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固い床に滴り落ちて跳ねる水音がエレナの目を覚まさせた。
自分が冷たい床に横たわっていることに気づき、体を起こして自分を抱き締める。露出した腕が氷のようになっていたがもうそれを温める毛布も人肌も得られないのだと思うと、人間は自分がしたことを後悔するのだろうか。
エレナにはよく分からない。
ただ一つだけここに来て良かったことは、兄様と名も知らない女との結婚が取りやめになっていたことを知れたことだ。兵士はエレナの所為だと言っていたが、彼女には兄がそれを選んだのだと思えた。
ここに閉じ込められて何日になるだろう。顔を上げれば高いところに一つだけある明り取りの窓から一筋の細い光が反対側の天井近くを照らしていた。朝だ。
「おい飯だぞ」
足音が止まると木戸の下に付いた小さな窓が開けられ、その隙間からプレートが滑り込まされる。固くて歯が立たない小さなパンとあのスープが入った木の器だけが載っていたが、それが大きく揺れて石の床に溢れた。音くらいは聞こえただろうが足音は気にすることなく遠ざかってしまう。
薄暗い中、手を突いて這うように進む。その手の先が枯れ枝のように細くささくれ立っていて、もう何十年もここで暮らした老婆のようなそれだと自嘲する。
肩で息をしながら何とか固いパンを掴み、その端をスープへと沈める。多少は柔らかくなるが今日は食べられるだろうか。そんな不安と共に口元へと近づけると、歯が当たるより前に胃袋が持ち上がる。
とても食べられたものじゃない。
結局プレートは手付かずのまま木戸の前に追いやって、壁際に体を運ぶと背中をつけて脚を抱えた。
顔を上げ、窓から入る小さな光が僅かに動くのを眺める。
細くなる呼吸の中で思い出すのはいつも王子の最後の寝顔だった。毒林檎を受け取った時に一度彼女に向けた瞳には全てを理解している色が浮かんでいた。きっと彼自身そうなることを望んでいたのだ。だから自分は、彼に与えた。それを罪だとは思っていない。
けれども彼らは自分を裁いた。一度は追放をし、二度目にはこうして永遠に闇に閉じ込めておくことを選んだ。
――私はどこで間違えたのだろう。
皺だらけで痩せ衰えた自分の両の掌を見ても、そこに答えは書かれていなかった。
「――」
声だ。どこだろう。
顔を上げると彼女の目の前に大きなフード付きの外套を羽織った人物が、背を曲げて立っていた。一歩踏み出した足は木靴を履いていたが、泥で汚れ、腐った葉が張り付いている。
「何ですか?」
ずり、という耳障りな音を立てて自分に向き直ったその皺の多い顔は年老いた女のものだ。フードで覆われて目元はよく分からなかったが、その老婆は嗄れた声で「これを」と答えて懐からあるものを取り出した。
「林檎……」
薄暗い中でもそれが林檎の形をしているのが分かる。艶があり黒く見えたが、エレナの目にはそれが熟成が進んだワインのように深紅の皮で覆われているということを知っていた。
水気がなくかさついた右手を差し出すと、当然のように老婆は林檎を乗せる。ずっしりと重く、そのまま手から転がり落ちてしまいそうになり、慌てて左手も添えた。抱き締めるように自分の胸元まで引き寄せると、赤子でも撫でるようにそのつるりとした表面に触れる。
「いただいても?」
そう尋ねて顔を上げたが、そこにはもう外套の老婆の姿はない。
エレナはひと呼吸分だけ思案し、林檎に口を付けた。唾液すら出ない乾いた口が、かしゃり、と小気味よい音を立てて皮を裂く。そのまま果汁をたっぷり含んだ実に歯が立ち、小さな欠片が彼女の口に転がり込んだ。丁寧に噛み潰すと、得も言われぬ甘味が喉を滑り落ちていく。
「あぁ」
もう一口。そう思って口を開けたところで、目の前が暗くなる。彼女は二口目を食べることなく、横たわってしまう。
開かれた瞳は虚空を見ていた。そのまま閉じることなく、唇も動かない。ただ手から転がり落ちた林檎が壁までゆるゆると進み、こつり、と当たって止まる。
その音を聞いた、という感覚がエレナの目を覚まさせる。
見ればそこはどこまでも黒い葉や樹に覆われた、闇の中だ。一歩出した足には汚れた木靴を履き、ボロ布のような外套を羽織っている。
そのまま歩いていくと、やがて森を抜け、月明かりが照らす丘に懐かしい城があるのが見えた。
その手には愛しい林檎がある。
彼女はきっとあそこでこれを待っている。さあ、渡しに行こう。彼女が一番望むものを。(了)
