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第五章 「シーソーゲーム」
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サービス付高級住宅ムーンシティ八王子は一見すると五階建てのマンションのように見える。
けれど実情は高齢者向けの有料ホームだ。
受付で記名を済ませると、担当職員の中西妙子が立派な大根のような腕を見せて原田たちを出迎えた。
「もう少し痩せなきゃ描かんと言われましてね。こっちはセクハラだ訴えてやるって言い返すんですけど、お前にセクシィはないからそれならパワハラだって笑われるんです」
面白い話のつもりだろう。
愛嬌ある丸顔に眼鏡が乗っている。マスクをしているから表情はあまりよく分からないが、明るくて大きな声の彼女は、入所者たちの評判も悪くないと聞いている。
「このお時間でしたら、カフェテラスにいらっしゃると思いますよ」
「そうですか。ちょっと顔出して、すぐ帰りますから」
叔父はそう言ったし、原田も同じ気持ちだったが、
「せっかく来られたんだし、ゆっくり話していってあげて下さいよ。最近はよく昔話をされるようになって、やっとここに馴染んでこられたのかなって思ってるんです」
入所したのは六十の時からで、原田の母が亡くなったその年の十二月だった。もう丸二年が過ぎてしまったのか。
未だに父から何の謝罪の言葉も聞いていないことを思い出し、マスクを付けた口の中に言いようのない苦味が広がった。
エレベータで三階に上がる。
中西は女性職員と楽しげに話している父を指差し、自分はさっさと一階に戻ってしまった。
「ちょっとお手洗いに行ってくるから、貴明君、先に顔出しててくれ」
何だかもぞもぞしていると思ったら、小便が近かったらしい。
小走りに行ってしまった叔父を見送り、原田は一人、賑やかな笑い声を上げる原田貴生の席へと向かう。
「なんだ」
その原田の姿を見つけるなり、皺の多い浅黒い肌の男の表情が歪んだ。眼光は相変わらず鬼の面のそれのように鋭いものの、丸首のセーターから覗く首筋は随分と痩せ衰えていた。
「来てやったんだよ」
「女の一人も準備できんお前に、用はない」
さっさと帰れ。
そんな言葉が続くように聞こえた。
「叔父さんも来てるよ」
「佳寿もか。また金の無心だろ? あいつの文具屋さっさと畳めって言ってんのによ、まだ爺さんの代から続いてるからとか何とか言いやがって」
机の上には隣に座らせた派手な服の女性だろうか。胸元をはだけて二つの乳房がだらりと垂れ下がらせた扇情的な女性の絵が、墨だけで描かれていた。
「これの値段わかるか? たった十万ぽっちだと。全く。どいつもこいつも俺の芸術が理解できん奴ばかりでね」
もう新しく売れるような絵は何年も描けていない。
だが本人は未だに高額取引されるトップクラスの裸婦画家だと思っていた。
「じゃあ貴生ちゃん。お時間だからウチ行くね」
「そうなの? マオちゃん今度はオールヌードだよ? 約束だからね」
「わかってるって。ほんと、貴生ちゃんて好きなんだから」
無精髭が生えた頬に抵抗なくキスをすると、ヒールを鳴らして彼女は行ってしまった。デリバリィな女性だろうか。愛里以上の厚化粧ぶりに加えて、彼女が立ち去ってもまだ強い香水の匂いが残っていた。
「貴明。お前、今作家やってんだって? それ、儲かんのかよ」
「別に。食ってくには困らない程度だよ」
結城貴司としての収入は年々増加の一途を辿っていたが、新しい本を出さなければすぐにゼロになってしまうだろう。そうでなくても最近の出版事情は厳しいのだと、村瀬ナツコから聞かされている。
「なあ、貴明。晴美は今日は来てないのか?」
冗談で言っている風ではなかった。
「どの裸を描いてもなんかしっくり来ねえんだ。やっぱ晴美じゃなきゃ駄目なんだよ。なあ、あいつ、今どこにいる? なんだよ。また別の男のとこ行ってんじゃねえだろうな」
「何言ってんだよ。母さんは死んだろ? お前が殺したんだろ? 冗談でもそんなこと言うなよ」
毎日毎日知らない裸の女を家に連れ込んで、それが原田の母親を狂わせた。
晩年はずっと病床で、だが一度としてこの男は見舞いに訪れなかった。
それがこんなになってから、自分がかつて妻と呼んだ女のことを思い出すなんて。
「貴明。お前……おかしくなったのか?」
「おい。どうしたんだ?」
叔父が、小走りに戻ってくる。
「なあ佳寿。貴明が妙なこと言うんだよ。晴美が死んだとか、何の冗談だってんだよなあ」
その言葉に、叔父は苦笑を浮かべて原田を見やる。
