婚約破棄された伯爵令嬢ですが、辺境で有能すぎて若き領主に求婚されました

おりあ

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 昼下がりの王都は、秋風に色づく木々の葉が舞い落ちる中、静かなざわめきを帯びていた。社交界の噂は、まるで風に乗って人々の耳に届くかのように世間を駆け巡っている。セリナ・リーヴェルは書庫で資料を整理しながらも、無意識に鳥瞰図に目を走らせ、心の中で思いを巡らせていた。

「王太子の婚約者にふさわしくない」
「冷たい令嬢は、そろそろ退場か」
「リーナなら、もっと華やかにこの役割を果たせる」

 これらの言葉はすべて、誰かのささやきとして伝わったものだ。ある者は廊下ですれ違いざまに耳元で囁き、ある者は密かな手紙に認めた。いずれも匿名で、確かな証拠はないが、その影響力は絶大だった。

「セリナ様、ご無事ですか?」

 背後からかすかにかかった声に、セリナはハッとして手元の地図を伏せた。声の主は侍女のエステル。焦燥と哀れみの入り交じった瞳が、床に落ちた書類を追っている。

「ええ、大丈夫です」

 セリナは柔らかく微笑んで答えた。だが、心の奥底は荒波のように揺れていた。
 書庫の窓辺には、銀灰色の雲の切れ間からわずかな光が差し込み、古びた書架や資料箱に斑模様を映し出している。セリナは深呼吸し、改めて目の前の書類の山に向き直った。だが、心ここにあらずのままでは、文字すら読めない。

(どうして、私だけが……)

 胸の奥で呟きが渦を巻く。言葉にしないまま、視線は自動的に次の資料を探していた。書架の隙間から取り出した巻物。それはこの王都の古記録をまとめたものであり、領地経営の参考になるはずだった。

 「セリナ様、お呼びです」

 再びエステルの声が響き、セリナははっと顔を上げた。書庫の扉の向こうには、王宮の侍従長であるヴァレンティン卿が控えている。

「レオニス殿下から、お時間を賜りたいと。すぐにお入りください」

 仰々しい知らせに、セリナの心拍が一瞬だけ早まった。できれば、今は一人にしてほしかった。だが、婚約者としての務めを放棄するわけにはいかない。

「承知しました」

 セリナは一礼し、そっと巻物を元に戻した。エステルはそっと側に寄り、静かに囁く。

「心配ですけれど……殿下とお話しして、少しでも誤解を解けるといいですね」

 セリナは微笑みを返し、言葉を選んだ。

「ええ、そう願っています」

 二人は書架の間をすり抜け、書庫の外へと足を踏み出した。冷たい石畳の廊下を進むと、やがて広間の扉が見えてくる。扉の前に立つヴァレンティン卿の表情はいつになく硬く、その横顔には緊張が刻まれていた。

「失礼いたします」

 セリナは小さく息を整え、扉を押し開けた。
 広間の中では、レオニス王太子が一人、書見台の前に立っていた。背後の壁には王家の紋章が灯のように浮かび、殿下の姿を荘厳に彩っている。だが、その表情には戸惑いと苦悩が交錯し、いつもの自信に満ちた笑みは影を潜めていた。

「セリナ。……話したいことがある」

 レオニスの声は静かだが、震えが混じっている。セリナは足を進め、ひとり深く礼をした。

「レオニス殿下、ご用件をお伺いいたします」

 レオニスは視線を泳がせ、しばらく沈黙してから口を開いた。

「近頃、君に対する噂が絶えない。君が冷たい、婚約者としての務めを果たしていない、そんな声が宮廷中に広がっているようだ」

 セリナの胸に鋭い痛みが走った。確かに、彼女自身も噂の存在を知っていた。しかし、これほどまでに王太子の耳にも届いているとは思わなかった。

「お耳に留めさせてしまい、申し訳ございません」

 セリナの声は低く震え、瞳にわずかな涙が宿った。

「君の行いを私は知っている。君がどれほど私のためを思い、静かに見守り、支えてくれているか……だが、周囲の声はそれを顧みない。君自身はどう感じている?」

 レオニスの問いかけは、優しくも厳しかった。セリナは深く息を吸い、勇気を振り絞って答えた。

「私は、殿下を支えたくて、ただ一生懸命に務めを果たしておりました。言葉に尽くせず、笑顔を上手く見せられないだけで、心の中ではいつも殿下の幸福を願っております」

 その言葉は震えながらも、真実そのものだった。王太子は少し顎を引き、うつむきかけた瞳に熱いものを宿した。

「私も……君の気持ちを知らずにいた。リーナの明るさに心を奪われ、君の静かな誠実さに目を向けられなかった」

 言葉は途切れがちに紡がれ、セリナの心にその重みを伝えた。彼女は驚きと喜びが混ざる複雑な感情を抑え、静かに頷いた。

「殿下……」

 しかし、そのとき、広間の扉が開き、リーナ・エヴェレットが颯爽と入ってきた。赤いドレスが闇に咲く花のように映え、リーナはにこやかに二人を見渡す。

「お呼びですか、レオニス殿下?」

 リーナの声は明るく、周囲の空気を一瞬で華やかにする。王太子は一瞬だけ戸惑い、セリナと目が合った。そこには、何か決意めいた光が宿っていた。
 リーナは王太子に向き直り、手を差し出す。

「今夜は一緒に舞踏の稽古をいたしましょう。これも宮廷での大事な務めですし、ふたりで華やかに見せつけてはいかがかしら?」

 噂に追いつめられ、追い立てられるようにしてここへ来たはずなのに。リーナの甘い提案は、聞くだけで周囲を魅了し、自分がまた影へと追いやられる感覚を呼び起こす。
 セリナは沈黙のまま、じっとリーナを見つめ返した。王太子の表情には、再び迷いが浮かんでいる。
 広間の灯がゆらりと揺れる中、三人の間に張り詰めた空気だけが、真実を静かに映し出していた。
 このままでは、私は消えてしまう。しかし、屈してなるものか。
 セリナの胸に澄んだ決意が芽生える。やがて彼女は、深呼吸して口を開いた。

「リーナ様、ご提案は光栄です。しかし、今は急を要する書状の作成に集中したく存じます」

 その言葉は冷たく聞こえただろうか。だが、セリナの瞳は真実を宿していた。リーナは微かに眉を寄せ、王太子へと視線を戻す。

「では、また後でお声がけくださいませ、セリナ様」

 リーナは静かに一礼し、足早に広間を後にした。王太子は深く息を吐き、セリナに向き直った。

「すまない、セリナ。君の気持ちを尊重したいのに、つい周囲の声に流されてしまう」

 セリナは微笑んで首を振る。

「殿下のお心が私に届けば、それで十分でございます。私は、私のやり方で殿下を支え続けます」

 その言葉に、レオニスはゆっくりと頷いた。広間の扉の向こうには、再び冷たい噂の風が吹きすさんでいるかもしれない。しかし、この瞬間だけは、二人の間にだけ柔らかな光が差し込んでいた。
 古びた書見台の上に並ぶ書類の上で、小さな影が揺れている。セリナ・リーヴェルは静かに微笑み、再び筆を取り、王太子との未来を描くために書簡を綴り始めた。
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