自分が冷たい床に横たわっていることに気づき、体を起こして自分を抱き締める。露出した腕が氷のようになっていたがもうそれを温める毛布も人肌も得られないのだと思うと、人間は自分がしたことを後悔するのだろうか。
エレナにはよく分からない。
ただ一つだけここに来て良かったことは、兄様と名も知らない女との結婚が取りやめになっていたことを知れたことだ。兵士はエレナの所為だと言っていたが、彼女には兄がそれを選んだのだと思えた。
ここに閉じ込められて何日になるだろう。顔を上げれば高いところに一つだけある明り取りの窓から一筋の細い光が反対側の天井近くを照らしていた。朝だ。
「おい飯だぞ」
足音が止まると木戸の下に付いた小さな窓が開けられ、その隙間からプレートが滑り込まされる。固くて歯が立たない小さなパンとあのスープが入った木の器だけが載っていたが、それが大きく揺れて石の床に溢れた。音くらいは聞こえただろうが足音は気にすることなく遠ざかってしまう。
薄暗い中、手を突いて這うように進む。その手の先が枯れ枝のように細くささくれ立っていて、もう何十年もここで暮らした老婆のようなそれだと自嘲する。
肩で息をしながら何とか固いパンを掴み、その端をスープへと沈める。多少は柔らかくなるが今日は食べられるだろうか。そんな不安と共に口元へと近づけると、歯が当たるより前に胃袋が持ち上がる。
とても食べられたものじゃない。
結局プレートは手付かずのまま木戸の前に追いやって、壁際に体を運ぶと背中をつけて脚を抱えた。
顔を上げ、窓から入る小さな光が僅かに動くのを眺める。
細くなる呼吸の中で思い出すのはいつも王子の最後の寝顔だった。毒林檎を受け取った時に一度彼女に向けた瞳には全てを理解している色が浮かんでいた。きっと彼自身そうなることを望んでいたのだ。だから自分は、彼に与えた。それを罪だとは思っていない。
けれども彼らは自分を裁いた。一度は追放をし、二度目にはこうして永遠に闇に閉じ込めておくことを選んだ。
――私はどこで間違えたのだろう。
皺だらけで痩せ衰えた自分の両の掌を見ても、そこに答えは書かれていなかった。
「――」
声だ。どこだろう。
顔を上げると彼女の目の前に大きなフード付きの外套を羽織った人物が、背を曲げて立っていた。一歩踏み出した足は木靴を履いていたが、泥で汚れ、腐った葉が張り付いている。
「何ですか?」
ずり、という耳障りな音を立てて自分に向き直ったその皺の多い顔は年老いた女のものだ。フードで覆われて目元はよく分からなかったが、その老婆は嗄れた声で「これを」と答えて懐からあるものを取り出した。
「林檎……」
薄暗い中でもそれが林檎の形をしているのが分かる。艶があり黒く見えたが、エレナの目にはそれが熟成が進んだワインのように深紅の皮で覆われているということを知っていた。
水気がなくかさついた右手を差し出すと、当然のように老婆は林檎を乗せる。ずっしりと重く、そのまま手から転がり落ちてしまいそうになり、慌てて左手も添えた。抱き締めるように自分の胸元まで引き寄せると、赤子でも撫でるようにそのつるりとした表面に触れる。
「いただいても?」
そう尋ねて顔を上げたが、そこにはもう外套の老婆の姿はない。
エレナはひと呼吸分だけ思案し、林檎に口を付けた。唾液すら出ない乾いた口が、かしゃり、と小気味よい音を立てて皮を裂く。そのまま果汁をたっぷり含んだ実に歯が立ち、小さな欠片が彼女の口に転がり込んだ。丁寧に噛み潰すと、得も言われぬ甘味が喉を滑り落ちていく。
「あぁ」
もう一口。そう思って口を開けたところで、目の前が暗くなる。彼女は二口目を食べることなく、横たわってしまう。
開かれた瞳は虚空を見ていた。そのまま閉じることなく、唇も動かない。ただ手から転がり落ちた林檎が壁までゆるゆると進み、こつり、と当たって止まる。
その音を聞いた、という感覚がエレナの目を覚まさせる。
見ればそこはどこまでも黒い葉や樹に覆われた、闇の中だ。一歩出した足には汚れた木靴を履き、ボロ布のような外套を羽織っている。
そのまま歩いていくと、やがて森を抜け、月明かりが照らす丘に懐かしい城があるのが見えた。
その手には愛しい林檎がある。
彼女はきっとあそこでこれを待っている。さあ、渡しに行こう。彼女が一番望むものを。(了)
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