34 / 40
34
しおりを挟む
辺境リーヴェル領の小さな村では、一年に一度の収穫祭の準備が最高潮を迎えていた。石畳の広場には木造の屋台が軒を連ね、軒先には手織りの布が風にたなびいている。大鍋ではスープがゆったりと煮え、串焼きの匂いが立ち込め、子供たちは笑い声をあげながら色とりどりの提灯を手に走り回っていた。老人たちは舞台の陰で昔話に花を咲かせ、若者たちは太鼓や笛の音合わせに余念がない。
その華やかな賑わいの裏側で、誰にも知られることなく進む 静かな奔走”があった。
村長スルトは濃紺のローブの袖をたくし上げ、ひとり井戸小屋の前に立っていた。長年、村の命運を支えてきた「命の井戸」は、ここ数週間、水位が次第に下がり、壁や床に小さなひびが散見されるようになっていた。
村人たちは「今日は水が少し冷たい」や「早く雨季が来るといいね」と他愛ない話をしていたが、当のスルトだけは「あのひび割れは放置できぬ」と胸を痛めていた。
夜の帳が下りると、祭りの主催役を務めるセリナ・リーヴェルが深緑のマントをはおり、雪明かりを頼りに井戸小屋へと忍び足で近づいた。きらめく提灯の灯りが遠くに揺れ、子供たちの歓声が遠ざかっていく。
「村長、今夜で手当をしなければ、明日の朝には水がほとんど出なくなるでしょう」
村長は重々しくうなずき、声をひそめて答えた。
「何としても、この村の祝宴を台無しにはしたくない。だが、誰にも言えぬままだった。セリナ殿、あなたに託そう」
セリナは無言で手袋をはめ、井戸の縁にしゃがみ込んだ。ひび割れは思ったよりも深く、古い石材が乾いて縮み、わずかなすき間が広がっている。夜風に吹かれながらも、彼女の目には一切の迷いがなく、井戸の修復を試みた。
その一方、リーナは祭りの中心、広場の入り口近くで華やかな提灯の飾り付けを仕切っていた。王都から運んだ銀箔の提灯がずらりと並ぶ中、彼女はあえて村長のもとへ歩み寄り、にこやかに声をかける。
「村長さま、提灯の色合いはいかがですか?今年は王都でも評判の職人に依頼しましたの」
リーナの言葉に村長は礼をしながらも、視線を井戸小屋の方向へそっと逸らした。
その様子を見逃さなかったリーナは、ほのかな微笑みを浮かべながらもさらに小声で続けた。
「もしお困りごとがあれば、遠慮なくお申し付けください。祭りの準備は夜が明けるまで続きますから、ご相談の時間は取れますわ」
村長は一瞬だけ目を伏せたが、やがてそっと笑い、リーナに頭を下げた。
「ありがとう、侯爵令嬢。では後ほど、またお声かけさせてもらうよ」
リーナは軽く頷き、再び装飾の指示へと戻っていった。その足取りは優雅ながらも、確かな安心感を村長に与えていた。
夜が更けた。祭り前夜の静寂の中、セリナは最後のチェックを終える。
「これで大丈夫ね」
リーナが小声で呼びかける。セリナは微笑み、満天の星空を仰いだ。
「ありがとう、リーナさん。明日はきっと心から祭りを楽しめるわ」
二人は互いに軽く会釈すると、再び賑わいの続く広場へと戻った。提灯の揺れる炎が二人の影を引き延ばし、静かな連帯感を刻んでいる。
そして迎えた翌朝。
朝日を浴びた村は、昨夜の静寂が嘘のように華やかな彩りに満ちていた。提灯は風にきらめき、屋台には長い行列ができ、子供たちは笑いながら舞台で踊っている。老若男女が五穀豊穣を祝うその光景は、まさに収穫祭の最高潮だった。
村人たちは水を汲むたびに、いつもより冷たく、しかし勢いよく湧き出す井戸の心地よさに気づくこともなく、ただ日常の延長として手を伸ばしている。
村長スルトは祭壇のすぐそばで焼きとうもろこしをほおばり、目の端で子供たちの無邪気な笑顔を見つめてほっと息をついた。
「……これでよかった」
彼は小声で呟き、誰にも気づかれぬまま再び祭りの群衆へと歩みを進めた。
夜更け、小さな村は穏やかな眠りへと包まれていく。
祭りの余韻だけが、村人たちの心に優しく残っていた。辺境リーヴェル領の夜空には、遠くの山々にかすかな雪明かりが浮かび、明日への希望を静かに照らし出している。
その華やかな賑わいの裏側で、誰にも知られることなく進む 静かな奔走”があった。
村長スルトは濃紺のローブの袖をたくし上げ、ひとり井戸小屋の前に立っていた。長年、村の命運を支えてきた「命の井戸」は、ここ数週間、水位が次第に下がり、壁や床に小さなひびが散見されるようになっていた。
村人たちは「今日は水が少し冷たい」や「早く雨季が来るといいね」と他愛ない話をしていたが、当のスルトだけは「あのひび割れは放置できぬ」と胸を痛めていた。
夜の帳が下りると、祭りの主催役を務めるセリナ・リーヴェルが深緑のマントをはおり、雪明かりを頼りに井戸小屋へと忍び足で近づいた。きらめく提灯の灯りが遠くに揺れ、子供たちの歓声が遠ざかっていく。
「村長、今夜で手当をしなければ、明日の朝には水がほとんど出なくなるでしょう」
村長は重々しくうなずき、声をひそめて答えた。
「何としても、この村の祝宴を台無しにはしたくない。だが、誰にも言えぬままだった。セリナ殿、あなたに託そう」
セリナは無言で手袋をはめ、井戸の縁にしゃがみ込んだ。ひび割れは思ったよりも深く、古い石材が乾いて縮み、わずかなすき間が広がっている。夜風に吹かれながらも、彼女の目には一切の迷いがなく、井戸の修復を試みた。
その一方、リーナは祭りの中心、広場の入り口近くで華やかな提灯の飾り付けを仕切っていた。王都から運んだ銀箔の提灯がずらりと並ぶ中、彼女はあえて村長のもとへ歩み寄り、にこやかに声をかける。
「村長さま、提灯の色合いはいかがですか?今年は王都でも評判の職人に依頼しましたの」
リーナの言葉に村長は礼をしながらも、視線を井戸小屋の方向へそっと逸らした。
その様子を見逃さなかったリーナは、ほのかな微笑みを浮かべながらもさらに小声で続けた。
「もしお困りごとがあれば、遠慮なくお申し付けください。祭りの準備は夜が明けるまで続きますから、ご相談の時間は取れますわ」
村長は一瞬だけ目を伏せたが、やがてそっと笑い、リーナに頭を下げた。
「ありがとう、侯爵令嬢。では後ほど、またお声かけさせてもらうよ」
リーナは軽く頷き、再び装飾の指示へと戻っていった。その足取りは優雅ながらも、確かな安心感を村長に与えていた。
夜が更けた。祭り前夜の静寂の中、セリナは最後のチェックを終える。
「これで大丈夫ね」
リーナが小声で呼びかける。セリナは微笑み、満天の星空を仰いだ。
「ありがとう、リーナさん。明日はきっと心から祭りを楽しめるわ」
二人は互いに軽く会釈すると、再び賑わいの続く広場へと戻った。提灯の揺れる炎が二人の影を引き延ばし、静かな連帯感を刻んでいる。
そして迎えた翌朝。
朝日を浴びた村は、昨夜の静寂が嘘のように華やかな彩りに満ちていた。提灯は風にきらめき、屋台には長い行列ができ、子供たちは笑いながら舞台で踊っている。老若男女が五穀豊穣を祝うその光景は、まさに収穫祭の最高潮だった。
村人たちは水を汲むたびに、いつもより冷たく、しかし勢いよく湧き出す井戸の心地よさに気づくこともなく、ただ日常の延長として手を伸ばしている。
村長スルトは祭壇のすぐそばで焼きとうもろこしをほおばり、目の端で子供たちの無邪気な笑顔を見つめてほっと息をついた。
「……これでよかった」
彼は小声で呟き、誰にも気づかれぬまま再び祭りの群衆へと歩みを進めた。
夜更け、小さな村は穏やかな眠りへと包まれていく。
祭りの余韻だけが、村人たちの心に優しく残っていた。辺境リーヴェル領の夜空には、遠くの山々にかすかな雪明かりが浮かび、明日への希望を静かに照らし出している。
70
あなたにおすすめの小説
愛のない結婚をした継母に転生したようなので、天使のような息子を溺愛します
美杉日和。(旧美杉。)
恋愛
目が覚めると私は昔読んでいた本の中の登場人物、公爵家の後妻となった元王女ビオラに転生していた。
人嫌いの公爵は、王家によって組まれた前妻もビオラのことも毛嫌いしており、何をするのも全て別。二人の結婚には愛情の欠片もなく、ビオラは使用人たちにすら相手にされぬ生活を送っていた。
それでもめげずにこの家にしがみついていたのは、ビオラが公爵のことが本当に好きだったから。しかしその想いは報われることなどなく彼女は消え、私がこの体に入ってしまったらしい。
嫌われ者のビオラに転生し、この先どうしようかと考えあぐねていると、この物語の主人公であるルカが声をかけてきた。物語の中で悲惨な幼少期を過ごし、闇落ち予定のルカは純粋なまなざしで自分を見ている。天使のような可愛らしさと優しさに、気づけば彼を救って本物の家族になりたいと考える様に。
二人一緒ならばもう孤独ではないと、私はルカとの絆を深めていく。
するといつしか私を取り巻く周りの人々の目も、変わり始めるのだったーー
婚約破棄された人たらし悪役令嬢ですが、 最強で過保護な兄たちと義姉に溺愛されています
由香
ファンタジー
婚約破棄のその日、
悪役令嬢リリアーナは――弁明すら、しなかった。
王太子と“聖女”に断罪され、すべてを失った彼女。
だがその裏で、王国最強と名高い三人の兄と、
冷静沈着な義姉が、静かに動き始めていた。
再検証によって暴かれる“聖女の嘘”。
広場で語られる真実。
そして、無自覚に人を惹きつけてしまう
リリアーナの優しさが、次々と味方を増やしていく――。
これは、
悪役令嬢として断罪された少女が、
「誰かの物語の脇役」ではなく、
自分自身の人生を取り戻す物語。
過保護すぎる兄たちと義姉に溺愛されながら、
彼女は静かに、そして確実に幸せへ向かっていく。
【完結】身代わりに病弱だった令嬢が隣国の冷酷王子と政略結婚したら、薬師の知識が役に立ちました。
朝日みらい
恋愛
リリスは内気な性格の貴族令嬢。幼い頃に患った大病の影響で、薬師顔負けの知識を持ち、自ら薬を調合する日々を送っている。家族の愛情を一身に受ける妹セシリアとは対照的に、彼女は控えめで存在感が薄い。
ある日、リリスは両親から突然「妹の代わりに隣国の王子と政略結婚をするように」と命じられる。結婚相手であるエドアルド王子は、かつて幼馴染でありながら、今では冷たく距離を置かれる存在。リリスは幼い頃から密かにエドアルドに憧れていたが、病弱だった過去もあって自分に自信が持てず、彼の真意がわからないまま結婚の日を迎えてしまい――
乙女ゲームの悪役令嬢の兄の婚約者に転生しましたが傷物になったので退場を希望します!
ユウ
恋愛
平凡な伯爵令嬢のリネットは優しい婚約者と妹と穏やかで幸福な日々を送っていた。
相手は公爵家の嫡男であり第一王子殿下の側近で覚えもめでたく社交界の憧れの漆黒の騎士と呼ばれる貴族令息だった。
結婚式前夜、婚約者の妹に会いに学園に向かったが、そこで事件が起きる。
現在学園で騒動を起こしている第二王子とその友人達に勘違いから暴行を受け階段から落ちてしまう…
その時に前世の記憶を取り戻すのだった…
「悪役令嬢の兄の婚約者って…」
なんとも微妙なポジション。
しかも結婚前夜で傷物になる失態を犯してしまったリネットは婚約解消を望むのだが、悪役令嬢の義妹が王子に婚約破棄を突きつける事件に発展してしまう。
『壁の花』の地味令嬢、『耳が良すぎる』王子殿下に求婚されています〜《本業》に差し支えるのでご遠慮願えますか?〜
水都 ミナト
恋愛
マリリン・モントワール伯爵令嬢。
実家が運営するモントワール商会は王国随一の大商会で、優秀な兄が二人に、姉が一人いる末っ子令嬢。
地味な外観でパーティには来るものの、いつも壁側で1人静かに佇んでいる。そのため他の令嬢たちからは『地味な壁の花』と小馬鹿にされているのだが、そんな嘲笑をものととせず彼女が壁の花に甘んじているのには理由があった。
「商売において重要なのは『信頼』と『情報』ですから」
※設定はゆるめ。そこまで腹立たしいキャラも出てきませんのでお気軽にお楽しみください。2万字程の作品です。
※カクヨム様、なろう様でも公開しています。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
「地味で無能」と捨てられた令嬢は、冷酷な【年上イケオジ公爵】に嫁ぎました〜今更私の価値に気づいた元王太子が後悔で顔面蒼白になっても今更遅い
腐ったバナナ
恋愛
伯爵令嬢クラウディアは、婚約者のアルバート王太子と妹リリアンに「地味で無能」と断罪され、公衆の面前で婚約破棄される。
お飾りの厄介払いとして押し付けられた嫁ぎ先は、「氷壁公爵」と恐れられる年上の冷酷な辺境伯アレクシス・グレイヴナー公爵だった。
当初は冷徹だった公爵は、クラウディアの才能と、過去の傷を癒やす温もりに触れ、その愛を「二度と失わない」と固く誓う。
彼の愛は、包容力と同時に、狂気的な独占欲を伴った「大人の愛」へと昇華していく。
お掃除侍女ですが、婚約破棄されたので辺境で「浄化」スキルを極めたら、氷の騎士様が「綺麗すぎて目が離せない」と溺愛してきます
咲月ねむと
恋愛
王宮で侍女として働く私、アリシアは、前世の記憶を持つ転生者。清掃員だった前世の知識を活かし、お掃除に情熱を燃やす日々を送っていた。その情熱はいつしか「浄化」というユニークスキルにまで開花!…したことに本人は全く気づいていない。
そんなある日、婚約者である第二王子から「お前の周りだけ綺麗すぎて不気味だ!俺の完璧な美貌が霞む!」という理不尽な理由で婚約破棄され、瘴気が漂うという辺境の地へ追放されてしまう。
しかし、アリシアはへこたれない。「これで思う存分お掃除ができる!」と目を輝かせ、意気揚々と辺境へ。そこで出会ったのは、「氷の騎士」と恐れられるほど冷徹で、実は極度の綺麗好きである辺境伯カイだった。
アリシアがただただ夢中で掃除をすると、瘴気に汚染された土地は浄化され、作物も豊かに実り始める。呪われた森は聖域に変わり、魔物さえも彼女に懐いてしまう。本人はただ掃除をしているだけなのに、周囲からは「伝説の浄化の聖女様」と崇められていく。
一方、カイはアリシアの完璧な仕事ぶり(浄化スキル)に心酔。「君の磨き上げた床は宝石よりも美しい。君こそ私の女神だ」と、猛烈なアタックを開始。アリシアは「お掃除道具をたくさんくれるなんて、なんて良いご主人様!」と、これまた盛大に勘違い。
これは、お掃除大好き侍女が、無自覚な浄化スキルで辺境をピカピカに改革し、綺麗好きなハイスペックヒーローに溺愛される、勘違いから始まる心温まる異世界ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる