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第三章 「恋心」
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涌井君には悪い意味で世話になってるから、宜しく言っておいて。
小田川美保からそう言付かって渡された地図を手に、原田は涌井祐介のアパートに向かった。場所は小金井の方だった。
古い住宅街で、同じような木造の二階建てが立ち並ぶ路地だ。駅から二十分ほど掛かった。
駅前は通勤時間帯で人混みが酷かったが、ここまで来ると流石に閑散としている。
「あ……」
アパートの名前を探そうときょろきょろとしていた視線の先に、沖愛里が立っていた。手にゴミ袋を持ち、向こうも原田に気づいたようだ。
「センセ……」
「何してるんだよ、全く」
「……ゴミ出し」
電柱の傍のゴミ置き場に二つの袋を追加して、愛里は十メートルほど先のアパートに戻る。
「どうしたの? センセ、来ないの?」
「だって彼がいるんだろう?」
「さっき出掛けたとこ」
それなら、とやや安堵して、愛里についていく。
涌井祐介のアパートは大学時代を思い起こす1DKだった。
部屋の隅に折りたたまれた布団が生活感を強烈に臭わせたが、愛里は気にせずに、
「センセはコーヒーが良いよね?」
と小さなテーブルを出して、そこに座布団を置く。
「なあ、愛里さん。ちょっと妙だと思わない?」
「何が?」
「僕はさ、怒りたくはないんだよ」
愛里はキッチンに行こうとした姿勢で、固まっている。
「だって」
「だってじゃない。どうしてここに戻ったんだ」
「祐介がさ、アタシのこと、やっぱ必要だって言うから……」
「君は必要だと男から言われたら、前にどんな酷い言葉で傷つけられたとしても戻るのか? なんだよそれ。そんな都合の良い女、どうしようもない男たちからすればただの聖女だよ」
「それって褒めてくれてるの!?」
嬉しそうに胸の前で手を合わせた愛里を、原田は睨んだ。
「君にだってさ分かるだろ? もう涌井祐介には沖愛里に対する愛情なんてこれっぽっちも残ってない。ちょっと甘い言葉を囁やけば、嘘でもいいから君が必要だって言えば、いつでも戻ってきてくれる。ご飯を作り、部屋を片付け、洗濯をして、ゴミ出しまでしてくれる。おまけに……好きな時に抱ける。そんな都合の良い女でしかないんだってさ」
自分の口から吐き出した言葉なのに、原田は嫌悪感で胸焼けしそうだった。
「今回君が戻ったことで、彼はその思いをより強くしたはずだ。ああこいつはちょろい。泣いて謝ればすぐ許してくれるんだって」
愛里の大きな瞳には、涙が溜まっていた。
「沖愛里。君は彼に今回のことで自分がどんなに傷ついたのか、傷つけられたのか、ちゃんと伝えたのか? ちゃんと彼から謝ってもらったのか? 体だけの女だ、最初からすぐ捨てるつもりだったって、そう言われたんだろ?」
「……だって」
鼻水を啜ながら、愛里は言葉を一つ一つ絞り出す。
「センセはアタシのこと、ちっとも必要だって言ってくれないじゃない。恋愛を教えてくれるって言ったのに、祐介と別れさせただけでそれ以降はデートの一つもしてくれない。作ったご飯だって美味しいの一言もなくて……ねえ気づいた? 汚れたコーヒーメーカーを綺麗にしたり、シャツにアイロン当てたり、下着や靴下を取り出しやすいように収納しておいたり。熊のスリッパだってセンセがいつも寒そうに歩いてたから買ってきてもらったんだよ? なのに……何も言ってくれない」
誰かと一緒に暮らす。
それは恋愛とか同棲とか、そんなことではなく、ただ同じ家で自分以外の人間が暮らしているということ。原田はそういったことから、あまりにも離れすぎていた。沖愛里はただ言って欲しかったのだ。
