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第三章 「恋心」
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翌朝、原田は七時過ぎにマンションを出た。
喫茶ブラウンシュガーは八時開店で、できればその前にある人物に会って話をしたかったからだ。
マスク越しに朝の冷気を感じる。
それでも多くの人が駅に向かって歩いていく姿を見て、如何に自分が一般的な社会生活の枠からはみ出た暮らしをしているのかということを痛感した。そういう人たちの仕事こそ、誰かの生活を支えている。
原田は足早にブラウンシュガーを目指す。
路地を曲がって店舗が見えてきたが、まだシャッターが下りたままだ。中に誰かいるだろうか。
それでも店の前までくると中からきびきびとした女性の声が漏れ聞こえた。
「だから掃除の時にこういう部分の汚れとか、テーブルの下やソファの裏側を確認する癖をつけておいて欲しいの」
おそらく目的の彼女だ。
原田は一瞬迷ったが、シャッターを叩いた。
「あの、すみません」
マスクをずらして普段は使わない大きな声を出す。
聞こえなかったのだろうか。
もう一度叩くと、シャッターが一メートルほど上げられる。
中から髪をきっちり後ろで縛った女性が姿を見せて、原田を見た。いつも店にいる、おそらくは愛里から聞いた涌井祐介以外の社員の女性だ。名前は小田川、だったろうか。
「開店前にすみません」
「いえ。何かご用ですか?」
いつも客に対して丁寧な対応をしていると思って見ていたけれど、流石にこんな時間にわざわざシャッターを叩いて訪問するような人間に対しては、目を細めている。
「あ、ひょっとして……原田様、でしょうか」
「ええ」
自分の苗字が呼ばれたことに驚く。村瀬ナツコに何度か店内で呼ばれたことはあったが、それを覚えていたのだろうか。
「結構な頻度で来ていただいていますよね?」
「あ、はい。覚えられてしまってたんですか……恥ずかしいな、こりゃ」
頭を掻くと、彼女の表情が少し柔和になる。
「常連さんはその気がなくても覚えてしまうものです。それで、何か?」
「ああ、えっとですね。こちらに涌井祐介さんという方が勤めていると思うんですが、彼に連絡を取りたくてですね」
涌井祐介。
その名を口にした途端、彼女は表情を歪めた。
「涌井さんでしたら現在自宅謹慎中です。その後、こちらを辞めていただくことになっております。あなたは彼の関係者ですか?」
「関係者というか……沖愛里さんの方の関係者というか」
「愛里ちゃんの?」
小田川は訝しげに原田を見てから、
「新しい彼氏?」
と続けた。
原田はすぐに首を振って否定したが、
「じゃあ何なんですか」
怒ったように彼女は眉を顰める。
「……分かりません。敢えて言葉にするなら、恋愛の保護者、でしょうか」
「恋愛の保護者? で、その保護者さんが何なんです?」
「どうも彼女、涌井さんのところに戻ってしまったみたいなんですよ」
はーあぁ。
という特大の溜息を彼女はついた。
それから「信じられない」と繰り返し、シャッターを潜って中に戻ろうとする。
「お、お願いします。このままだと彼女、駄目になってしまうと思うんです」
「そんなこと分かってるわよ。けどあなた他人でしょ? だったら彼女が駄目になったところで何だっていうの? ああいう若い子には外野が何言ったところで無力でしょ?」
屈んだまま原田を見た彼女の視線はきついものだった。
「それは、分かってます。でも誰もがそういうものだと思って何も言わないまま放っておいたら、二人とも不幸になるしかないじゃないですか」
小田川はじっと原田は見たまま、言葉の続きを待ってくれた。
「確かに僕は、二人にとってただの他人かも知れない。けどもう、何の関わりもない他人じゃない。一度は二人に関わってしまったんです。それなのに見て見ぬ振りをしてもいいなんて、僕は考えたくない」
「面倒な人なんですね、原田さんって」
「よく不器用と言われます」
彼女は小さく吹き出すと、
