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第八章 「歌虫は歌う」

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「なあ、ウッド。君は、幸せだな」

 ――し、あ、わ、せ。

 あまりに唐突な言葉だった。
 それはウッドの不意を突くのに充分過ぎるもので、気づいた時にはフロスの剣は直ぐ傍まで迫ってきていた。今から腕を動かしても間に合わない。それはまるで名人の弓のように、鋭い弧を描いてウッドの首の付け根に向かってくる。
 殺られた。そう意識した瞬間だった。
 激しい閃光。
 続く轟音。
 世界が消滅するのかと、一瞬考えた。
 けれどウッドのその思考もろとも、何もかもが吹き飛ばされた。強烈に叩きつける風に押され、煙や岩やよく分からない銀色の塊などと一緒に、世界の果てまで体を持っていかれるかと思った。
 しばらく低い地響きが続いていたが、それが止むとウッドはゆっくりと目を開く。天井が崩れたようだった。その隙間からわずかに空が見え、そこから差し込む光で辛うじて周囲の様子が確認出来る。
 ただ土煙が立ち昇っていて視界が悪く、自身の周辺のことしか分からない。フロスは居ないようだった。
 立ち上がる。手にしていた剣は途中から折れて半分くらいの長さになり、これではまともな戦いは出来そうにない。それを鞘にしまい、ウッドは歩き出す。
 一体何が起こったのか。
 まだぱらぱらと細かい破片が天井から落ちてくる。ひょっとするとここも崩れてしまうのだろうか。
 歩きながらウッドはフロスの口から出たその「しあわせ」という言葉について考えた。意味は分からなかったが、何とも温かみのある言葉で、それを口走るとじわりと胸の辺りに温もりが広がる。
 何故フロスはあんなことを言ったのだろうか。ウッドはその「幸せ」なのだろうか。分からない。ウッドには何も分からなかった。
 ただ歩く。
 だがどこに向かえばいい?
 ネモの居場所は分からない。それを知っているフロスは姿を消した。
 何をすればいいんだ?
 ウッドは歩くことを止めた。歩くことに何の意味があるのか、それも分からなくなってしまったのだ。
 その場に座り込み、ただぼんやりと薄暗い空間を見つめる。やがてそのまま大の字に寝転がり、天井を見上げた。
 あれが崩れるのだろうか。ところどころひび割れているのか、細い光がかすかに差し込んでいる。
 地面は何度も小さな揺れを繰り返していた。
 音は無い。
 歌は聴こえない。
 ただ己の呼吸音と鼓動だけが、耳に届いた。
 目を閉じる。もう随分と疲れた。疲れ果ててしまった。ウッドはこのままずっと眠り続けられればいいと、思った。

  何故、戦うの?
  何故、殺し合うの?
  こんなにも、ほら、あふれてる。
  世界には、沢山の色があって、
  みんな邪魔しないで一緒にいるのに、
  あなただけに、ならなくていい。
  世界は、ほら、溢れている。
  安心して、いいんだよ。

「安心して、いいんだよ」

 夢を見ていたようだった。
 ウッドはその歌の最後の言葉を口に出してみて、そこに何かとても大切なものが隠されているような気がした。フロスの問いに対する答のヒントのようなものが。
 足音だった。
 ウッドは慌てて上半身を起こす。

「遅いな」

 その時には既にウッドの首筋には刃が当てられていた。息を呑み込むことさえ出来ない。

「フロス……」

 闇の中から現れたのは彼だった。
 随分とボロボロになり、露になった上半身は傷だらけになっていた。だがよく鍛えられているのが分かる。それは全盛期のウッドよりも更に筋肉が盛り上がっているかも知れなかった。

「立て。まだ勝負がついてない」

 剣を退かし、フロスが言う。何故その時一思いに殺してしまわないか分からなかったが、ウッドは注意しながら立ち上がる。
 だが剣は折れているし、到底勝負になんてならないだろう。

「何故、俺と戦おうとするんだ?」

 剣を抜かないままフロスに向き直ったウッドは、真っ直ぐに彼の目を見て訊ねる。その問いにフロスは大きな口を開けて笑った。

「剣を抜かないのか?」
「折れてしまったし、何より抜く理由が無い」
「このままでは死ぬぞ?」
「あんたは殺さないだろ」

 即座にそう答えたウッドに、フロスは表情を止めた。真面目な顔つきでじっとウッドを見て、それから少し寂しそうに目を細める。

「何故、戦う?」

 フロスは剣を構え、ウッドに再度訊ねる。けれどウッドはもう抵抗しようとはせず、とても落ち着いた様子で手を広げた。

「これがあんたの出した答だったんだな。だからこそ、あの絶望の砂漠に住み着いたんだろ?」

 フロスは黙って構えた剣を振り上げる。

「生きているから、剣を振るう」

 構えた剣の柄を握る手に、彼は力を込めていた。

「目の前に居る誰かは、だからこそ、いつ剣を振り下ろしてくるか分からない」

 今にもそれを振り下ろさんとしていた。

「それが恐い」

 刃の先は僅かに震えていた。

「生きる為、生き延びる為、恐怖を排除しなければならない」

 けれどその刃はいつまで経ってもそこから動こうとしない。

「戦うのは他者が恐くて仕方ないからだ。誰もが臆病者なんだよ。自分以外を信じることが出来ない。だから排除する。アルタイ族は生きている限り、これからも戦い続けるだろう。それに気づいたんだな?」

 フロスは剣を振り下ろすことが出来なかった。そう、ウッドも思い込んでいた。

「恐怖。そうだ。恐いのだよ、誰もが」

 だが剣は音もなくゆっくりと宙を動き、ウッドの左の肩に突き刺さった。
 鮮血が飛び散る。
 くぐもった声を上げたが、ウッドは痛みを堪え、話を続ける。

「生きている限り、誰かを殺し続ける。だからあんたは絶望の砂漠で孤独になることを選んだ」
「ち、違う」
「あの山の家の岩は、あそこに辿り着いて死んだアルタイ族だな」

 フロスは答える代わりに、握る剣に力を入れた。更に深くウッドの肉体に入り込む。

「本当は生きることが、生き続けることが、恐くて仕方ないんだろう? だから歌を求めた。歌はあんたにとって、一種の薬だった。生きる力を与えてくれる魔法だった。そうなんじゃないのか?」

 もうフロスの剣に力は無かった。
 ウッドはそれを右手でつかみ、自身の肉から引き抜くと、力を込めて刃を折った。

「こんなものは必要無いんだ」
「やめろ」
「恐れなくていい」

 フロスは後ずさる。

「やめろ」
「安心していいんだ」

 フロスは首を横に振る。

「やめろ」
「戦わなくて、いいんだよ」

 ――やめろ!

 フロスはウッドに飛び掛り、その首を両手で絞める。ぐいぐいと絞めながらも、彼は涙を流していた。

「何故、泣くんだ」
「わ、わしは」

 その涙がウッドの顔に落ちてくる。

「わしはもう、戻れない。取り返しのつかないことを、してしまった」

 何を、したんだろう。

「もう、戻れないんだよ」

 何だろう。ウッドは胸の中に急速に広がっていく気持ち悪さをどうすることも出来なかった。

「何をした」
「シーナと同じだ」
「何をしたんだ!」
「彼女を、」


 ――殺した。

 気づけばフロスの首が千切れていた。
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