美味しい。
ありがとう。
温かいよ。
そんなちょっとした言葉をずっと待っていた。
けれどそれを与えてくれたのは原田ではなく、涌井祐介だったのだ。
そんなものは決して愛ではないけれど、でも誰かと暮らす上では必要なコミュニケーションなのだ。
少なくとも原田はその点で、涌井祐介に完敗だった。
「……悪かったよ」
原田は立ち上がる。
やはり自分が誰かに恋愛を教えるなど無理だったのだ。
玄関に向かう。
「センセ!」
「何だよ」
振り返ると、愛里は原田の前に来て、腕を首筋に回して抱きついた。
「おい、何をするんだ」
「なんで何も言わずに帰るんだよ! そういうとこなんだよ。アタシ、センセが来てくれただけでこんなに嬉しいんだよ?」
石鹸の体臭だった。
心拍数が上がる。
やばい。その兆候を感じて、原田は目を閉じた。
彼女の腕を押しのけようとするが、
「アタシだって分かってる。でもね、目の前で泣かれたら帰ることができなかった。結局そのままずるずると居着いちゃって……アタシって、ほんと馬鹿」
「馬鹿はいいから、離れて、くれ……」
呼吸が苦しくなる。
「あ、ごめん!」
やっと気づいた愛里はすぐに腕を剥がすが、原田の体は崩れて両手を突いて四つん這いになった。肩で大きく息をしながら、何とか意識を持ちこたえさせる。
「分かってるんだったら」
「センセ?」
「愛里。分かってるなら、帰ってこい」
え。
見上げた彼女の口が、小さく開いたまま固まっていた。
「沖愛里。僕のところに帰ってこいよ」
少しだけ格好を付けたつもりだった。
けれど呼吸も荒く、彼女に見下されているような状況ではそんな見栄えの良いものじゃなかっただろう。
それでも沖愛里は笑顔になると、
「しょうがないなぁ……分かったよ、センセ。戻ってあげる」
そう答えて、溜め込んでいた涙を一気に頬まで落とした。
小田川美保からそう言付かって渡された地図を手に、原田は涌井祐介のアパートに向かった。場所は小金井の方だった。
古い住宅街で、同じような木造の二階建てが立ち並ぶ路地だ。駅から二十分ほど掛かった。
駅前は通勤時間帯で人混みが酷かったが、ここまで来ると流石に閑散としている。
「あ……」
アパートの名前を探そうときょろきょろとしていた視線の先に、沖愛里が立っていた。手にゴミ袋を持ち、向こうも原田に気づいたようだ。
「センセ……」
「何してるんだよ、全く」
「……ゴミ出し」
電柱の傍のゴミ置き場に二つの袋を追加して、愛里は十メートルほど先のアパートに戻る。
「どうしたの? センセ、来ないの?」
「だって彼がいるんだろう?」
「さっき出掛けたとこ」
それなら、とやや安堵して、愛里についていく。
涌井祐介のアパートは大学時代を思い起こす1DKだった。
部屋の隅に折りたたまれた布団が生活感を強烈に臭わせたが、愛里は気にせずに、
「センセはコーヒーが良いよね?」
と小さなテーブルを出して、そこに座布団を置く。
「なあ、愛里さん。ちょっと妙だと思わない?」
「何が?」
「僕はさ、怒りたくはないんだよ」
愛里はキッチンに行こうとした姿勢で、固まっている。
「だって」
「だってじゃない。どうしてここに戻ったんだ」
「祐介がさ、アタシのこと、やっぱ必要だって言うから……」
「君は必要だと男から言われたら、前にどんな酷い言葉で傷つけられたとしても戻るのか? なんだよそれ。そんな都合の良い女、どうしようもない男たちからすればただの聖女だよ」
「それって褒めてくれてるの!?」
嬉しそうに胸の前で手を合わせた愛里を、原田は睨んだ。
「君にだってさ分かるだろ? もう涌井祐介には沖愛里に対する愛情なんてこれっぽっちも残ってない。ちょっと甘い言葉を囁やけば、嘘でもいいから君が必要だって言えば、いつでも戻ってきてくれる。ご飯を作り、部屋を片付け、洗濯をして、ゴミ出しまでしてくれる。おまけに……好きな時に抱ける。そんな都合の良い女でしかないんだってさ」
自分の口から吐き出した言葉なのに、原田は嫌悪感で胸焼けしそうだった。
「今回君が戻ったことで、彼はその思いをより強くしたはずだ。ああこいつはちょろい。泣いて謝ればすぐ許してくれるんだって」
愛里の大きな瞳には、涙が溜まっていた。
「沖愛里。君は彼に今回のことで自分がどんなに傷ついたのか、傷つけられたのか、ちゃんと伝えたのか? ちゃんと彼から謝ってもらったのか? 体だけの女だ、最初からすぐ捨てるつもりだったって、そう言われたんだろ?」
「……だって」
鼻水を啜ながら、愛里は言葉を一つ一つ絞り出す。
「センセはアタシのこと、ちっとも必要だって言ってくれないじゃない。恋愛を教えてくれるって言ったのに、祐介と別れさせただけでそれ以降はデートの一つもしてくれない。作ったご飯だって美味しいの一言もなくて……ねえ気づいた? 汚れたコーヒーメーカーを綺麗にしたり、シャツにアイロン当てたり、下着や靴下を取り出しやすいように収納しておいたり。熊のスリッパだってセンセがいつも寒そうに歩いてたから買ってきてもらったんだよ? なのに……何も言ってくれない」
誰かと一緒に暮らす。
それは恋愛とか同棲とか、そんなことではなく、ただ同じ家で自分以外の人間が暮らしているということ。原田はそういったことから、あまりにも離れすぎていた。沖愛里はただ言って欲しかったのだ。
美味しい。
ありがとう。
温かいよ。
そんなちょっとした言葉をずっと待っていた。
けれどそれを与えてくれたのは原田ではなく、涌井祐介だったのだ。
そんなものは決して愛ではないけれど、でも誰かと暮らす上では必要なコミュニケーションなのだ。
少なくとも原田はその点で、涌井祐介に完敗だった。
「……悪かったよ」
原田は立ち上がる。
やはり自分が誰かに恋愛を教えるなど無理だったのだ。
玄関に向かう。
「センセ!」
「何だよ」
振り返ると、愛里は原田の前に来て、腕を首筋に回して抱きついた。
「おい、何をするんだ」
「なんで何も言わずに帰るんだよ! そういうとこなんだよ。アタシ、センセが来てくれただけでこんなに嬉しいんだよ?」
石鹸の体臭だった。
心拍数が上がる。
やばい。その兆候を感じて、原田は目を閉じた。
彼女の腕を押しのけようとするが、
「アタシだって分かってる。でもね、目の前で泣かれたら帰ることができなかった。結局そのままずるずると居着いちゃって……アタシって、ほんと馬鹿」
「馬鹿はいいから、離れて、くれ……」
呼吸が苦しくなる。
「あ、ごめん!」
やっと気づいた愛里はすぐに腕を剥がすが、原田の体は崩れて両手を突いて四つん這いになった。肩で大きく息をしながら、何とか意識を持ちこたえさせる。
「分かってるんだったら」
「センセ?」
「愛里。分かってるなら、帰ってこい」
え。
見上げた彼女の口が、小さく開いたまま固まっていた。
「沖愛里。僕のところに帰ってこいよ」
少しだけ格好を付けたつもりだった。
けれど呼吸も荒く、彼女に見下されているような状況ではそんな見栄えの良いものじゃなかっただろう。
それでも沖愛里は笑顔になると、
「しょうがないなぁ……分かったよ、センセ。戻ってあげる」
そう答えて、溜め込んでいた涙を一気に頬まで落とした。
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