26 / 88
第三章 「恋心」
10
しおりを挟む
涌井君には悪い意味で世話になってるから、宜しく言っておいて。
小田川美保からそう言付かって渡された地図を手に、原田は涌井祐介のアパートに向かった。場所は小金井の方だった。
古い住宅街で、同じような木造の二階建てが立ち並ぶ路地だ。駅から二十分ほど掛かった。
駅前は通勤時間帯で人混みが酷かったが、ここまで来ると流石に閑散としている。
「あ……」
アパートの名前を探そうときょろきょろとしていた視線の先に、沖愛里が立っていた。手にゴミ袋を持ち、向こうも原田に気づいたようだ。
「センセ……」
「何してるんだよ、全く」
「……ゴミ出し」
電柱の傍のゴミ置き場に二つの袋を追加して、愛里は十メートルほど先のアパートに戻る。
「どうしたの? センセ、来ないの?」
「だって彼がいるんだろう?」
「さっき出掛けたとこ」
それなら、とやや安堵して、愛里についていく。
涌井祐介のアパートは大学時代を思い起こす1DKだった。
部屋の隅に折りたたまれた布団が生活感を強烈に臭わせたが、愛里は気にせずに、
「センセはコーヒーが良いよね?」
と小さなテーブルを出して、そこに座布団を置く。
「なあ、愛里さん。ちょっと妙だと思わない?」
「何が?」
「僕はさ、怒りたくはないんだよ」
愛里はキッチンに行こうとした姿勢で、固まっている。
「だって」
「だってじゃない。どうしてここに戻ったんだ」
「祐介がさ、アタシのこと、やっぱ必要だって言うから……」
「君は必要だと男から言われたら、前にどんな酷い言葉で傷つけられたとしても戻るのか? なんだよそれ。そんな都合の良い女、どうしようもない男たちからすればただの聖女だよ」
「それって褒めてくれてるの!?」
嬉しそうに胸の前で手を合わせた愛里を、原田は睨んだ。
「君にだってさ分かるだろ? もう涌井祐介には沖愛里に対する愛情なんてこれっぽっちも残ってない。ちょっと甘い言葉を囁やけば、嘘でもいいから君が必要だって言えば、いつでも戻ってきてくれる。ご飯を作り、部屋を片付け、洗濯をして、ゴミ出しまでしてくれる。おまけに……好きな時に抱ける。そんな都合の良い女でしかないんだってさ」
自分の口から吐き出した言葉なのに、原田は嫌悪感で胸焼けしそうだった。
「今回君が戻ったことで、彼はその思いをより強くしたはずだ。ああこいつはちょろい。泣いて謝ればすぐ許してくれるんだって」
愛里の大きな瞳には、涙が溜まっていた。
「沖愛里。君は彼に今回のことで自分がどんなに傷ついたのか、傷つけられたのか、ちゃんと伝えたのか? ちゃんと彼から謝ってもらったのか? 体だけの女だ、最初からすぐ捨てるつもりだったって、そう言われたんだろ?」
「……だって」
鼻水を啜ながら、愛里は言葉を一つ一つ絞り出す。
「センセはアタシのこと、ちっとも必要だって言ってくれないじゃない。恋愛を教えてくれるって言ったのに、祐介と別れさせただけでそれ以降はデートの一つもしてくれない。作ったご飯だって美味しいの一言もなくて……ねえ気づいた? 汚れたコーヒーメーカーを綺麗にしたり、シャツにアイロン当てたり、下着や靴下を取り出しやすいように収納しておいたり。熊のスリッパだってセンセがいつも寒そうに歩いてたから買ってきてもらったんだよ? なのに……何も言ってくれない」
誰かと一緒に暮らす。
それは恋愛とか同棲とか、そんなことではなく、ただ同じ家で自分以外の人間が暮らしているということ。原田はそういったことから、あまりにも離れすぎていた。沖愛里はただ言って欲しかったのだ。
美味しい。
ありがとう。
温かいよ。
そんなちょっとした言葉をずっと待っていた。
けれどそれを与えてくれたのは原田ではなく、涌井祐介だったのだ。
そんなものは決して愛ではないけれど、でも誰かと暮らす上では必要なコミュニケーションなのだ。
少なくとも原田はその点で、涌井祐介に完敗だった。
「……悪かったよ」
原田は立ち上がる。
やはり自分が誰かに恋愛を教えるなど無理だったのだ。
玄関に向かう。
「センセ!」
「何だよ」
振り返ると、愛里は原田の前に来て、腕を首筋に回して抱きついた。
「おい、何をするんだ」
「なんで何も言わずに帰るんだよ! そういうとこなんだよ。アタシ、センセが来てくれただけでこんなに嬉しいんだよ?」
石鹸の体臭だった。
心拍数が上がる。
やばい。その兆候を感じて、原田は目を閉じた。
彼女の腕を押しのけようとするが、
「アタシだって分かってる。でもね、目の前で泣かれたら帰ることができなかった。結局そのままずるずると居着いちゃって……アタシって、ほんと馬鹿」
「馬鹿はいいから、離れて、くれ……」
呼吸が苦しくなる。
「あ、ごめん!」
やっと気づいた愛里はすぐに腕を剥がすが、原田の体は崩れて両手を突いて四つん這いになった。肩で大きく息をしながら、何とか意識を持ちこたえさせる。
「分かってるんだったら」
「センセ?」
「愛里。分かってるなら、帰ってこい」
え。
見上げた彼女の口が、小さく開いたまま固まっていた。
「沖愛里。僕のところに帰ってこいよ」
少しだけ格好を付けたつもりだった。
けれど呼吸も荒く、彼女に見下されているような状況ではそんな見栄えの良いものじゃなかっただろう。
それでも沖愛里は笑顔になると、
「しょうがないなぁ……分かったよ、センセ。戻ってあげる」
そう答えて、溜め込んでいた涙を一気に頬まで落とした。
小田川美保からそう言付かって渡された地図を手に、原田は涌井祐介のアパートに向かった。場所は小金井の方だった。
古い住宅街で、同じような木造の二階建てが立ち並ぶ路地だ。駅から二十分ほど掛かった。
駅前は通勤時間帯で人混みが酷かったが、ここまで来ると流石に閑散としている。
「あ……」
アパートの名前を探そうときょろきょろとしていた視線の先に、沖愛里が立っていた。手にゴミ袋を持ち、向こうも原田に気づいたようだ。
「センセ……」
「何してるんだよ、全く」
「……ゴミ出し」
電柱の傍のゴミ置き場に二つの袋を追加して、愛里は十メートルほど先のアパートに戻る。
「どうしたの? センセ、来ないの?」
「だって彼がいるんだろう?」
「さっき出掛けたとこ」
それなら、とやや安堵して、愛里についていく。
涌井祐介のアパートは大学時代を思い起こす1DKだった。
部屋の隅に折りたたまれた布団が生活感を強烈に臭わせたが、愛里は気にせずに、
「センセはコーヒーが良いよね?」
と小さなテーブルを出して、そこに座布団を置く。
「なあ、愛里さん。ちょっと妙だと思わない?」
「何が?」
「僕はさ、怒りたくはないんだよ」
愛里はキッチンに行こうとした姿勢で、固まっている。
「だって」
「だってじゃない。どうしてここに戻ったんだ」
「祐介がさ、アタシのこと、やっぱ必要だって言うから……」
「君は必要だと男から言われたら、前にどんな酷い言葉で傷つけられたとしても戻るのか? なんだよそれ。そんな都合の良い女、どうしようもない男たちからすればただの聖女だよ」
「それって褒めてくれてるの!?」
嬉しそうに胸の前で手を合わせた愛里を、原田は睨んだ。
「君にだってさ分かるだろ? もう涌井祐介には沖愛里に対する愛情なんてこれっぽっちも残ってない。ちょっと甘い言葉を囁やけば、嘘でもいいから君が必要だって言えば、いつでも戻ってきてくれる。ご飯を作り、部屋を片付け、洗濯をして、ゴミ出しまでしてくれる。おまけに……好きな時に抱ける。そんな都合の良い女でしかないんだってさ」
自分の口から吐き出した言葉なのに、原田は嫌悪感で胸焼けしそうだった。
「今回君が戻ったことで、彼はその思いをより強くしたはずだ。ああこいつはちょろい。泣いて謝ればすぐ許してくれるんだって」
愛里の大きな瞳には、涙が溜まっていた。
「沖愛里。君は彼に今回のことで自分がどんなに傷ついたのか、傷つけられたのか、ちゃんと伝えたのか? ちゃんと彼から謝ってもらったのか? 体だけの女だ、最初からすぐ捨てるつもりだったって、そう言われたんだろ?」
「……だって」
鼻水を啜ながら、愛里は言葉を一つ一つ絞り出す。
「センセはアタシのこと、ちっとも必要だって言ってくれないじゃない。恋愛を教えてくれるって言ったのに、祐介と別れさせただけでそれ以降はデートの一つもしてくれない。作ったご飯だって美味しいの一言もなくて……ねえ気づいた? 汚れたコーヒーメーカーを綺麗にしたり、シャツにアイロン当てたり、下着や靴下を取り出しやすいように収納しておいたり。熊のスリッパだってセンセがいつも寒そうに歩いてたから買ってきてもらったんだよ? なのに……何も言ってくれない」
誰かと一緒に暮らす。
それは恋愛とか同棲とか、そんなことではなく、ただ同じ家で自分以外の人間が暮らしているということ。原田はそういったことから、あまりにも離れすぎていた。沖愛里はただ言って欲しかったのだ。
美味しい。
ありがとう。
温かいよ。
そんなちょっとした言葉をずっと待っていた。
けれどそれを与えてくれたのは原田ではなく、涌井祐介だったのだ。
そんなものは決して愛ではないけれど、でも誰かと暮らす上では必要なコミュニケーションなのだ。
少なくとも原田はその点で、涌井祐介に完敗だった。
「……悪かったよ」
原田は立ち上がる。
やはり自分が誰かに恋愛を教えるなど無理だったのだ。
玄関に向かう。
「センセ!」
「何だよ」
振り返ると、愛里は原田の前に来て、腕を首筋に回して抱きついた。
「おい、何をするんだ」
「なんで何も言わずに帰るんだよ! そういうとこなんだよ。アタシ、センセが来てくれただけでこんなに嬉しいんだよ?」
石鹸の体臭だった。
心拍数が上がる。
やばい。その兆候を感じて、原田は目を閉じた。
彼女の腕を押しのけようとするが、
「アタシだって分かってる。でもね、目の前で泣かれたら帰ることができなかった。結局そのままずるずると居着いちゃって……アタシって、ほんと馬鹿」
「馬鹿はいいから、離れて、くれ……」
呼吸が苦しくなる。
「あ、ごめん!」
やっと気づいた愛里はすぐに腕を剥がすが、原田の体は崩れて両手を突いて四つん這いになった。肩で大きく息をしながら、何とか意識を持ちこたえさせる。
「分かってるんだったら」
「センセ?」
「愛里。分かってるなら、帰ってこい」
え。
見上げた彼女の口が、小さく開いたまま固まっていた。
「沖愛里。僕のところに帰ってこいよ」
少しだけ格好を付けたつもりだった。
けれど呼吸も荒く、彼女に見下されているような状況ではそんな見栄えの良いものじゃなかっただろう。
それでも沖愛里は笑顔になると、
「しょうがないなぁ……分かったよ、センセ。戻ってあげる」
そう答えて、溜め込んでいた涙を一気に頬まで落とした。
0
あなたにおすすめの小説
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇
☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
紙の上の空
中谷ととこ
ライト文芸
小学六年生の夏、父が突然、兄を連れてきた。
容姿に恵まれて才色兼備、誰もが憧れてしまう女性でありながら、裏表のない竹を割ったような性格の八重嶋碧(31)は、幼い頃からどこにいても注目され、男女問わず人気がある。
欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。
血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。
公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる