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第一章 赤い頭巾

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 暗がりでも分かるその常人離れした容姿と衣装は明らかにどこかの貴族か王族の類で、チェルはひょっとするとオオカミ卿が王族に取り入る為にどこかからお姫様でも攫わせたのかといぶかった。

「わたしは女神なんです。それがどうして、こんなことに……」

 一瞬自分の耳を疑った。次に考えたのはまともに付き合って大丈夫な人種かどうか、ということだ。

「メガミ、さん? そういうお名前なのかしら」
「いえ。女神です。わたしは物語の女神ポリム。この世界を管理する使命を持つ、唯一無二の存在」
「そう名乗ったら、捕まったんでしょ?」
「そうなのよ。どうしてなの!」

 彼女は金髪を振り乱し、チェルよりも頭二つ分ほど大きな体で彼女を押し倒すように伸し掛かり、その胸元で泣き始める。

「あ、あのさ」
「わたし女神なの。女神だからヴァーンストル侯爵に会わせてと言ったら不審者扱いされてここに打ち込まれたの! この世界の人たち、一体どういう教育受けてるのよ!」

 教育など受けたことはない。あってもそれは兵士の訓練や上官や貴族たちへの言葉遣い、最低限の文字の読み書き程度だ。

「一つ忠告しておくと、おそらくここのオオカミ卿は神なんて信じちゃいないわ」
「何ですって」
「罰当たりなことばかりしてきたっていう噂しか聞かないから、とても信心深い人物とは考えられないもの。というか、あたしも神ってものの存在は眉唾まゆつばだと思っているタチだけど」

 そのチェルの言葉に彼女は憮然ぶぜんとして、しばらく言葉を見失ってしまう。けれど徐々に心の痛みに気づいたのか、声を出さずに涙を落とすと、チェルの膝に顔を埋め、おいおいと大声で泣き始めた。

「おい! うるせぞ! 飯くらい静かに食わせろ!」

 牢番の声だ。ガツ、ガツ、と鉄格子が蹴られ、怒声が浴びせかけられる。
 それで多少音量は抑えられたものの、彼女は泣くのをなかなかやめてくれなかった。
 チェルの膝がべとべとになった頃、ようやくポリムは泣き止むと、

「そういえばまだあなたの名前聞いてなかったわね。なんて言うお名前かしら」

 自分だけ名乗っていたことに気づいたらしく、赤くなった目元を擦りながらそう言った。

「チェルよ。レイチェル・フロウって言うんだけど、みんなはチェルって呼んでいるわ」

 本当は「赤ずきん」と呼ばれているが、それは嫌いなので黙っておいた。

「そう。チェルちゃんね。あなた、ひょっとするとサウス・アースヴェルトを知ってる?」

 村としか呼んでいないけれど、正式にはそういう名前だと聞いたことはあった。

「そこの人間だけど何か?」
「じゃあ、赤ずきんちゃんて呼ばれている可愛らしい女の子がいるでしょう。ほら、真っ赤な頭巾を被ってて」
「ああ、確かにそんな子がいたような、いなかったような」

 チェルは慌てて自分の首元に触れる。頭巾はちゃんと背中側に外れていて、彼女には見えていないようだ。

「その赤ずきんがどうかしたの?」
「実はね」

 自称女神が語ったのは、こんな話だった。
 昔あるところに小さく可愛らしい女の子がいた。その子を可愛がっていた祖母は真っ赤な頭巾を作ってやり、その子に着せてやった。みんなはその娘を赤ずきんと呼んで可愛がった。ある時、赤ずきんは病気の祖母のところに葡萄酒を届けるようお使いを頼まれた。祖母の家に向かう途中、オオカミに遭遇したのだけれど、赤ずきんはオオカミが悪い獣だとは知らなかった。オオカミにいいように騙され、赤ずきんが道草をしている間に、オオカミは祖母の家に行き、祖母を喰らってしまった。続いてオオカミは頭からフードを被り、体にはカーテンを巻き付け、祖母になりきって赤ずきんを待った。純粋な赤ずきんは祖母になりきったオオカミに騙され、これまたひと呑みにされてしまう。満腹になり、つい眠ってしまったオオカミ。そこを通りかかった猟師が気づき、オオカミの腹を捌いて二人を助け出し、中には石を詰めておくと、目覚めたオオカミはお腹が重くてその場でのたれ死んでしまった。

