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写 真

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 小雨になった道を、傘をささずに歩いていると空から明るい光が差し込んできた。

 先ほどまでの雨が嘘のように雲一つ無い晴天となった。

 空には大きな虹が姿を見せた。
 七色とよく聞くが実際に数えてみてもその色の数はよく解らない。

「綺麗だ」辺りの人達も、空を見上げて虹を確認している。
 その表情は一様に幸せそうであった。

 綺麗な物を見ると、心も洗われるようだと改めて感じた。
 先ほどの少女との触れ合いで、俺の心は近年に無いくらいに浄化されたに違いない。

 気持ちを切り替えて本日の本来の目的を果たす為に実家へ足を向ける。
 実家といっても、親がそこに居住しているわけではない。少し前まで、祖母が一人で住んでいた家。

 物心ついた時から俺が育った家。
 俺は、幼い頃に両親を事故で亡くし祖父母に育てられた。

 自分の身の上話をすると同情されることがあるが、俺にとってはそれが普通なので同情される謂《いわ》れはない。

「おう、来たか!」実家の玄関を開けると叔父の声がした。たくさん積まれた荷物を紐で縛ったり、まだまだ片付け作業は続いているようであった。

 俺の父親は三兄弟の長男であったが、事故によって早くに亡くなってしまったので次男の叔父が長男の代わりに祖母の面倒を見てきた。

 三男の叔父も結婚し近くで生活している。

 二人とも、俺のことを子供の頃より弟のように接してくれ、俺にとっては叔父というよりは兄のような存在でもあった。

「久しぶり……」俺がこの実家に足を運んだのは、あの両親の命日で集まって以来、ほぼ一年ぶりだった。

 祖父が亡くなってから祖母は一人でこの家で生活してきたのだが、足が不自由になってきたのと、軽い痴ほう症が散見されるようになってきた為、一人での生活は支障が出てきた。

 親族で話し合いの結果、完全介護の施設に入ることになり、長年住み続けたこの借家を返すことになったそうだ。

 俺はこの家に、ほぼ成人するまで生活していたので色々な思いでと荷物があった。

 ただ、結婚して家を出る時に、あらかた必要なものを持って出たので、いまさら持って帰る物など無いと断ったのだが、叔父では判断出来ないものがあると言われて、渋々やって来たのだ。

 まあ、今回は、叔父の強引な誘いのおかげであの少女と出会う事ができたので、感謝しておこうと思う。

「別に、必要な物は何もないと思うけど……」

 ある程度、整理された荷物の中に俺のものと思われる物が仕分けされていた。

 この中に、ひときわ大きな四角い物が目立っていた。
「おっ、これは懐かしい」それは額縁に入った空手の昇段免状だった。

『空手道初段』

 俺は子供の頃から空手の修行を継続してきた。現在では所属している空手道場で参段を頂戴している。

 俺が初段になった時に、祖父はよほど嬉しかったのか上等な額縁を用意して、壁にこの免状を豪快に飾ってくれていた。その当時は、それが嬉しくもあり恥ずかしくもあった。

「いるものがあったら、持ってかえるといい」叔父は大きな袋を用意してくれていた。
 荷物を片っ端から見てみるが、懐かしいものはあっても持ち帰ろうと思うほどの物は、やはり見当たらなかった。

 学校の工作の時間に作った作品集。子供の頃遊んでいた壊れたオモチャ。
 よくこんなものを保管していたものだと感心する。

「あれ、これは……?」

 埃を被った金色の台紙を見つけた。表面の汚れを手で払うと、赤い文字で寿と書かれていた。三つ折になった表紙を開くと中には、B5サイズほどの写真がはさまっていた。

 燕尾服《えんびふく》を着た男と、着物を着た女。幸せそうに並ぶ二人の男女の姿。

 それは俺の両親の結婚当時の写真であった。叔父の話によると、二人は、まだ若く貧しかったので結婚式はせずに写真撮影だけで済ませたそうだ。燕尾服と着物の組み合わせが滑稽《こっけい》であった。

「仏壇の写真以外、まともに見たこと無かったけれど、これが俺の母さんか……」俺がまだ物心もつかない子供の頃、両親と一緒に住んでいた家が全焼したそうだ。家は、この実家から少し歩いた先にあったアパートの二階だった。

 今は、その場所に大きなマンションが建っている。

 火災の原因は、近隣のワルガキどもの喫煙らしい。らしいと言うのは、幼い頃より祖母の口からそう聞かされてきたからだ。

 叔父が言うには実際の犯人は定かでないということだ。ただ、火元はタバコであった事は間違いないそうだ。

 近所の学生達がタバコを頻繁に吸うのを見て、祖母はそう思い込んでいるそうだ。
 ちなみに俺の両親は二人ともタバコは吸わなかったそうだ。


 それは、皆が寝静まった深夜だった。

 タバコの不始末から、引火した火は建物の中に侵入し近所の住人達が気づいた時には、俺達の住んでいたアパートはすでに手がつけられない状態だった。

 最初に火事に気がついたのは母親だった。

 母は自分の身なりも気にせず、まだ赤ん坊だった俺の体を抱きしめ外に飛び出した。
 母の、その背中は業火に焼かれて黒焦げの状態だったと聞く。

 それでも彼女は俺に火の粉がかからぬように必死に抱き締めてくれて守ってくれた。

 駆けつけた消防士に俺を預けて、無事なのを確認して母は意識を失った。

 結局運ばれた病院でそのまま息を引き取った。母は俺が助かった事による安堵からなのか笑顔で亡くなったらしい。

 子供の頃より何度も祖母に聞かされた話だ。そのせいもあって母に対しては感謝の気持ちで一杯である。

 ただ、普通の親子のような感覚は無く、あくまで命の恩人という位置関係であった。人間の親子の情といものは血の濃さよりも記憶や思い出が関係を育てるのだ。

 ちなみに、父は眠ったまま煙に巻かれて死亡くなったらしい。きっと苦しまずに亡くなったのだろう。せめてもの救いだと祖母の言葉。

 その事故により俺の幼い頃と両親の写真は、ほぼ全てが焼けてしまっていて残っていない状態であった。
 唯一、祖母の家にあった母の写真が仏壇のあの無愛想な写真であった。

「この写真を遺影にしたほうが良かったんじゃねえの?」無愛想な母の写真を指差して俺は言った。どうも、この写真は祖母が片付けた場所をずっと失念していて、今回家中を掃除したお陰で出てきたそうだ。

 まあ、俺にとっては今更どうでもよい事ではあるのだが……。

「ん、でも、この写真は誰かに似てるなぁ……」初めてみる微笑んだ母親の写真を見て、どこか知っている誰かに似ているような気がしたがその時の俺は思い出す事は出来なかった。

 色々な荷物を選別したが、結局それほど必要とする物はなかった。
 とりあえず、両親の写真と、空手の免状を持ち帰ることにした。

 誰かの結婚式の引き出物でもらったような夫婦茶碗を持って帰れと言われたが、それは頑なに断った。今の俺に、それほど不要な物はない。

 荷物を紙袋にまとめ、叔父に挨拶をしてから家を出た。

 外はすでに日が落ちて夜になっていた。

 空を見上げると、昼間の大雨が嘘のように綺麗な星が輝いており、もう雨の降る様子は無かった。

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