「分かったわ」
そう言ってから「地図を書いてあげる」と、店に引っ込んで行った。
喫茶ブラウンシュガーは八時開店で、できればその前にある人物に会って話をしたかったからだ。
マスク越しに朝の冷気を感じる。
それでも多くの人が駅に向かって歩いていく姿を見て、如何に自分が一般的な社会生活の枠からはみ出た暮らしをしているのかということを痛感した。そういう人たちの仕事こそ、誰かの生活を支えている。
原田は足早にブラウンシュガーを目指す。
路地を曲がって店舗が見えてきたが、まだシャッターが下りたままだ。中に誰かいるだろうか。
それでも店の前までくると中からきびきびとした女性の声が漏れ聞こえた。
「だから掃除の時にこういう部分の汚れとか、テーブルの下やソファの裏側を確認する癖をつけておいて欲しいの」
おそらく目的の彼女だ。
原田は一瞬迷ったが、シャッターを叩いた。
「あの、すみません」
マスクをずらして普段は使わない大きな声を出す。
聞こえなかったのだろうか。
もう一度叩くと、シャッターが一メートルほど上げられる。
中から髪をきっちり後ろで縛った女性が姿を見せて、原田を見た。いつも店にいる、おそらくは愛里から聞いた涌井祐介以外の社員の女性だ。名前は小田川、だったろうか。
「開店前にすみません」
「いえ。何かご用ですか?」
いつも客に対して丁寧な対応をしていると思って見ていたけれど、流石にこんな時間にわざわざシャッターを叩いて訪問するような人間に対しては、目を細めている。
「あ、ひょっとして……原田様、でしょうか」
「ええ」
自分の苗字が呼ばれたことに驚く。村瀬ナツコに何度か店内で呼ばれたことはあったが、それを覚えていたのだろうか。
「結構な頻度で来ていただいていますよね?」
「あ、はい。覚えられてしまってたんですか……恥ずかしいな、こりゃ」
頭を掻くと、彼女の表情が少し柔和になる。
「常連さんはその気がなくても覚えてしまうものです。それで、何か?」
「ああ、えっとですね。こちらに涌井祐介さんという方が勤めていると思うんですが、彼に連絡を取りたくてですね」
涌井祐介。
その名を口にした途端、彼女は表情を歪めた。
「涌井さんでしたら現在自宅謹慎中です。その後、こちらを辞めていただくことになっております。あなたは彼の関係者ですか?」
「関係者というか……沖愛里さんの方の関係者というか」
「愛里ちゃんの?」
小田川は訝しげに原田を見てから、
「新しい彼氏?」
と続けた。
原田はすぐに首を振って否定したが、
「じゃあ何なんですか」
怒ったように彼女は眉を顰める。
「……分かりません。敢えて言葉にするなら、恋愛の保護者、でしょうか」
「恋愛の保護者? で、その保護者さんが何なんです?」
「どうも彼女、涌井さんのところに戻ってしまったみたいなんですよ」
はーあぁ。
という特大の溜息を彼女はついた。
それから「信じられない」と繰り返し、シャッターを潜って中に戻ろうとする。
「お、お願いします。このままだと彼女、駄目になってしまうと思うんです」
「そんなこと分かってるわよ。けどあなた他人でしょ? だったら彼女が駄目になったところで何だっていうの? ああいう若い子には外野が何言ったところで無力でしょ?」
屈んだまま原田を見た彼女の視線はきついものだった。
「それは、分かってます。でも誰もがそういうものだと思って何も言わないまま放っておいたら、二人とも不幸になるしかないじゃないですか」
小田川はじっと原田は見たまま、言葉の続きを待ってくれた。
「確かに僕は、二人にとってただの他人かも知れない。けどもう、何の関わりもない他人じゃない。一度は二人に関わってしまったんです。それなのに見て見ぬ振りをしてもいいなんて、僕は考えたくない」
「面倒な人なんですね、原田さんって」
「よく不器用と言われます」
彼女は小さく吹き出すと、
「分かったわ」
そう言ってから「地図を書いてあげる」と、店に引っ込んで行った。
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