33 / 88
第四章 「恋するフォーチュンクッキー」
7
しおりを挟む
美樹は文芸部に顔を出してから帰るというので、先に愛里と原田の二人で外に出た。
原田は愛里が語った姉の話、あるいは母親の告白が少し衝撃的だったのか、ずっと黙り込んでいる。
「ねえ」
反応がない。
空は綺麗に夕焼けに染まっていて、このまま時間が止まってくれたらな、なんて愛里は思った。いつもこの時間帯のある意味物悲しい空の情景が、愛里は好きだった。
「センセ。そんなにショックだった?」
「そういう訳じゃないよ。ただ、愛里君がお姉さんにコンプレックスを持っていることはよく分かった」
「それってシスコンだってこと?」
そう言い返した愛里に、原田は小さく吹き出す。
「それが姉を溺愛している、という意味なら違うし、どうしようもなく姉のことが気になってしまうという意味でなら合っているよ」
「溺愛はしてないよ」
ただ担当看護師の三井からは「姉思いの良い妹」と思われているけれど。
「まあ、当事者じゃないとその家庭環境が良かったのか悪かったのかなんて言えないけれど」
そこで一度愛里を見ると、原田は後頭部を掻き毟ってから続ける。
「幼少期の環境というのは確実に人格形成に影響はあるからね。僕だって……ああ。こんな話は止めよう。それより晩御飯はどうする?」
「何よ、センセ。ひょっとしてセンセん家も複雑な家庭ってやつだったの?」
「僕のことはいいよ。よくある話だし」
いいよ。と言われた時に、本当はもう一歩踏み込みたい、と思う。けれどそれをする勇気は、今の愛里にはなかった。
「じゃあ、センセは何か食べたいものある? アタシが作ってあげるよ」
「愛里君の手料理が美味しいのは知ってるよ。あ、そうか。母親があまりいなかったから……」
原田は一人で「そうなのか」と言いながら納得しているが、愛里には何のことか分からなかった。
「ねえセンセ。アタシのこと好きなのは料理だけなの?」
「そんなことないよ。部屋の掃除に、洗濯物の畳み方、それに普段は薄化粧だってこともポイントは高い」
今日の愛里は厚化粧だった。
「センセってさ、ときどきイジワルだよね」
「え? 何か妙なこと言ったかな」
とぼけているのか本気なのか分からないが、特に気にする様子はなく原田は愛里の一歩先を歩いていく。
横断歩道だった。
彼が立ち止まった隣に、愛里は立つ。
その右手が空いているのが視界に入り、思わず手を伸ばそうとして、でも握れなかった。
「ねえ、センセ」
「何だい?」
「恋愛教室の次のステップ、覚えてる?」
ちらりと横目で見ると、軽く腕組みをして空を見上げている。
「ときめく男性に出会っても、簡単に手に触れたりしない……アタシ、守れてるかな。今」
「それは僕には分からないよ。だって愛里君がときめく男性に出会ってるか、僕は知らないしね。それとも誰かいるの? あ、もちろん僕は除外しておいてよ。冗談でも教える人間に抱く恋心なんて単なる幻想でしかないから」
また姉が口にしそうなことを言う。
そういうところが、時々腹が立つ。
ひょっとするとこれがコンプレックスというものだろうか。
「いる、よ」
信号が変わり、先に歩き出した原田が振り返る。
「え? 何か言った?」
愛里はその後を追いかけて、彼の手を掴んだ。
「いるよ」
「愛里君。何するんだ……」
「センセがいつまで経ってもアタシから逃げるからだよ! ほんとは分かってるんでしょ?」
その手を振り解いて、原田は首を振る。
愛里はその原田を睨みつけた。
「なんでよ!」
「僕は」
横断歩道を渡りながら、原田は続けた。
「恋愛相手を紹介した覚えはない」
愛里はその言葉に、思い切り駆け出した。
原田より先に渡り切ってしまい、それから振り返る。
「センセは逃げてるだけだよ。アタシの気持ちからも、自分の症状からも」
「当人じゃない君に、一体何が分かるっていうんだ。そもそも愛里君は、僕が好きなんじゃない。近くに見つけた優しそうな男が好きなだけだ」
「アタシじゃないのに、勝手にアタシの気持ち知った風なこと言わないでよ!」
悔しかった。
だって、たぶんその通りだから。
でもだからと言って、言われるがままなのは我慢ならなかった。
「アタシがセンセを治してあげる。アタシなら……センセと同棲してても大丈夫だったアタシなら、センセの女性アレルギィを治せるよ。ね。だから、アタシと恋人になって下さい」
原田は横断歩道を渡り終えると、手を差し出した愛里の脇をそのまま通り抜けて、マンションへと続く路地に入っていく。
何でよ。
「何で、何も言ってくれないのよ……」
原田は愛里が語った姉の話、あるいは母親の告白が少し衝撃的だったのか、ずっと黙り込んでいる。
「ねえ」
反応がない。
空は綺麗に夕焼けに染まっていて、このまま時間が止まってくれたらな、なんて愛里は思った。いつもこの時間帯のある意味物悲しい空の情景が、愛里は好きだった。
「センセ。そんなにショックだった?」
