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第三章 死人にクチナシ

テセウスの船

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「テセウスの船……?」

 冬の放課後、この辺りでは珍しい雪が降ったことを受けて、僕たちは外に繰り出した。
 雪化粧をした並木道は、ひんやりと引き締まった美しさがあった。川を挟んだ向こう側の木々たちには一足先にイルミネーションが施されていて、雪に透過してぼやけるカラフルなオーブたちが夢の世界を彩っている。

「船があったとするだろう。その部品を修理して、新しいものとと入れ替えていくんだ。すべての部品が入れ替わったそれは、果たして同じ船と言えるだろうか……という、思考実験さ」

 鼻先までをマフラーで隠した合歓は、隙間からふがふがと白い息を漏らす。筆を握る方の手には手袋をつけておらず、少しかじかんでいる。だから僕も、手袋をしないで隣にいた。

「うーん……名義がそうだとかってのは無粋だよね。乗っている人たちが、自分たちが乗っているのはこの船だ! って、胸を張っているなら、そうなんじゃないかな」
「船そのものではなく、人の想いにフォーカスを当てたか、面白いね」

 マフラーの隙間からでも頬がにやっと持ち上がったのが判って、僕は身構えた。彼女がこういう、悪戯っ子のような顔をするときは、決まって手を焼かされるからだ。
 けれど、別に嫌ではなかった。まるで、私の見ている景色はここだよと、教えてくれているようだったから。キャンバス越しだけでは計り知れない、姫彼岸合歓という女の子の今を構成する要素に触れるのは、いつだってワクワクした。

「それが船ではなく、人だったら?」
「……フランケンシュタイン?」

 思わず僕が呟くと、合歓は体を仰け反らせて、手を叩いて笑った。

「そんなに笑うことないじゃないか」
「やーごめん、君があまりにも可愛い答えを出すものだから、つい」

 全く悪びれた様子のない口ぶりでひとしきり笑うと、彼女はすっと柔らかな目になって、キャンバスに向き直った。

「まあつまり、そういうことなんだよ」
「ごめん、まったくわからない」
「だから、フランケンシュタインになってしまうのさ」

 そこで僕は、そういえばこの話は、どうして合歓が創作絵を描きたがらないのかという僕の質問から端を発していることを思い出した。
 この場に、彼女を馬鹿にする人はいない。今となっては画家・姫彼岸合歓の名前を知る人も多い。それほどの評価を得ているのなら、もう描いてみても大丈夫なんじゃないかって。

「たとえばさ。君が、私とベッドでいちゃこらする妄想をしたとしよう」
「あのねえ……」

 僕は頭を抱えた。彼女はいわゆるデリカシーのない発言をしばしばする。
 ただ不思議と、そこにセクハラめいたスケベな視線は伴っていない。彼女にとって、それは当然のことだからだ。好きな人との未来を想像するのは普通のこと。好き合った者が体を重ねるのは普通のこと。だからさも当然のように、臆面なく話題に上げる。
 ただ、僕は知っていた。こうした話をした後、彼女は決まって口数が少なくなる。以前、それを体調不良だと勘違いした僕が引き返して追いかけたとき、別れた曲がり角の向こうで、どこか南国の鳥みたいな奇声を上げて悶える姿を目撃したこともあった。

「いやさ、真剣によ。まだ私と右近くんは、互いの裸も見たことがないだろう?」
「ああうん、そだねー。……もういいや。それで?」
「その時に君の妄想の中で一糸纏わぬ私の体は、誰のものになるんだろうね、って」
「あー……」

 ようやく合歓の言いたいことを理解して、僕は空を仰いだ。

「それは別の部品を持ってきただけで、合歓の裸じゃあないのか」
「や、やめろ! 私の裸って言うな、生々しい!」
「君が先に言ったんでしょうが」

 途端に照れて逃げ出そうとするのを獲っ捕まえて、マフラー越しにほっぺたをむにむにとしばき倒す。きゃーっと悲鳴を上げて、合歓はじたばたと手足をばたつかせた。
 改めてつまんだ彼女の肌は柔らかくて、指先が包まれるようで。不意に、これも妄想の材料となるのだろうかと邪なことを考えてしまった僕は、慌てて指を離した。

「でもさ、期待もあるんじゃないかな」
「期待? おっぱいが大きいといいなーって?」
「すぐにそういうこと言うー。そうじゃなくて。もしもこの人が笑ったらこうなんじゃないかとか、家でだらけるときはこんなだったりしてとか、そういうの」
「だとしても、やっぱり本人のそれじゃないと思うんだよ」

 一区切りがついたのか、合歓は筆を止めて伸びをした。

「私はやっぱり、実際に君が笑ったところが見たいし、君がだらけているなら、その隣で一緒にぐでーっとしたい。夢見がちな空想じゃない、ちゃんとした君の温もりを知りたいんだよ」
 合歓はマフラーの中にすっぱりと首をすぼめて、上目がちに言った。
 彼女のこんな目を見るのは初めてで、ああなるほど、たしかに直に見ないとこの愛おしさは再現ができないなと思った。

「じゃあ、もっと一緒にいよう。お互いの姿を目に焼き付けて、いつでも思い返せるように」

 囁くように言って、僕は合歓のマフラーに指をかける。

「だから、合歓の顔もよく見せて?」

 彼女は無言で頷いて、首を伸ばした。ひょっこり飛び出した、桃のように赤らむほっぺたを、温めるように人肌で包む。

 僕と合歓が、初めてキスを交わした日だった。










 気合を入れてからの合歓は、ひたすらに絵に向かっていた。
 アトリエに戻る暇さえ惜しみ、家にあった束ねた古新聞の中から裏の白いチラシを引っ張ってきて、それを練習台に、何枚も、何枚も、書いては髪を掻きむしって放り投げる。
 右近たちが雑魚寝をする布団は居間に敷いた。あのクソ野郎の唾が吐いた場所だけはどうにも嫌だったから、いっそカーペットを引っぺがしてから布団を並べた。

「……何やってるのよあなたたちは」

 襖の隙間からこっそり合歓の背中を覗き見していると、一服をして戻って来た英が、呆れた表情で半開きの隙間から見下ろしてきた。

「眠れなくって」

 右近は苦笑し、彼女を迎え入れる。
 合歓からは寝ていていいとは言われたが、できるはずもなかった。かといって隣にいても邪魔なだけだろうと思い、廊下を挟んだ居間から様子を窺っていたのだ。

「兎耳さんまで一緒になってるのは、ちょっと意外ね」
「作品を見る機会は多いですけれど、その制作現場を見られるのは貴重ですもの」

 アイリスは食い入るように見ていた。
 ちゃっかり自分も混ざりながら、英は感心したように言った。

「こういうのって、作品だけが評価されるものだと思っていたわ。頑張ったとかは関係なくて、出来上がりの良し悪ししか求めない、みたいな」
「もちろん、エージェントとして論じる場合はそうですわ。けれど、私だって彼女のファンの一人なんですのよ」

 そわそわと頬を緩めている横顔だった。
 右近は嬉しくなって、目を細くする。

「愛されていますね、合歓は」

 そう呟くと、アイリスは「貴方こそ」と眉を上げた。

「私が貴方を避けていたのは、首のことだけでなく、嫉妬の気持ちもあったからです。合歓を表舞台から攫い、遺顔絵師にしてしまった人なのですから」
「えっ……合歓が遺顔絵師をしているのは、僕が理由だったんですか?」
「ええ。貴方たち姉弟の遺顔絵を描いてからというもの、あの子は既に決まっていた個展さえ蹴って、遺顔絵の依頼ばかり受けるようになりましたの。それでもなんとか騙し騙し誘導しましたが……貴方がアトリエに現れてからは、もう囚われたように」

 これが嫉妬せずにいられましょうかと、アイリスは諸手を挙げた。

「ご存知です? あの子が街を歩く時、私服があんなひどいことになっているのは、貴方のためなんですのよ」

 アイリスから告げられた事実に、右近は目を丸くした。英は何かに得心がいったようで、ああと唸るように頷いている。
 右近はどういうことかと、視線で訪ねた。

「向こうから歩いてきた人が、とんでもない恰好をしていたら、木蔦くんはどうする?」
「関わり合いにならないようにするんじゃないでしょうか。『しっ、見ちゃいけません!』みたいな」
「そう。そうやって、人は目を背けるの。逆に注目してくる人でも、その視線は姫彼岸さんに向く。そんな風に、万が一にも『視えてしまう』のを防いでいたわけね」

 右近は面食らった。そうまでして自分と出掛けることを第一に考えてくれたのかと思うと、面映ゆかった。

「それにしたってダサすぎますよ、アレは」

 苦笑する。別に仕事をするときの服装でも、注目は彼女に集まるのだから、いいだろうに。

「聞こえてるぞー。アイリスも余計なことを吹きこむんじゃないよ、まったく」

 いつの間にこちらへやってきていた合歓が、襖の前で仁王立ちをしていた。この状況で「バレちゃった」とお茶目に笑って見せる英は、やはり剛毅だった。
 合歓は嘆息をすると、言った。

「私が遺顔絵師をしているのは、弔いたいからだよ。右近くんだけじゃあない。他にも取り残されてしまった、浮かばれない魂たちを、還るべきところに送り届けたいからさ」
「それによって、周囲から気味悪がられることになっても……ですの?」

 アイリスの心配げな視線に、合歓は「愚問だね」と肩を竦める。

「生業とはそういうものだろう。そもそも絵描きだって、生きる為にする仕事じゃあない。安定した収入が欲しいのなら、民間企業に勤めればいいんだ。それでも私たちは、この棘の道を歩むことを決めた。そうじゃないと生きられないんだよ」

 そう言って欠伸をひとつして、合歓は飲み物を求めた。
 右近は彼女を部屋に招き入れ、部屋の隅にあったポットから急須にお茶を淹れ、それを彼女に渡した。
 合歓は布団の上にすとんと腰を下ろし、湯飲みに息を吹きかけて冷ます。そして不意に手を止め、視線を上げた。

「ここに飾ってくれていたんだね」

 居間の梁には、額縁に入れた合歓の絵が何枚も飾られていた。つい先日売買が決まったばかりの『エリンギ』も、その端っこに列を成している。
 右近も、これに気付いたのはついさっきだった。潜在意識がそうさせたか、無意識のうちに居間を避けていたからだ。
 けれど、母にとっては日常的に過ごす空間。我が家への来客はそう多くなかったと記憶をしているが、そんな数少ない人たちにとってよく見えるような角度で飾られている。

「創作絵のほとんどがここにあるじゃないか。――あ、『虹』まである」

 合歓が指をさし、くすぐったそうに笑う。

 いつかの雨上がり、空にかかった虹を見て、合歓が描いたものだった。しかし『エリンギ』同様、題に反して美しさはまるでない。虹が何故虫偏なのかという疑問を契機に、『虫偏は蛇、すなわち龍を表したもの』『つくりの「工」は天と地を繋ぐという意味』ということから拡げた、昆虫のような生物と人工物とが奇怪にかけ合わせられたキメラの絵である。
 古代中国では、流星が墜ちることで死期を悟っていたように、虹もまた不吉の象徴とされていたという。もしかすると古代の彼らも、虹にあのような怪物を見ていたのかもしれない。

 合歓が創作絵を描くとき、象徴主義めいた筆に切り替わる。実在の何かや誰かをモチーフにできないのなら、完全なる空想世界の異物(イメージ)を写実的に切り取るしかないという、彼女なりに出した結論だった。もっともブライデンのような幻想的に構成されたそれとは違う、混沌そのものだったから、アイリスに請われても彼女は表に出したがらなかった。

「央子さんは、あなたの創作絵のよく見ていらっしゃったわ。その『虹』をご覧になったときは、確か……楽しそうとか、良い出会いがあったのね、と仰っていたかしら」
「おお、正解だよ。その日は、水溜まりで飛び跳ねても右近くんが濡れないのが面白くてね。良い出会いがあったってのも、ドンピシャリだ」

 合歓が仏間に向かって拍手をしながら、嬉しそうに表情を綻ばせた。
 一方、右近は驚きを隠せないでいた。

「えっ、出会いなんてあったの?」

 気もそぞろになりながら、あの日誰かと会っただろうかと記憶を掘り返す。たしかに記憶のない死者としては資格もないだろうし、彼女の今後の未来の重荷となるのは本意ではない。けれど、仮にも生前の彼氏だった自分が傍にいる状況で、良い出会いだなんて。
 そんな心中を知ってか知らずか、合歓はあっけらかんとした言った。

「おや、気付いていないかい? あの日は、君とはじめて虹を見た日なんだよ?」
「えっ……?」
「私は普段、キャンバスを小脇に抱えて動いているだろう? 雨や雪の中出歩くのは基本的にご法度だ。だから、雨上がりの街を君と歩くという出会いは、あの日が初めてだったんだよ」

 笑いを堪えている合歓に、右近はあっと間抜けな声を出した。
 それをわざと真似するように彼女も「あ」というと、途端に悪い顔で口角を吊り上げる。

「さては、嫉妬したなあ?」
「しっ、してないよ!」

 右近は体を離して逃げたが、合歓の肘が冷やかしてくるのからは逃げられなかった。途中からアイリスと英に背後を固められ、合歓にされたい放題になってくすぐられる羽目になった。
 それはまるで、生前の我が家と同じ――あるいは、もっと賑やかな時間だった。
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