ちょっと転んだだけなのに

凪司工房

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 地元の病院に戻ったからと言って、面会出来ないことには変わりなかった。しかも携帯電話の充電器を元の病院に置き忘れてきたらしく、こちらに戻ってきてからすぐには連絡を取ることが難しかった(その後、充電器は無事にこちらに送ってもらえた)。
 
 入った時は大腿骨骨頭の手術とリハビリだったので、整形外科の方の入院病棟だったが、今度は循環器の方の入院病棟だった。その所為せいなのか、それとも度重なる状態の悪化に加えて多大なストレスがあったからか、眠れず、医療スタッフに暴言を吐いたりと、何とも酷い状態になったらしい。らしい、というのは直接話すことが出来ず、伝達で聞いたからだ。
 後から担当の看護師から聞いた話では、この当時相当落ち込んでいたらしい。おそらく軽い鬱状態にあったのだろう。しかも眠れず、慣れない環境で自宅を離れて一ヶ月になる。睡眠導入剤だけでなく抗鬱剤こううつざいも処方されていたと、後になって分かった。
 
 そんな状況だったが、歩く方のリハビリは順調にこなし、食事の方はあまり進んでいないと報告を受けた。
 この頃から我が家では父の介護の準備が始まる。予想外の事態に一体どういう準備をすればいいのか、さっぱり分からなかった。
 一応病院には相談員がいて、一般的な介護の準備のことを教わったが、それが本当に必要になるのかどうかの判断も付かなかった。
 そもそも自分で立って、手すりなどに掴まって歩けると聞いていたので、問題は食事の方だろうと考えていたのだ。
 しかし最近の感染対策で面会出来ない、ということが判断を大きく狂わせていた。見ないと分からない、ということは案外多い。電話で伝え聞く分にはそう問題でもないと感じてしまうことも多く、とりあえず介護用のベッドをレンタルし、後は実際に退院してきてから様子を見ながら考えていくことになった。
 
 待望の父の退院が決まったのは六月も末のことだった。大腿骨骨頭骨折の手術から実に約一ヶ月半、自宅を離れ、病院にいたことになる。振り返れば本当にバタバタと慌ただしく、まだよく理解出来ていない部分も多かった。
 
 病院に迎えに行くと、車椅子に乗った父がだらりともたれたまま、連れてこられた。うまく眠れていなかったらしく、まだ眠いのだ。細くなっただけでなく、小さくなった、と感じた。しかも元気がない。更に声もかすかすのままだ。何度か電話で話して少しは回復しているのかと思ったが、以前にアクリル板越しに面会した時と大差がなかった。
 看護師から薬のことと、気をつけることを聞いて、荷物を受け取り、父を車まで運ぶ。自力で立つことも難しく、何とか母と二人がかりで乗せると、半分眠ったような状態の父に気をつけながら家に向かった。
 自宅に戻るまでの三十分ほどの間、少し話しかけたりもしたがほとんど反応はなかった。途中で眠り始めたし、寝ていてもらった方が面倒もないというこちらの判断もあった。
 
 玄関前に車をつけ、さてどうやって父の居室まで行ってもらおうか、ということになる。私が背中におんぶしようかとも考えたが、大腿骨骨折の部分に余計な負担を掛けることになるといけないと思い、仕方なく、歩行器を使って歩いてもらう。
 しかしこの歩行器も、今思えば四本足のしっかりした方を最初に借りておけば良かった。
 自分で立って歩けると聞いていたので、しっかりしたものは選んだが、片手用のものだったからだ。
 それでも何とか歩行器を支えに、私が介助して、ベッドまで移動させた。
 ベッドに倒れ込むようにして横になった父は、そのまま眠ってしまった。
 それでもようやくの帰宅である。これで少し落ち着いて、後はリハビリを頑張ってもらい、徐々に元の生活に戻していけばいい。
 そう考えていたが、その考えは甘かった。

 自分で立って歩けない。
 着替えも難しい。
 そんな状態だから当然、トイレは無理だ。
 お風呂も無理。
 食事に至っては父が療法士と揉めた為、ほとんどゼロからスタートすることになった。
 水分も普通の水はまだ声帯麻痺が回復していないので、飲ませることは出来ない。

 目の前に突如、大量の「出来ない」と「無理」が積み上げられた。
 私と母は想定していたよりも遥かに重い介護状態からスタートを余儀なくされたのだった。
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