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第七章 「遥かな大地」

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「最初この世界には今のようにアルタイ族もペグ族も、そして私のようなユマ族もいませんでした。その代わりに世界の大部分を支配していたのは『人』と呼ばれる種族でした」

 今となっては人がどんな種族だったのか、私たちの持っている資料には多くが残されていないからはっきりとは分からないのですが、様々なものを作り、知識を蓄え、多くの集落を作り、それらの幾つかが集まって国となり、互いに殺し合う。その傍らでは歌を楽しみ、恋というものをし、多くの悲しみも喜びも知る種族だったようです。
 人は今この世界に存在しているどの技術よりも遥かに高度な文明を持っていて、それは自動で畑を耕したり、空を自由に飛ぶことが出来たり、中には一瞬で大量の生き物を殺すことの出来るものもあったようです。
 けれど、強過ぎる武器は己を滅ぼします。
 大きな戦争が起こり、やがて人はこの世界を人の住めない世界にしてしまいました。
 草は枯れ、花は芽を出さず、水も空気も汚れ、空には沢山の黒い灰が覆ったそうです。山は火を吹き、大地は絶えず揺れ、海辺は大きな津波でやられた。それでも残った人々は、何とか生き延びようとしました。
 その時に考えたのです。

 ――この世界を捨てればよい、と。

 人は新しい世界を見つける為に、最北の地に巨大な塔を建設しました。
 それは先が見えないほど高く、ずっとずっと天まで向かって伸びていたそうです。人はその塔をどんどん伸ばし、やがて雲も見えないほどの天まで届かせました。
 その先がどうなっていたかは詳しく残されていませんでしたが、人はその塔を使ってこの世界を飛び出そうとしたのです。しかしこの塔はある時ぽっきりと折れて倒れてしまった。それは大地震があったからとも、落ちてきた巨大な岩がぶち当たったのだとも、この世界の創造主の怒りに触れたからとも言われています。
 どちらにしても人の塔は倒れたのです。
 人は再びこの世界に戻ってきてしまいました。
 でも世界は汚れていて、枯れていて、とても人が住めるような状況ではありません。
 そこで人は考えたのです。
 世界が住めないのなら、自分たちをこの世界で生きていけるようにしてしまえばいい、と。
 集まった人々は色々な意見を出し合いました。
 それぞれが大切にしているものを残そうとしたのですね。
 その結果、二つの派閥に分かれました。一つは生命を大切にする派閥。彼等はほとんど飲まず食わずでも生き続けられるような強い生命力を持つ種族を望みました。
 もう一つは心を大切にする派閥。その象徴こそが歌でした。彼等は生命よりも生きることそのものを楽しむことを優先したのです。
 その結果として誕生したのが永遠の寿命を持ち生き抜く為の頑強な体と戦闘能力を備えたアルタイ族と、歌を歌い花から花へと渡り歩く虫のようなペグ族でした。
 二つの種族は最初は同じ場所に暮らしていましたが、その寿命の違いや互いの精神状況の差異から、次第に離れて生活するようになっていきました。その過程で互いに進化を繰り返し現在のような形になったと言われています。

「それから何千年の歳月が過ぎ、互いを伝説の生き物としてしか見られないようになりました」

 その物語の一部はアルタイ族に伝わる天地創造神話で聞いたような話だった。
 神話ではとても大きく育った木を上ろうとした神が木から落ちて二つに割れ、その内の大きな方がアルタイ族になったというものだ。残りは他の鳥や魚や動物になったと言われていた。けれど、と思う。確かに今の話はアルタイ族とペグ族が生まれた秘密に関する、とても重要な話だったと思うが、果たして彼がフロスに話したというのは、それだけのことだったのだろうか。
 そこまで考えてから気づいた。ユマ族のことは何一つ出てきていない。

「なあ。今の話の中で、どちらの派閥にも入らなかった者たちはどうなったんだ?」

 それを訊ねたウッドに、ユウゾウは少し嬉しそうな顔をして答えた。

「やはりあなたもそこに気づくのですね。フロスという方と同じだ」

 その言葉に、ウッドは彼が自分を試しているのではないかと思い始める。勿論そんなことに何の意味があるか分からなかったが。

「その二つに所属しなかった人々はどうしたか。それ以前に、その二つの種族を作り出したのは誰だったか。ここが何より大事なのです。つまり二つの種族には直接の創造主がいる訳ですね。それがユマ族の先祖です」
「それはつまり……」

