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lll.騒がしさは終わらない
渡航‐伯爵邸へ‐
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まもなく着港すると知らせるアナウンスが鳴っている。僕が腰掛けたままのカウンターは窓に向いていて、そこには青い海と晴れた空が広がっているだけだ。港の屋根もまだ何も見えていない。
もう少し時間があるだろうと思って手元に目を落とした。流行病に関する論文書。特に据えておきたいページにはピンを挟んである。僕に不安がよぎる度にこのページを眺めていた。
小型客船は汽笛を鳴らしてからトロン港へと到着した。
港に降り立ち、ゲートを抜ける。するとこっちに向かって大きく手を振る人がすぐに見えた。ふくよかなお腹とカジュアルなワイシャツで、なんだか懐かしい感じをまとった人物だ。
「おーい! フォルクス君! こっちこっち!」
「医院長、おはようございます!」
オクトン病院の医院長だ。薄手のポロシャツでまるで仕事感を見せなかった。
「いやぁ、暑い。今日はよく晴れてよかったね。その格好だと暑くないかい?」
「大丈夫です」
キリッと言ってみたもののやっぱりちょっとは暑い。焦がすほどの日差しではないけれど、無風で内側からじんわり汗をかいてしまう季節だった。だけど我慢しなくちゃと張り切る僕なんだ。
港のロータリーでは個人タクシーが僕らの前に止まる。医院長が先に乗って後から僕が乗ると、行き先を告げるより先に「良いスーツだね」と医院長が褒めてくれた。
「住所は分かるかな?」
「あっ、はい。ええっと……」
僕は前に乗り出して運転手に住所を告げた。運転手は慣れていて、僕の口頭で説明した場所をすぐにわかったようだ。難なくタクシーが動き出す。
「やる気が満々。良い感じだよ、フォルクス君」
「あ、ありがとうございます……」
光栄だけど少し気恥ずかしさもありながら。
「急かしてしまってすみません」
「いやいや大丈夫だよ。でも、いきなり君から電話がかかってくるのはビックリしたけどね」
絶えずニコニコと話す医院長の懐の大きさは海だ。僕からはもう「すみません」と「ありがとうございます」ばかりしか出ない。それでもこの人は謙虚でよろしいと褒めてくれた。
タクシーは懐かしい場所を次々と通り過ぎていく。例のサンドイッチ店の前も通ったはずだ。しかしお店があった場所には新しいクリーニング店が建っていた。それだけ僕がアスタリカに長くいたのか、それとも時代の移り変わりが早いのか。
少し寂しい気持ちになりそうだったけど、いけないいけないと気を引き締めた。理由はタクシーが目的地に到着したからだ。港からの距離がまるで数分だったかのように短く思う。
暑い空の下に降り立つと、もう汗を拭っている医院長が僕にささやく。
「緊張するかい?」
「はい……倒れそうです」
僕がここに来るのは二度目。じっと見上げる建物はいわゆる豪邸というものだ。イビ王子の自宅とはまた違った、おもむきのある佇まい。セルジオ城を小さくしたみたい。
ポストのネームプレートにある『レーモンド』の文字が直視しがたい。今から手紙にあつらえて投函して去ってしまいたい衝動があるけれど、そんなことじゃ僕は自分を変えられない。
せめてインターホンを押して声だけでのやり取りで済ませたいと思っても、ここにはそんな機械は搭載していなかった。扉をノックしてレーモンド伯爵に合わなくちゃ。それは僕の役割でなくちゃならない。
「はぁ……ふぅ。……行きまそう」
医院長より前を歩いて玄関前の庭園を歩いていく。そして汗を握ったこぶしで大きな扉をノックした。
医院長がエントランスを大いに褒めている。それによって険しい喧騒で出迎えたお手伝いさんの顔もほころんでいくようだ。天気の話でも無いのにここまで一気に心を開いてもらえるなんて、さすが医院長のお心か技術かが素晴らしい。
何気ない日常会話の延長で、医院長はやんわりと聞いた。
「伯爵のご機嫌はいかがですか?」
するとさすがにお手伝いさんの表情は困ったものになった。周りを少し気にしたあと僕らにそっと告げる。
「あまり良いとは言えません。奥様がお出かけになってからは、禁酒のお約束も守られていませんで……」
「あららら、それはいただけませんな」
当然、医院長には僕の裁判のことなどは伝えてあった。レーモンド伯爵には一年間の禁酒令が出されて、そして僕には一年間の医師免許停止処分が下されたってことを。
だけど大きな病院のトップである大物の医者は、ここで声を荒げたりせずに悠々とし、冗談を聞くみたいに笑っていられるんだ。
僕の場合は寛大じゃなく。ちょっとした不服が込み上げて来そうだった。心の中で悶々としつつ……。でも伯爵の非を咎められない理由があったんだ。それを解決するべくして僕は医院長と一緒にここへ来た。
「旦那様のお部屋へご案内したします」
「うん。行こうか」
いつのまにか医院長が先を歩いている。僕が怖気付いたというより、これより先は医者の出番だってことだよ。ちゃんと有効な免許を持った人のね。
「医院長、お願いします」
僕は緊張していた。
「大丈夫さ」
僕を励ますように医院長は柔らかく微笑んでいた。
しかし伯爵の部屋に向かうとなれば和やかな雰囲気は一変する。ここから緊張感を持ったものに変わった。どれほど僕が罵られるだろうか。死んで詫びろと今度こそ命がないかもしれない。怖いけど……しっかりしなくちゃいけない。
飾りの少ない廊下。突き当たりの部屋がレーモンド伯爵の寝室だ。医院長がアクションを起こす前に僕の背中を軽く叩いた。
「大丈夫だよ」
それからレーモンド伯爵の部屋をノックする。
(((次話は明日17時に投稿します
※Twitterから Threadsへ移行しました。
《Threads》更新報告、執筆や制作のこと、絡み多め
《Instagram》短編小説連載、執筆や育児のこと、絡み少なめ
どちらもIDは「kusakabe_natsuho」です。
是非是非!フォローよろしくお願いします!