「そういう訳じゃないよ。ただ、愛里君がお姉さんにコンプレックスを持っていることはよく分かった」
「それってシスコンだってこと?」
そう言い返した愛里に、原田は小さく吹き出す。
「それが姉を溺愛している、という意味なら違うし、どうしようもなく姉のことが気になってしまうという意味でなら合っているよ」
「溺愛はしてないよ」
ただ担当看護師の三井からは「姉思いの良い妹」と思われているけれど。
「まあ、当事者じゃないとその家庭環境が良かったのか悪かったのかなんて言えないけれど」
そこで一度愛里を見ると、原田は後頭部を掻き毟ってから続ける。
「幼少期の環境というのは確実に人格形成に影響はあるからね。僕だって……ああ。こんな話は止めよう。それより晩御飯はどうする?」
「何よ、センセ。ひょっとしてセンセん家も複雑な家庭ってやつだったの?」
「僕のことはいいよ。よくある話だし」
いいよ。と言われた時に、本当はもう一歩踏み込みたい、と思う。けれどそれをする勇気は、今の愛里にはなかった。
「じゃあ、センセは何か食べたいものある? アタシが作ってあげるよ」
「愛里君の手料理が美味しいのは知ってるよ。あ、そうか。母親があまりいなかったから……」
原田は一人で「そうなのか」と言いながら納得しているが、愛里には何のことか分からなかった。
「ねえセンセ。アタシのこと好きなのは料理だけなの?」
「そんなことないよ。部屋の掃除に、洗濯物の畳み方、それに普段は薄化粧だってこともポイントは高い」
今日の愛里は厚化粧だった。
「センセってさ、ときどきイジワルだよね」
「え? 何か妙なこと言ったかな」
とぼけているのか本気なのか分からないが、特に気にする様子はなく原田は愛里の一歩先を歩いていく。
横断歩道だった。
彼が立ち止まった隣に、愛里は立つ。
その右手が空いているのが視界に入り、思わず手を伸ばそうとして、でも握れなかった。
「ねえ、センセ」
「何だい?」
「恋愛教室の次のステップ、覚えてる?」
ちらりと横目で見ると、軽く腕組みをして空を見上げている。
「ときめく男性に出会っても、簡単に手に触れたりしない……アタシ、守れてるかな。今」
「それは僕には分からないよ。だって愛里君がときめく男性に出会ってるか、僕は知らないしね。それとも誰かいるの? あ、もちろん僕は除外しておいてよ。冗談でも教える人間に抱く恋心なんて単なる幻想でしかないから」
また姉が口にしそうなことを言う。
そういうところが、時々腹が立つ。
ひょっとするとこれがコンプレックスというものだろうか。
「いる、よ」
信号が変わり、先に歩き出した原田が振り返る。
「え? 何か言った?」
愛里はその後を追いかけて、彼の手を掴んだ。
「いるよ」
「愛里君。何するんだ……」
「センセがいつまで経ってもアタシから逃げるからだよ! ほんとは分かってるんでしょ?」
その手を振り解いて、原田は首を振る。
愛里はその原田を睨みつけた。
「なんでよ!」
「僕は」
横断歩道を渡りながら、原田は続けた。
「恋愛相手を紹介した覚えはない」
愛里はその言葉に、思い切り駆け出した。
原田より先に渡り切ってしまい、それから振り返る。
「センセは逃げてるだけだよ。アタシの気持ちからも、自分の症状からも」
「当人じゃない君に、一体何が分かるっていうんだ。そもそも愛里君は、僕が好きなんじゃない。近くに見つけた優しそうな男が好きなだけだ」
「アタシじゃないのに、勝手にアタシの気持ち知った風なこと言わないでよ!」
悔しかった。
だって、たぶんその通りだから。
でもだからと言って、言われるがままなのは我慢ならなかった。
「アタシがセンセを治してあげる。アタシなら……センセと同棲してても大丈夫だったアタシなら、センセの女性アレルギィを治せるよ。ね。だから、アタシと恋人になって下さい」
原田は横断歩道を渡り終えると、手を差し出した愛里の脇をそのまま通り抜けて、マンションへと続く路地に入っていく。
何でよ。
「何で、何も言ってくれないのよ……」
0
あなたにおすすめの小説
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇
☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
紙の上の空
中谷ととこ
ライト文芸
小学六年生の夏、父が突然、兄を連れてきた。
容姿に恵まれて才色兼備、誰もが憧れてしまう女性でありながら、裏表のない竹を割ったような性格の八重嶋碧(31)は、幼い頃からどこにいても注目され、男女問わず人気がある。
欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。
血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。
公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる