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lll.騒がしさは終わらない

渡航‐ヤブ医者‐

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 そこは日当たりの良い簡素な部屋。僕が初めて伯爵を診察した時とは違う部屋だった。ビジネスホテルよりも少ない家具にシングルベッドが一つ。そこで伯爵は横たわっている。前はもっと豪華な家具と花瓶に花も入っていたはずだ。
 伯爵は少し痩せていた。久しぶりに会ってあまり気にならない程度だとは思うけど、しかし伯爵の浅い呼吸が時々乱れているのは医者であるなら気付くと思う。あまり良いものではないと気に留めるという意味でも。
「レーモンド伯爵。お久しぶりです」
 僕からベッドの側に立って声をかけた。伯爵の聴力は問題ない。動きも悪くない。僕の方を見ると、あの時の若造だと分かったみたいだ。
 濁りのない瞳でギョロリと僕を見上げる。しかし怒鳴りたいほどの気力が出ないようで、落ち着きながら粘ついた口を軽く開けた。
「死に際でも見にきたか。それとも裁判のやり直しでも抗弁しに来たか」
 伯爵はお手伝いさんを呼び寄せて、僕たちを帰らせるようにと言う。その時僕のことは「ヤブ医者」と呼んだ。
 ……そうだ。僕は今の弱ったレーモンド伯爵を見て、相当自分がヤブ医者だったと痛感したところだ。もしも今僕が結果を下すとなれば、確実にアルコール依存症とは診断しない。
「待ってください伯爵。今回は私ではなく、こちらの先生に再診を受けていただきたくて訪ねて来ました」
 続いて医院長が自己紹介をする。オクトン病院と聞けばそれなりに分かる名前だろう。レーモンド伯爵の眉は一ミリも動かなかったけど。
「……帰ってくれ。今さら自分の体に興味は無い」
 そのまま視線を外されそうになるのを、僕は前のめりになって伯爵と向き合った。
「私の診断は誤診だったかもしれません。……いいえ、高確率で誤診でした。もう一度診察をさせて下さい。腕も地位もある優秀な内科先生に診てもらってください」
 伯爵はしばらく黙っていた。その間にも苦しそうになる呼吸にヒヤヒヤとしてしまう時があった。肺に炎症があるなら伯爵の年齢でも大事に至りかねない。
「そうか。わかった」
 伯爵はそう答えて僕から目を離した。受け入れてくれるのだと僕に安心させる間もなく続きを言った。
「貴様の免停は取り止めてやる。その代わり私はこのまま死なせてくれ」
「レーモンド伯爵……」
 開いた窓でもカーテンは揺らさない。伯爵の心もそれみたいだ。
 僕も医院長も説得を試みた。お手伝いさんもそれとなく再診を受けるよう言葉を繋いでいたけど、さっき客人の声があって部屋を出て行ってしまった。
 そうなれば僕は、多少残酷な真実を告げてでも受診はして欲しいと言った。「このままでは命を落とす可能性もあります」と。しかしそれでも伯爵の意思は固い。
 どうしてもダメで諦めかけた時、接客で外していたお手伝いさんが戻ってくる。ひとりではなく、来客という人物を連れて。
「いやぁ、すみません。こんなに快晴なのにまさかフェリーが欠航するなんて思わないでしょう」
 暑い暑いと言いながら、この重苦しい空気を掻き回してくるのは僕も知っている人物だ。医院長よりも年長で、その人も医療をかじった人だった。
「フォルクス君、お久しぶり。そしてレーモンド伯爵ですね。初めまして」
 遅れてきたご老人は僕の横に並んで立つ。すると伯爵はその人のことを見上げて睨んだ。
「……知ってるぞ」
 ご老人の陽気ぶりとは裏腹に、伯爵は嬉しそうな感じではない。
「スティラン・トリス。いわくのある家系の話はまあいいが。このイカれた男を私のところへ寄越すということは、私の死体をいち早く回収して生物兵器の人体実験にでも使うつもりか」
 トリスさんについては僕も疑問はある。だけど今はレーモンド伯爵を説得するのが先だ。そのために彼が来てくれたのなら、かなり助かったと言えた。
「レーモンド伯爵。トリスさんは未解明の病気を研究し薬を作る方です。伯爵のご病気を治すために駆けつけて下さいました」
 言ってから僕は後悔した。診察をする前に病気だなんて決めつける医者がどこにいるだろう。
「どうか再診をお願いします」
 どの医者が見たって伯爵がアルコールによる禁断症状でこうなったとは思わない。酒を止めなくて浴びるほど飲み続けていてもこうならない。僕でもそう思っている。
 医者は伯爵の答えのみを待っていた。
 祈る気持ちでいると伯爵は「分かった」と告げる。
「どうせ死ぬなら実験体になって貢献でもしてみよう」
 僕はスッと肩の力が抜けた。でも安心しないことだと医院長に囁かれた。

 僕は医師免許が停止になっている。だから患者の身体に触れることは出来ない。医院長とトリスさんの見解をカルテに書き起こし、頭の中で想像するだけで発言権も許されていなかった。
 ひと通りの診察を終えたあと、僕の考えと二人の優秀な医療者の見解は一致する。まずは医院長が述べた。
「マスピスタ感染症だね。レベルは2か。肺の症状によっては3になるかもしれない。でも末端からの進行だからそれなりに時間はある」
 レベルの数値を聞いて、早期発見でよかったと安堵する僕だった。しかしトリスさんが医院長の見解に答えた。
「私はセルジオで同じ感染症の患者を看取った。その時も末端からの進行だったが、内臓に到達すると細胞破壊が一気に進むんだ。治療方法を探っている間に何度も手遅れになった」
 つまりレベル2でも安心なんてしていられないということ。
 うーん、と二人が唸っている。トリスさんはセルジオで王様の奥さんと娘さんをその病気で救えなかった。治療薬が見つかっているらしいんだけど、厳しいというのが現実のよう。
 トリスさんが伯爵の前に出て告げる。
「レーモンドさん。アスタリカで治療を受ける必要があります。私と多くの仲間が医療に励む大学病院があるので、そこで」
 拒むと思った。しかし伯爵はボソッと告げた。
「……何でもしてくれて構わない」
 それは生きる気力を得たものとは違う。
「もう死んでもいい」
 患者さんの動機や言葉がいくら後ろ向きでも、医者が手を尽くせるという意味では有難い判断だ。それをフォローという形で優しく諭せるのが医院長の得意だった。精神医の僕よりもずっと卓越している。ベテランだから成せるという見方もあるけど、さすがだった。
 一方で僕はますます落ち込んだ。精神医としての力量が足りていない上に、レーモンド伯爵に誤診を下しているからだ。
 僕のせいでレーモンド伯爵は体力も気力もなくしてしまったんだ。医師免許なんて、停止どころか取り上げるべきだ。



(((次話は明日17時に投稿します

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