もう少し時間があるだろうと思って手元に目を落とした。流行病に関する論文書。特に据えておきたいページにはピンを挟んである。僕に不安がよぎる度にこのページを眺めていた。
小型客船は汽笛を鳴らしてからトロン港へと到着した。
港に降り立ち、ゲートを抜ける。するとこっちに向かって大きく手を振る人がすぐに見えた。ふくよかなお腹とカジュアルなワイシャツで、なんだか懐かしい感じをまとった人物だ。
「おーい! フォルクス君! こっちこっち!」
「医院長、おはようございます!」
オクトン病院の医院長だ。薄手のポロシャツでまるで仕事感を見せなかった。
「いやぁ、暑い。今日はよく晴れてよかったね。その格好だと暑くないかい?」
「大丈夫です」
キリッと言ってみたもののやっぱりちょっとは暑い。焦がすほどの日差しではないけれど、無風で内側からじんわり汗をかいてしまう季節だった。だけど我慢しなくちゃと張り切る僕なんだ。
港のロータリーでは個人タクシーが僕らの前に止まる。医院長が先に乗って後から僕が乗ると、行き先を告げるより先に「良いスーツだね」と医院長が褒めてくれた。
「住所は分かるかな?」
「あっ、はい。ええっと……」
僕は前に乗り出して運転手に住所を告げた。運転手は慣れていて、僕の口頭で説明した場所をすぐにわかったようだ。難なくタクシーが動き出す。
「やる気が満々。良い感じだよ、フォルクス君」
「あ、ありがとうございます……」
光栄だけど少し気恥ずかしさもありながら。
「急かしてしまってすみません」
「いやいや大丈夫だよ。でも、いきなり君から電話がかかってくるのはビックリしたけどね」
絶えずニコニコと話す医院長の懐の大きさは海だ。僕からはもう「すみません」と「ありがとうございます」ばかりしか出ない。それでもこの人は謙虚でよろしいと褒めてくれた。
タクシーは懐かしい場所を次々と通り過ぎていく。例のサンドイッチ店の前も通ったはずだ。しかしお店があった場所には新しいクリーニング店が建っていた。それだけ僕がアスタリカに長くいたのか、それとも時代の移り変わりが早いのか。
少し寂しい気持ちになりそうだったけど、いけないいけないと気を引き締めた。理由はタクシーが目的地に到着したからだ。港からの距離がまるで数分だったかのように短く思う。
暑い空の下に降り立つと、もう汗を拭っている医院長が僕にささやく。
「緊張するかい?」
「はい……倒れそうです」
僕がここに来るのは二度目。じっと見上げる建物はいわゆる豪邸というものだ。イビ王子の自宅とはまた違った、おもむきのある佇まい。セルジオ城を小さくしたみたい。
ポストのネームプレートにある『レーモンド』の文字が直視しがたい。今から手紙にあつらえて投函して去ってしまいたい衝動があるけれど、そんなことじゃ僕は自分を変えられない。
せめてインターホンを押して声だけでのやり取りで済ませたいと思っても、ここにはそんな機械は搭載していなかった。扉をノックしてレーモンド伯爵に合わなくちゃ。それは僕の役割でなくちゃならない。
「はぁ……ふぅ。……行きまそう」
医院長より前を歩いて玄関前の庭園を歩いていく。そして汗を握ったこぶしで大きな扉をノックした。
医院長がエントランスを大いに褒めている。それによって険しい喧騒で出迎えたお手伝いさんの顔もほころんでいくようだ。天気の話でも無いのにここまで一気に心を開いてもらえるなんて、さすが医院長のお心か技術かが素晴らしい。
何気ない日常会話の延長で、医院長はやんわりと聞いた。
「伯爵のご機嫌はいかがですか?」
するとさすがにお手伝いさんの表情は困ったものになった。周りを少し気にしたあと僕らにそっと告げる。
「あまり良いとは言えません。奥様がお出かけになってからは、禁酒のお約束も守られていませんで……」
「あららら、それはいただけませんな」
当然、医院長には僕の裁判のことなどは伝えてあった。レーモンド伯爵には一年間の禁酒令が出されて、そして僕には一年間の医師免許停止処分が下されたってことを。
だけど大きな病院のトップである大物の医者は、ここで声を荒げたりせずに悠々とし、冗談を聞くみたいに笑っていられるんだ。
僕の場合は寛大じゃなく。ちょっとした不服が込み上げて来そうだった。心の中で悶々としつつ……。でも伯爵の非を咎められない理由があったんだ。それを解決するべくして僕は医院長と一緒にここへ来た。
「旦那様のお部屋へご案内したします」
「うん。行こうか」
いつのまにか医院長が先を歩いている。僕が怖気付いたというより、これより先は医者の出番だってことだよ。ちゃんと有効な免許を持った人のね。
「医院長、お願いします」
僕は緊張していた。
「大丈夫さ」
僕を励ますように医院長は柔らかく微笑んでいた。
しかし伯爵の部屋に向かうとなれば和やかな雰囲気は一変する。ここから緊張感を持ったものに変わった。どれほど僕が罵られるだろうか。死んで詫びろと今度こそ命がないかもしれない。怖いけど……しっかりしなくちゃいけない。
飾りの少ない廊下。突き当たりの部屋がレーモンド伯爵の寝室だ。医院長がアクションを起こす前に僕の背中を軽く叩いた。
「大丈夫だよ」
それからレーモンド伯爵の部屋をノックする。
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