「いや、今日は晴美さん、ほら、画商の方を回っててさ」
適当に話を合わせ始めた叔父を横目に、原田は席を離れた。
けれど実情は高齢者向けの有料ホームだ。
受付で記名を済ませると、担当職員の中西妙子が立派な大根のような腕を見せて原田たちを出迎えた。
「もう少し痩せなきゃ描かんと言われましてね。こっちはセクハラだ訴えてやるって言い返すんですけど、お前にセクシィはないからそれならパワハラだって笑われるんです」
面白い話のつもりだろう。
愛嬌ある丸顔に眼鏡が乗っている。マスクをしているから表情はあまりよく分からないが、明るくて大きな声の彼女は、入所者たちの評判も悪くないと聞いている。
「このお時間でしたら、カフェテラスにいらっしゃると思いますよ」
「そうですか。ちょっと顔出して、すぐ帰りますから」
叔父はそう言ったし、原田も同じ気持ちだったが、
「せっかく来られたんだし、ゆっくり話していってあげて下さいよ。最近はよく昔話をされるようになって、やっとここに馴染んでこられたのかなって思ってるんです」
入所したのは六十の時からで、原田の母が亡くなったその年の十二月だった。もう丸二年が過ぎてしまったのか。
未だに父から何の謝罪の言葉も聞いていないことを思い出し、マスクを付けた口の中に言いようのない苦味が広がった。
エレベータで三階に上がる。
中西は女性職員と楽しげに話している父を指差し、自分はさっさと一階に戻ってしまった。
「ちょっとお手洗いに行ってくるから、貴明君、先に顔出しててくれ」
何だかもぞもぞしていると思ったら、小便が近かったらしい。
小走りに行ってしまった叔父を見送り、原田は一人、賑やかな笑い声を上げる原田貴生の席へと向かう。
「なんだ」
その原田の姿を見つけるなり、皺の多い浅黒い肌の男の表情が歪んだ。眼光は相変わらず鬼の面のそれのように鋭いものの、丸首のセーターから覗く首筋は随分と痩せ衰えていた。
「来てやったんだよ」
「女の一人も準備できんお前に、用はない」
さっさと帰れ。
そんな言葉が続くように聞こえた。
「叔父さんも来てるよ」
「佳寿もか。また金の無心だろ? あいつの文具屋さっさと畳めって言ってんのによ、まだ爺さんの代から続いてるからとか何とか言いやがって」
机の上には隣に座らせた派手な服の女性だろうか。胸元をはだけて二つの乳房がだらりと垂れ下がらせた扇情的な女性の絵が、墨だけで描かれていた。
「これの値段わかるか? たった十万ぽっちだと。全く。どいつもこいつも俺の芸術が理解できん奴ばかりでね」
もう新しく売れるような絵は何年も描けていない。
だが本人は未だに高額取引されるトップクラスの裸婦画家だと思っていた。
「じゃあ貴生ちゃん。お時間だからウチ行くね」
「そうなの? マオちゃん今度はオールヌードだよ? 約束だからね」
「わかってるって。ほんと、貴生ちゃんて好きなんだから」
無精髭が生えた頬に抵抗なくキスをすると、ヒールを鳴らして彼女は行ってしまった。デリバリィな女性だろうか。愛里以上の厚化粧ぶりに加えて、彼女が立ち去ってもまだ強い香水の匂いが残っていた。
「貴明。お前、今作家やってんだって? それ、儲かんのかよ」
「別に。食ってくには困らない程度だよ」
結城貴司としての収入は年々増加の一途を辿っていたが、新しい本を出さなければすぐにゼロになってしまうだろう。そうでなくても最近の出版事情は厳しいのだと、村瀬ナツコから聞かされている。
「なあ、貴明。晴美は今日は来てないのか?」
冗談で言っている風ではなかった。
「どの裸を描いてもなんかしっくり来ねえんだ。やっぱ晴美じゃなきゃ駄目なんだよ。なあ、あいつ、今どこにいる? なんだよ。また別の男のとこ行ってんじゃねえだろうな」
「何言ってんだよ。母さんは死んだろ? お前が殺したんだろ? 冗談でもそんなこと言うなよ」
毎日毎日知らない裸の女を家に連れ込んで、それが原田の母親を狂わせた。
晩年はずっと病床で、だが一度としてこの男は見舞いに訪れなかった。
それがこんなになってから、自分がかつて妻と呼んだ女のことを思い出すなんて。
「貴明。お前……おかしくなったのか?」
「おい。どうしたんだ?」
叔父が、小走りに戻ってくる。
「なあ佳寿。貴明が妙なこと言うんだよ。晴美が死んだとか、何の冗談だってんだよなあ」
その言葉に、叔父は苦笑を浮かべて原田を見やる。
「いや、今日は晴美さん、ほら、画商の方を回っててさ」
適当に話を合わせ始めた叔父を横目に、原田は席を離れた。
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