 ウッドはまじまじとその小柄な輩を見た。顔は皺だらけで、髪は殆どなく、残っているものも白い。よく見ればユウゾウは何ともみすぼらしい容姿をしていた。

「あれは大いなる実験だった。そう、初代は語ったそうです」

 そう語ったユウゾウの横顔が、今までに見せていたものとは僅かに雰囲気が変化したような気がした。ウッドは背筋に冷たいものが降りてくるような感覚を覚え、やや強張こわばった顔で彼を見つめていた。

「私はその研究者の末裔なのですよ」

 つまりそれがユマ族なのだ。人、と言ってもいいかも知れない。

「ではペグ族のことはよく理解しているんだな」
「ええ。とても」
「なら聞かせて欲しい。あんたはフロスに何と説明した。そして彼は今どこに居て、ネモをどこへ連れて行ったのかを」

 そんな昔話が聞きたくてウッドはここまでやってきた訳では無いのだ。ネモが歌声を取り戻し、また元のように自由に歌えるようになる方法を聞き出し、フロスに捕まっている彼女を助け出す。その為にあれほど過酷な旅をしてきたのだ。

「あなたはウッドとかいう名前だったね。確か彼女の歌を、聴いたんでしたよね」
「ああ、そうだ」

 何だろう。何がおかしいというのだろうか。ユウゾウは笑いを噛み殺しながら続ける。

「今、あなたは怒りを感じていますね?」
「いかり?」
「そう。その感情が怒り。人は多くの感情の総合体だった。他者が死ねば悲しみ、涙を流し、愛しい人と一緒にいられれば嬉しくて、また涙する。色々な感情を持ち合わせていたから、人は進化出来た。様々なものを生み出し、利用し、挫けずに時代を切り拓いてきた」

 ユウゾウは立ち上がり、部屋を歩きながらウッドに次々と言葉を浴びせた。その姿はもう穏やかな声で話す彼と同一とは思えなかった。

「でも彼等はその最も高貴な人が人として存在する為の感情よりもただ長生きすることが大切だと言った。生きる為に感情は不要とすら。だからこそ、その大切さを分からせる為、大いなる実験をしたのだ」

 彼が何を語ろうとしているのか。彼を突き動かしているものが何なのか。ウッドには理解出来なかった。けれど彼は涙を浮かべ、時に笑い、時に大声で叫び、語り続けた。

「アルタイ族の眠っている感情は、ペグ族の歌によって呼び起こされる。それは二つの種族が再会した時、また人となるように、我々が仕組んだものだった。何千年も掛けた、それは壮大な計画だったのだよ……そう。とても永く、無限とも思えるほどの時間を費やして成し遂げようとした……計画だった」
「ユウゾウ?」

 彼は再び椅子に腰掛け、果実のジュースを一口飲んだ。

「けれど物事というのは思い通りにはいかないものなのです」

 今までの高ぶった様子は消え去り、沈んだ表情でユウゾウは話す。

「アルタイ族もペグ族も、すっかりそれぞれの生活を手に入れてしまったのです。いつの日か再び人がこの世界を支配することを夢見て、我々ユマ族はこの地下に潜んで生き長らえてきました。けれど、今や残っているユマ族は私一人だけ。他はみな死んでしまった。そして私も間もなく息絶えるでしょう」
「それは……どういうことだ」

 今彼は、自分はもう直ぐ死ぬと言った。ぐったりとして座るユウゾウは何故か、先ほどまでの何倍も小さく、それこそペグ族かと思うほどに見えた。

「おそらくウッドさん。あなたが最後の人を看取った者となるでしょう。だから私は全てを話しておかなくてはならないのです」
「何を。俺はそんな者にはならない」
「ネモさんと出会った瞬間に、いえ、もっとずっと前、あなたが五十歳の時にペグ族に遭遇した時に、この運命は定められていたのかも知れません」
「俺はただネモが歌えるようにと。ただそれだけで」
「彼女は歌えます」

 その言葉に、ウッドは己の耳を疑った。

「何だと?」

 驚くウッドにユウゾウはその穏やかな声で再度その言葉を述べた。

「彼女はずっと歌うことが出来たのです。ただ歌わなかっただけで」

 それは一体どういうことだろう。
 何故歌うことが出来たのに歌えないふりをしていたのだろうか。
 ウッドは驚きを隠せないまま、悲しそうに微笑むユウゾウを見つめていた。
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