子供にあげるから絵を描け、って」

「ああ、そのパターンか。彼らは絵を描くことを魔法か何かだと思っているからね。自分たちはぼけーっと通勤しているだけで月給が貰えてしまうから、勝ち取らないと生きていけないこっちの事情は、根本から理解できないんだ」

「俺のことだけならまだ良かったよ。……けれど今度は、向こうの親が、茉莉花の稼ぎを狙って押し掛けてくるようになったんです」


 郡東風は思い返したのか、げんなりと肩を落とした。その力なく垂らした手を、白井は寄り添うように握って支える。


「あたしの職場にも連絡してきて、そのせいでクビになりました。トラブルを抱えた人間を置くリスクを負えない業界ですから。それにヨウちゃんも、あいつらがいきなり突撃してくるせいで集中がブレてしまって……仕事に支障が出るようになって」

「ごめん。未熟な自分が情けないよ」

「ううん、ヨウちゃんが謝ることないって」

「そうだよ。私も絵描きとして、精神状態の良し悪しがもたらす影響はよく解かる。芸術分野だけじゃないさ、スポーツ選手だって、試合の前には気持ちを高めていくだろう?」


 白井と合歓に慰められ、郡東風は声を震わせて「ありがとう」と言った。はじめて、彼の目に浮かんだ涙だった。


「それから俺たちは、逃げ回るように引っ越しをしました。けれど、ああいうのってどこから漏れるんでしょうね。ひと月も経つと嗅ぎ付けて来るんです。金寄越せ、金寄越せって。関西の方まで行ったこともあるんですが、ダメで。結局仕事の便利を取って、戻ってきました」

「SNSなんかも、ヨウちゃんの仕事の情報しか載せてないのにね。あたしも、勤め先のサイトに写真を載せないようにしてもらってたのに……」


 白井が下唇を噛む。郡東風は「勘当したくせに」と吐き捨てるように目を伏せた。


「長南さん。情報って、どうして洩れるんですか」


 右近も気になって訊ねると、英は難しい顔をした。


「ううん……何とも言えないわね。知人がたまたま町で見かけて、という流れで知られることもあるし。親だと言えば口を滑らせる業者もいるわ。探偵が優秀だったのかしら」

「そう、ですか……」


 その答えは、同時に右近の気持ちを沈めるものでもあった。郡東風たちの場合は、どう足掻いても発見されるというのに。自分の情報に関しては耳に入らない。

 善かれ悪しかれ、親に注目されていなければならないのだろうか。こちらから探偵を雇うにも標となる情報がないから、向こうのアクションを待たなければならないのが歯がゆい。


「そんなわけで、俺たちは手切れ金を用意したんです」


 郡東風は神妙な顔で、はっきりと言った。


「あいつらの望み通り、金はくれてやる。けれど、俺たちの邪魔だけは許さない。どうせ葬儀だって、近所の目があるからでしょう。祖母ちゃんの葬儀の時も、金のことばかりぶつぶつ言ってましたから」


 咄嗟に言葉を返せず、押し黙ったこちらに肯定を悟った郡東風は、鼻を鳴らした。


「遺影のことも、ごめんね。姫彼岸ちゃんに絵を描いてもらうのは嬉しいけれど、あたしたちは成仏なんてしたくないの。このまま、ヨウちゃんと一緒に。永遠に一緒にいたいんだよ」

「俺からも頼む。どうか、今回の君の仕事は、白紙に戻して欲しい」


 二人はテーブルから下がり、畳に頭を擦りつけるくらいに頭を下げた。

 右近と英も固唾を飲んで返答を待つ中、合歓は目を閉じ、一休さんのように髪を指でくるくると回しながら唸っている。

 部屋の中にたっぷりと沈黙が満たされた頃、合歓は刮目し、告げた。


「いいや、絵は描こう。君たちのせっかくの門出なんだから」
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