「寄り道はいけないわ、という警告を込めた寓話なのよ」

 すっかり泣き止んだポリムは金色の毛先を弄びながらつまならさそうにそう言うと、

「でね」

 突然低い声を出し、事情を語り始めた。

「物語の世界というのはいつ誰が覗いても同じように始まり、同じように終わらないといけないものなのよ。それは水が上から下に流れるように、美しいものを目にすればトキメクように、小鳥がさえずり、春が訪れるように。物事の道理の一つといってもいいくらいに、決まっているものなの。それがね、おかしいの」
「決まっていることがおかしいの?」
「ち・が・う・わ・よ! この世界がおかしいのよ。赤ずきんはオオカミに出会わないし、お祖母ちゃんは食べられないし、かと言って猟師にオオカミが退治される訳でもない。そもそもオオカミじゃなくて、この世界で幅を利かせているのはオオカミ卿とか呼ばれているただの人間なのよ。それで赤ずきんの物語を守れると思うの?」

 細かいことはどうでもいいんじゃないか、と口にしたかったが、自称女神のあまりにもみにくく歪んだ表情に「あ、うん。そうね」と適当な相槌を返してしまう。

「だからどうしてこんなに物語が歪んでしまったのか、その調査にやってきたという訳」
「その話、あたし以外の誰かにした?」
「ううん。だって話す前にみんな頭のおかしい女がいるって言うんですもの」

 それはチェルも彼女に対して同じように扱おうとしていたし、実際こんな場所に閉じ込められでもしなかったら、早々に放置して離れていたことだろう。

「まあ、あんたが本物の女神かどうかは置いといて、とりあえずオオカミが退治されてしまえばいい訳ね?」
「多少過程が違っていても結末さえ合っていれば大丈夫だと思うけど」
「じゃあ簡単じゃない。オオカミ卿に会って、とりあえずぶち殺してしまえばいいってこと」

 そう言い放ったチェルを、自称女神は今にも泣き出しそうに顔を歪めて見つめる。

「な、何なのよ」
「無理なの」
「何が?」
「人殺し」
「いや、そりゃああたしだって嫌よ、人を殺すのなんて。でもあんたにとっては人の命よりも物語を守ることの方が大事なんでしょう? だったらその為に一人くらい犠牲にしたって仕方ないんじゃないの」

 けれど彼女は首を横にぶるんぶるん振る。

「そうじゃないの。女神はね、この世界の人間を、というか、生き物を殺せないのよ。それどころかこの世界に対して何の力も持たないの。抵抗するどころか、デコピン一つしてやれないの」
「じゃあ、試しにやってみてよ。デコピン」
「いくわよ?」

 チェルは目をつぶる。額に意識を集中させたが、何の感覚も訪れない。

「どうしたの?」

 彼女はチェルの目の前で右の中指を弾く動作をするのだが、それがチェルに当たることはなく、むしろ彼女の体が何かに引きずられたかのように後ろへと移動した。

「こういう訳なのよ」
「いや、流石にわざとでしょ?」

 今度は頬を叩いてくれと言うが、自称女神はどうしてもやりたくないと言ってきかない。

「じゃああたしも叩くから、それでお相子ってことで」

 チェルはそう言うなり、右手を素早く彼女の左頬に向けた。
 叩いた、と思った刹那せつな、チェルの体は大きな衝撃を感じて壁まで跳ね飛ばされてしまった。

「痛……な、何したのよ、全く」
「だから言ったでしょ、わたしは女神だって。まだ信じない? それとももう一度叩いてみる?」

 倒れているチェルの前までやってきた彼女はそう言いながら、自分の右側の頬を突き出した。

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